アンゲリカ
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プルルルルルルルルル…
プルルルルルルルルル…
隣のデスクにある電話が鳴り響き、ユリア・クルムは書面とにらめっこしていた顔を上げて受話器に手を伸ばした。
ガチャリ。
「はい。特別養護老人ホーム、マリーエンシュティフトです。はい…ああ!マイヤーさん、こんにちは。…はい大丈夫ですよ、是非いらして下さい。…はい、ではまた後ほど。失礼致します。」
ガチャリ。
受話器を置くと、イスに座ったまま壁際の連絡ボードまで移動する。
「えーっと、マイヤーさんの息子さんが午後三時から面会と…。」
ホワイトボードに来客予定を書き込むと、キュキュッというペン音が部屋に響いた。マイヤーさんというのは数年前からこの施設にいる女性のことだ。認知症の症状の急激な悪化で家族だけでの介護が困難になり、悩みぬいた末にご家族が相談にやってきたのが四年前。マイヤーさんが入所したばかりの頃には、彼女は決まって夕方になると毎日、息子さんを迎えに学校へ行くと言って外へ出かけようとするので職員がそれを止めるのがかなり大変だった。マイヤーさんのように不思議と決まった時間帯、決まった場所でのみそうなる人はいる。過去のことを思い返しているとガチャリと扉が開く音がして、振り向くとちょうど同僚が部屋に入ってくるところだった。
「あ、シュテファン。マイヤーさんの息子さんご家族が、今日三時に面会に来るって。お孫さんも一緒に。」
今日は職員がいつもより一人少ないのでみんなそれぞれに忙しい。なので、大切な情報はなるべくすぐに共有しておく。
「へえ、半年くらいぶりかな?マイヤーさん、前に息子さんたちが来た時は、息子さんたちのことわからなかったもんね。今日はどうかな?最近は結構、穏やかになってきているけど…」
「そうだね。あの時はまだ息子さんを迎えに行くんだって言って毎日大暴れしていたころでもあったからね。あの時は不安になっちゃったみたいで、息子さんのことをひどく罵倒しちゃったのよね。息子さんはそれでショックでしばらく来れなかったのもあると思うな。」
「ここ最近は穏やかですよって報告してたんだよね?今日いらっしゃるのも、それで久々に会ってみようと思ったのかもしれない。面会の時はニコラかユリアが近くについていてあげて?」
席についたシュテファンは、話をしながらもテキパキと入力作業を行っている。よくミスしないなと、ユリアはいつも感心しきりだ。
「分かったわ。たぶんお昼ごはんの後だから、ニコラと一緒にお茶会の頃かな?今日は天気もいいし三時になっても中庭にいそうね。」
「ああ、そうだね。その時間ならまだお茶しているんじゃないかな。」
「初めて中庭のバラ花壇の前で、地べたに座り込んでずーっと花を眺めているのを見つけたときは驚いたけど、車に乗って息子を迎えに行こうとはしなくなったのよね。最初ついに運転して出て行っちゃったかとひやひやしたもの。」
「ありえないって、わかっていてもだよね。」
「ニコラがイスとテーブルを持ってきてくれてよかった。ほんとうに毎日通うからさ、マイヤーさんいつもニコニコして座ってバラを眺めているよ。ニコラが言うにはお茶しながら一緒に喋ってると、すごく若々しくて別人みたいにお喋りできるんだって。」
「彼女の症状が少しでも改善される方法が分かってよかった。」
マイヤーさんは基本的に目前のことは何でも自分でしようと試みるタイプなので、ポットなど用意しようものなら率先して触ろうとして危ない。だからアフタヌーンティーとは言っても、ぬるめのハーブティー入りのティーカップ片手にお話しするだけのささやかな会となっている。
「何にせよもう外に飛び出していかないから一安心だな。マイヤーさんって、結構力が強いからさ。」
「そうね。今は穏やかにお茶会を楽しんでくれるから、このまま気をつけてみていきましょう。」
「そうだね。…じゃあ、僕はちょっと別棟に行ってくるよ。すぐに戻ると思う。」
「はーい、じゃあね。」
そう言って同僚と別れた後は、お昼のレクリエーションだ。それもいつも通り恙なく終わり、おやつの準備を終えたところで、約束通りマイヤーさんの息子さん一家が面会にやって来た。ベージュのスラックスにシャツを着た人懐っこい感じのする眼鏡の男性の隣には、よく似た顔立ちの男の子が立っている。
「こんにちは、母がお世話になっております。」
「あ、こんにちはマイヤーさん!お母様は庭か大部屋にいらっしゃるので、ご案内いたしますね。少々お待ちください。」
スタスタと玄関から大部屋まで行って確認すると、クッキーとハーブティーでお茶をしている入居者さんたちの中にマイヤーさんの姿は見えなかった。ここに居ないのなら、やはり中庭にいるんだろうと思い、ご家族を中庭まで連れていくことになった。
「今は中庭にいらっしゃるみたいですね~。最近はもう、息子さんを迎えに行くって車に乗ろうとはしなくなって、ずっと中庭でお花をご覧になっているんですよ?」
「毎日ですか?」
「ほとんど毎日ですね。うちの職員…ニコラがお庭のテーブルでお茶会をご一緒しているんですけど、すごく穏やかで楽しそうにされていますよ。」
「はあ、なんだか信じられないですね…前回すごく怒鳴られてしまったので、僕はもう来ない方がいいのかなと思ったんですが、会っても大丈夫そうですかね…?」
心配そうな息子さんの気持ちはよく分かる。前回の面会時のマイヤーさんを思い出すと、当時の彼女は鏡にうつる自分の姿にも怪訝な表情を浮かべていたりした時期だった。ひときわ怒りっぽい時期で、彼女はお見舞いに来た息子の姿を見て泥棒が入ってきたのだとすごい剣幕で追い返した。息子さんの帰宅後はユリアも「セキュリティがなってない!」と怒られた。
「ちょっと一回お顔合わせてみましょう!…こんにちは~。」
声をかけるとマイヤーさんとお茶をしていたニコラが振り向いて立ち上がり、マイヤーさんの息子さんとお孫さんに挨拶をした。
「あ、こんにちは!どうぞ、アンゲリカさんはこちらですよ。アンゲリカさん!息子さんとお孫さんがいらっしゃいましたよ!」
アンゲリカさん、つまりアンゲリカ・マイヤーさんのファーストネームだが、彼女はニコラが指さす方向に家族を見つけると、とびきりの笑顔になった。そんな母親の様子に拒絶された記憶も新しいだろう息子さんはかなり面食らっていた。
「…お母さん、元気だった?」
「もちろん、私は元気よ?」
表情も穏やかで明朗な返事に息子さんは目をまん丸にした。そして勢いよくニコラの方を向くと困惑した表情で口を開いた。
「母は、いつもここでお茶をしているんですか?」
「はい。いつからか中庭に座ってバラの花を見るようになったので、イスとテーブルを持ってきて一緒にお茶するようになったんですよ。アンゲリカさん、ティーの時間はすごく生き生きとして楽しそうにされているので…もしかしたら、お庭のことがご趣味だったのかなって。」
ニコラが答えると、息子さんは心底意外そうな表情になった。
「いえ…母がバラを好きだとかお茶会を好むとかは、初めて知りました。むしろ昔からそういうものに興味はないのかと思って…けど、よかった。」
そう言うと心底嬉しそうな顔で隣の男の子の頭を撫でた。安心が声色からも伝わってくる。
「あら、そうでしたか。まあ時々あるんですよ。嗜好の変化もそうですが、むしろ逆にかなり古い記憶が思い出されたりとかもあって。…よかったら、お母様と少しお茶をしていかれませんか?ちょうどおやつの時間になるので、お二人とも一緒に召し上がって行かれてください。ハーブティー意外にも、コーヒー、紅茶お出しできますので。」
ニコラの言葉に息子さんは迷っている様子だった。いつも他人として認識されるし前回は追い返されたので、今は穏やかでもまた急に人が変わったようにならないか恐怖もあるのだろう。誰だって親に拒絶されるなんてことは、そう何度も経験したくないものだ。すると悩む彼が返事をするよりも先に、彼の息子が前に進み出て「はい、ありがとうございます!」と返事をした。
「よし!じゃあ、準備するから先に行って待っていてね。」
ニコラは笑顔で了解すると、お茶とおやつの準備のためにこの場を離脱していった。戻ってくるまでの間、ユリアは二人をマイヤーさんの隣に座らせた。イスは全部で四つあるので好きに座ってもらったが、お孫さんはマイヤーさんの隣に座り、息子さんは対面のイスを少し広めに引いて遠慮がちに座っていた。
「マイヤーさん!よかったですね!息子さんとお孫さんが来てくれましたよ。一緒にお茶をしましょうね!」
ユリアが話しかけるとマイヤーさんがニコっと笑顔になった。
「まあ、私にはこんなに大きな子供はいないわよ!」
彼女がそう言った瞬間、息子さんの口がきゅっと引き結ばれたのが見えた。それでも母親を心配させたくないのかギリギリ笑顔を保っている。ユリアはと言うと、明らかにいつもとちがう様子のマイヤーさんに「別人のような」という評価を正しく理解した。この彼女を初めて見たら、認知症の患者さんだと思わない人もいるだろう。それほどに今のマイヤーさんはまるで別人のように、ハキハキと話していた。
「あれ?でもマイヤーさん、息子さんいなかったっけ?」
若々しくお話しするマイヤーさんに合わせて少し気さくに尋ねてみると、彼女の顔色が変わり目はキラキラと輝いた。
「そう、私には高校生になる息子がいるのよ!とっても優しくて、自慢の息子なの!」
「…!」
うつむきかけていた息子さんの顔が上がる。
「ですよね!自慢の息子さんがいるって仰ってましたもんね。」
「そう、小さい時なんかはホントに天使だった。大きくなっても優しくて可愛い、私の息子…あの子のためなら私なんだってできるわ。最近はね?息子が怪我しちゃったから送り迎えをしているの。…あら、そう言えばもうそろそろ時間かしら?迎えに行く準備をしないと…」
ユリアは立ち上がろうとするマイヤーさんの肩にそっと手を触れ、なるべく穏やかな声色で気さくに声をかける。
「あらマイヤーさん、今日は日曜だから学校はないですよ。息子さん今日はお部屋にいるんじゃないかしら。」
「…あら、そう?そうだったかしらね。ごめんなさい、忙しくて頭が回ってないみたい。」
「…。」
久々に車で出かけようとしたので一瞬ヒヤッとしたが、以前までのユリアたち職員はいつも「今日は日曜日」ということにして彼女を留めていたので、反射的に引き止めた。マイヤーさんも納得してくれたみたいでまたイスに腰をかけた。
息子さんの方を見るとなんとも複雑な表情をしていた。そりれはそうだろう。ユリアの親族にはまだ認知症になった人はいないが、この施設で働きはじめてから認知症患者を抱えた家庭の悲喜こもごもはたくさん見てきている。それぞれに積み上げてきた歴史や関係性があり、中には最期の時まで顔を見せない家族もいる。それほど家族の精神的なダメージは計り知れないものがあるのだ。もちろん患者さん本人の苦しみを感じることが最も多いのは言うまでもないが…マイヤーさんの場合、目の前の息子さんのことは分からないが、息子さんへの愛情はずっと覚えているのだ。
「ねえ、アンゲリカさん。」
いままでずっと黙っていた男の子がマイヤーさん、つまり彼のおばあちゃんに話しかけた。何を言うのかと見守っていると、彼は唐突に
「僕はヤン、先月十四歳になったよ。アンゲリカさんの息子さんは何歳なの?」
と尋ねた。マイヤーさんは嬉しそうにヤン少年の目をみた。
「まあ、ヤン。十四歳なのにしっかりしているのね?私の息子は十七歳よ、あなたの三つお兄さんね。ヤンは何か好きなものはあるの?お勉強とか、スポーツとか。」
「僕はアイスホッケーをやってるよ。」
「まあ!私の息子もアイスホッケーをやっているのよ!ヤン、怪我には気をつけなさいね。あの子はそれで怪我しちゃったんだから!」
「うん、気をつけるよ。ね、パパ?」
彼はそう言うと、嬉しそうに声が高くなったマイヤーさんにニコッと笑い、次に自分の父親のほうを見てニヤッと笑った。
「ああ…そうだね。気を付けた方がいいよ、その…すごく痛いから。」
ぎこちないが笑顔を浮かべて彼がそう言うと、マイヤーさんは胸の前で小さく手をあげるジェスチャーをして自分の息子に話しかけた。
「まあ、あなたヤンのお父さんだったの。その口ぶりだと、もしかしてあなたもホッケーで怪我しちゃったことがあるのかしら?」
いたずらっぽい笑顔になったマイヤーさんに、震える声で返事をする息子さんは明らかに今日ここへ来た時よりも嬉しそうだった。そこへちょうどニコラが戻って来てカップとおやつを並べていく。実は、三人が話をしている間にすでに中庭に到着していた彼女は、気を聞かせて垣根の側で話がひと段落するのを待っていてくれたのだ。
「はーい、お待たせしました!こちら春ブレンドのハーブティーです、どうぞ。はい。…アンゲリカさんも新しいのにしましょうか?温かいほうがいいですよね?」
ニコラがそう話しかけるとマイヤーさんは「ええ、ありがとう」と頷いた。そして、一言
「こんなに楽しいお茶会なんだからシャルロッテもエリナも来ればいいのに。」
「?…アンゲリカさんのご友人ですか?」
ニコラが笑顔で尋ねると、彼女はニコニコと笑顔で
「お茶会仲間よ。いつもみんなで楽しいティータイムを過ごしているの。」
と言った。ニコラは「そうなんですね」と、笑顔だが首をかしげてユリアに尋ねるように目配せしてきた。残念ながらユリアにも心当たりはなく、チラリと見た息子さんの表情からしても心当たりはなさそうだった。真相はマイヤーさん本人の中にしかない。
「じゃあニコラ。私は一旦戻るね。マイヤーさん、みなさんもゆっくりされていってください。」
挨拶をすると、息子さんもお孫さんも笑顔でユリアに挨拶を返してくれた。ニコラからマイヤーさんの古いほうのカップを受け取り、ユリアは中庭を後にする。
「私もこのまま大丈夫そうなら、一旦事務所に戻りますね。」
「うん。」
そう会話を交わすとユリアは中庭を離れた。時計を確認すると、彼らがやって来てからまだ十分ちょっとしかたっていない。働いているときに限ってなかなか時間が進まないんだよな、なんて思いながら文字盤の日付部分をみていると、ユリアは今年の長期休暇まであと十日だということに気がついた。
―!あと十日でカナリア諸島だ!
ちなみに去年はマルタ、一昨年はメキシコで休暇を過ごしている。ユリアは旅好きなので、このために仕事を頑張っていると言える。
ふと、さきほどの中庭での家族のティータイムの様子を思い出す。今日は穏やかに家族でお話ができたけれど、次もそうだとは限らない。たしかにマイヤーさんの中には家族への愛情があるのだが、現状に対する認識が異なるのだ。だからこそ彼女が息子に会いたいと車を走らせようとするとき、ユリアは少しだけ胸が苦しくなる。マイヤーさんやその家族みたいになることは、いつ誰の身に起こってもおかしくないことだった。
ユリアはいままで、休暇には恋人と二人で旅行に行くことが多かったけれど、来年は両親と一緒に旅行に行くのもアリだな、なんて考える。そうして事務所まで戻ると、事務所の扉の前にシュミットさんが立っていた。なぜか服の前がびしょびしょに濡れている…
「……シュミットさん!どうされましたー?」
サッと先ほどまでの考え事は全部頭の隅に追いやり、ユリアは頭も気持ちも切り替えて彼女に笑顔で駆け寄ったのだった。




