サモワールと最後のお茶会
気がつくとカルロはアンゲリカの横にいた。
驚いて彼女の顔を見ると、アンゲリカ自身は当然現れただろうカルロに狼狽えもしていなかった。手慣れた様子でカップに紅茶を注ぎ、それはカルロの前に差し出された。カップからは湯気が立ち昇っている。カルロが驚いて動けないでいる間にもアンゲリカは先ほどのポットをテーブルの上のサモワールへ設置し、次の一杯のためにポットにお湯を注いでいる。
「アンゲリカ…」
「カルロ、お疲れみたいね?」
改めてあたりを見渡してみるとそこは大広間ではなくバラ庭園の中だった。そして自分はなぜかセッティングされたティーテーブルに腰かけている。
「え?…ああ」
未だ言葉が出ないカルロを横目に彼女は話を続ける。
「大切な用事は済んだの?エリナはね、さっきまで一緒にお茶していたんだけど、ラウラと一緒に洋館へ入っていったわよ。」
アンゲリカはテーブルの上の小さなクッキーを手に取り、それを左右に振ってみせてカルロにも勧めると自らの口にひとかけ放り入れた。
それは確かに見覚えのある素朴な形のクッキーだった。みんなとのティータイムで何度も口にしたことがあったはずだ。瞬時にカルロの頭の中で「ああ、シャルロッテが好きだったやつだな」とか「グアダルーペが釣りの餌に使ったことがあるんだよな」とか、色んな思い出がよみがえる。
エリナがクッキーを頬張ろうとして、口元まで運んだそれをストンとココアの中に落とした瞬間だって見ていた。慌ててキョロキョロと誰も見ていないか確認した後、何事もなかったかのようにスプーンですくって、幸せそうに食べていたのがすごく可愛らしかった。ここでの様々な記憶を思い返しているところで、横からくすくすと笑い声が聞こえてきた。
「もしかしてカルロ、何か楽しいこと思い出していた?」
「…まあな。皆のことを、思い出していた。」
そう言ったカルロに、アンゲリカは自分のティーカップに紅茶を注ぎながらとても優しい眼差しをくれた。紅茶を入れてくれた彼女に目礼をすると、カルロもゆっくりとカップを口に運ぶ。
「…懐かしい味がする。」
ポツリとこぼれた言葉はまるで、
「ふふふ。カルロ、おじいさんのセリフみたいじゃない。…大丈夫?」
アンゲリカが冗談半分、心配半分といった様子でカルロの顔を覗き込んだ。そんな彼女と目が合ったところで、ようやくカルロは笑みこぼしたのだった。
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「そうなんだ、じゃあ私もそのイタリアのお菓子食べてみたいな。」
「よーし、いいな!カッフェと一緒にでいいな?」
「うん。」
彼女の素直で穏やかな眼差しが素敵だと思った。
「…まるで、黄色のバラが咲いてるみたいだな。」
「え、すごいイタリアの伊達男って感じ。」
それが自分に向けられた言葉だなんて、微塵も想像していなさそうな反応。
「うまー!オレンジピール入ってる!私、大好きなんだよね!しかも中がクリーム系
ペーストで、外はパイ生地っぽいのに、意外と甘さ控えめで優しい味~!」
「お前はグルメ評論家か?…いや嬉しいなあ、美味いだろ?コレ。」
まっすぐに故郷の味を褒めてくれる満面の笑顔。嬉しくなって思春期の男子みたいに心が跳ねた。とっさに気の利いた返しができなくても、ただ笑い合えるだけで幸せを感じた。
「そんなにカッコいいか?なあ、エリナ?」
「?うん、そうだね。」
聞いていない会話に適当に相槌を打つ姿すら可愛いと思った。ばれていないと思って一人でニヤついているところも面白いし、からかうと唇を尖らせながら必ず肩を小突き返してくる所も、意外に気の強いところが垣間見えて、ああ好きだなと思うのだ。
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「そんなかんじだな…。」
アンゲリカから怒涛の質問攻めにあったカルロは、この際エリナに対する思いを彼女に洗いざらい話していた。思ったより長くなりカルロの独壇場と化していたが、退屈なそぶりも見せずアンゲリカは終始ニコニコと楽しそうだった。
「あなたが彼女を大好きなことはすごく伝わったわ!」
「…まだまだ話せるけどな。」
さすがに照れてしまい肩をすくめたカルロを、アンゲリカは手を叩いて称賛した。満足そうな彼女と目が合うと、アンゲリカは笑顔のまま真剣な眼差しで「でもね…」と話始めた。
「あなたも気がついているかもしれないけど、エリナは心の奥底に、大きな愛情と深い恐怖を抱えた子よ。それは一気に誰かが解決してあげられるような事ではなく、エリナ自身が乗り越えなければならないこと。確かにあなたの愛情は深いかもしれないけど、もし一緒に過ごしていくうちに苦痛を感じるようになったら、普通以上に大きな傷を負う可能性だってあるわ、お互いにね。」
「普通以上…?それは…まあ、人間関係ってそんなもんじゃないか?」
カルロはアンゲリカの言葉を「えらく否定的な意見だな」と思い、躊躇なく眉をひそめてみせた。アンゲリカは首を振って話を続ける。
「さっき彼女とラウラの話を聞いたわ。彼女が負った傷はとても深いのよ。彼女はまるで手負いの野良猫みたいだと思う。保護猫や保護犬って、最初はしばらく警戒心が強いでしょう?あなたはフレンドリーなワンちゃんで、目の前にあなたの一番大切なおもちゃを持ってきて彼女を遊びに誘うけど、彼女はいつまでもあなたを威嚇して、ぴゅーっと物陰に隠れてしまうかもしれない。」
「めっちゃ可愛いな。」
「オーケー、今のあなたには何言ってもそうなるでしょうね。」
そう言って半分笑いながら肩をすくめたアンゲリカに、別にふざけたわけではないと言ってカルロは即座に会話を繋げる。
「なあ。それってつまり、エリナのことを心配してくれているんだろ?アンゲリカはエリナをどう思う?」
「そうね…もし私が彼女のお母さんだったなら、なんて思ったわ。私ならもっと安心した幼少期を過ごさせてあげられたのにって。」
「そうか…俺はさ、エリナにはずっと笑っていてほしいんだ。彼女の笑顔は俺の支えなんだよ。これまでのことは俺には変えられないけど、これからのことなら。もし困難が訪れた時は、俺が彼女を支えてあげたいと思う。」
そう話すとアンゲリカはゆっくりとテーブル上のサモワールに目線をやり何やら考え始めた。そして数秒して今度はまっすぐにカルロの目を見つめた。
「…すごいわね。彼女とは前からの知り合いというわけではないんでしょう?どうしてそこまで彼女のことを、その…ここで過ごす時間があなたをそうさせたの?」
「わからない、一目ぼれなのかな。自分でも不思議だけどな。」
カルロの言葉は宙へとけるように小さくなっていき、二人の会話はそこで途切れた。お互いがそれぞれ紅茶やクッキーを口に運ぶ時間が流れていく。さて、どうしたものかと思いアンゲリカの目を見ると、目が合った彼女はパチンとウィンクをした。
「…そうね。私の質問がちょっと、野暮だったかもしれないわ。あなたたちのことは、とっても素敵なことなのに。」
「いや、俺も自分自身のことなのに説明できないことがあるなんて思いもしなかったよ。」
「ふふふ。その感じ、ちょっとグアダルーペみたいね。」
「そうか?グアダルーペに?」
「似てないだろ」と思い首をかしげながら、もう会えないだろう友人の名前を口にすると急に寂しさが押し寄せてくる。エリナだけでなく、みんなとも会いたいと願うことは望みしすぎだろうか。そんなカルロにアンゲリカが少し困ったように微笑みかける。
「もしかしてグアダルーペのこと思い出した?あなたたち仲が良かったものね。」
雰囲気が暗くなったのが伝わったらしくアンゲリカに心配そうな顔で見られると、カルロは自分の落ち込みを彼女のせいにしたくなくて、慌てて口元に笑みを作った。
「…まあな。もうみんなには会えないんだろうなと思うと、ちょっと寂しいなと思ってな。こんなよく分からない不思議な場所で出会ったんでなければ…普通に友達として会えた世界もあったのかなと思うと、悔やまれるというか。惜しまれる、というか。」
カルロが内心を打ち明けると、アンゲリカはティーカップの取っ手を触り遠くを見ながら思案した後すぐに口をひらいた。
「そうね、けどずっと交流が続く友人関係こそ良いものだってわけでもないのよ。長く生きているとね、過去を振り返ってみたときに気がつくの。たった一度の出会いが一生心に残るものになったり、十年ぶりに出会った友人とまるで昨日ぶりみたいにして話せたり。大切な出会いと言うのは案外、共に在った時間の長さと関係がなかったりするのよ。」
「……ああ。」
「ね?私たちは確かにこの不思議な世界で出会った、けどそれがどうしたっていうの?これが元の世界であってとしても、結果はさほど変わらなかったかもしれないわ。むしろここにいたからこそ、たくさんお話しできたのかもしれない。住んでいる国だって違うんだもの。もしもいつか、私があなたたちの名前も顔も思い出せなくなる日が来るとしても、みんなと一緒にいて楽しかったこの気持ちだけは私、きっと、ずっと覚えているわ。」
「………なんかものすごく年寄りみたいな言い方するんだな。長く生きたって言うけど、俺とひと世代くらいしか変わらないだろ?」
カルロは思わず涙がこみ上げてきそうになり、誤魔化そうと茶化して失礼な物言いをしてしまい反省したが、アンゲリカは気にした様子はなくむしろ可愛い息子を見るようにカルロに微笑んだ。さすがに照れくさくて目をそらす。
「あなたもエリナも。それぞれまず、自分の幸せを考えるのよ?」
「……ありがとう、アンゲリカ。」
カルロもこれだけはきちんと想いを込めて伝えたくて、すぐに逸らしていた目をもどしてしっかりと礼を言った。本当はハグもしたかったがなんだか息子扱いを受けそうで恥ずかしかったのもあり、体は動かなかった。しかしそんなカルロの気持ちを見透かしたように、アンゲリカはニヤッと笑ってカルロを抱きしめてくれた。カルロはアンゲリカの優しさと確かな母性を感じながら、もう一度お礼を言った。
「うふふ。さあ、あなたはエリナのところへ行ってあげなさい。たぶん湖の方にいると思うから。」
「え?さっきの話だと、洋館の方に行ったんじゃなかったか?」
「ええ。けど、湖の方に行けば会えると思うのよね。女の勘…いや、母親の勘ってやつかしら。」
そう言ってウィンクをするアンゲリカは、今度は一瞬でいたずら少女のような雰囲気を纏っていた。こういうのを魅力的な女性というんだろうなと思い、カルロは思わず笑顔になった。
「そうか、信じるよ。」
手元のティーカップはもう冷めてしまっている。最後にぐっと飲み干して立ち上がると、さっきよりも体が軽い気がした。イスの背に手をかけたまま遠くの湖を眺めると、こんな日にも風は穏やかに吹いていて、遠くにみえる山々もいつも通りだった。カルロは最後にもう一度テーブルのアンゲリカに向き直る。
「アンゲリカ、君はいつだって場を明るくしてくれた。君の話はウィットに富んでいて、優しさに溢れていて、本当にとても楽しかった。今は寂しいけど、俺もみんなと過ごせて楽しかったこの気持ちをきっと、ずっと覚えているよ。」
「こちらこそ!みんなとお話ができて、とっても楽しかったわ。良い冥途の土産ができちゃった!」
「はは、だからそのお婆ちゃんみたいなのやめろって。」
「ふふ。私はいつだって若者の幸せな未来を願っているわ。」
すこしの間笑った後、二人はどちらからともなく「それじゃあ、また」と口にした。アンゲリカとは、他のみんなの時とは違ってお別れを言う時間があったので、最後まで名残惜しく感じた。それを振り切って彼女に背を向けると、あとは一切振り返ることはなくカルロはひとり湖へと歩き出したのだった。




