ラウラのダージリン
キイ…
扉を開くと、まず目に入ったのは、深みのある光沢を放つブラウンの大きな円卓だった。円卓の足元には立派な絨毯が敷かれていて、その上を歩くとまるでエリナの存在を隠すように足音が吸い込まれていく。奥にみえる庭は、春の色だ。窓からやわらかな風と、きらきらした光が入ってきている。
「あら、こんにちは。はじめまして。」
庭の方から声がしたかと思うと、奥のテラスにつながる掃き出し窓から、新緑の色のワンピースをきた女性が部屋に入ってきた。逆光で見えづらいが、女性は光に照らされた亜麻色の髪を低い位置でまとめ、すっと伸びた背筋は美しく、凛としたたたずまいを醸し出している。エリナの入室に気が付き、外から挨拶をしにきてくれたようだった。女性は少し早歩きで、エリナの目の前までやってきた。
「こ…こんにちは、えっと…。」
エリナは挨拶を返したものの「不法侵入だって責められるかも」などと考えて、とっさの言い訳を探そうとしていた。そんなエリナの顔を見るやいなや、やわらかい微笑みをたたえていた彼女は「あっ」という顔になった。
ーーあっ…なんだ…?
女性の方も不思議そうなエリナの表情をみて、自らの誤魔化しようのない不可思議な反応に気がついたようだった。
「ああ、ごめんなさい。ちょっと…知り合いに、似ていたから。変な反応だったでしょ?」
「あ。はい、大丈夫です…私も、突然来てしまったので…?」
想像よりもフランクな感じで、責められることすら想定していたのに逆に謝られてしまった。彼女の反応に拍子抜けし、むしろいい加減な返事をしてしまったことを反省する。
その間も女性はじっと、エリナを見つめていた。気まずさよりも不思議が勝ったエリナは、自分も彼女の顔をじっと見つめた。
スッとした切れ長の目が印象的だ。きっちりとした身なりをしていて、年齢は自分より一、二世代ほど上の女性だろうか。見つめていると、秋をかんじさせる赤色に彩られた彼女の唇がやわらかく微笑んだ。
「改めまして、私は…ラウラと申します。こちらのお部屋で…そうですね、女主人のような役割を仰せつかっております。」
今度こそ、印象通りの挨拶をうけた。女主人というのも信じられる、優雅な所作に目を奪われる。
――さっきの変な反応は、なんだったんだろう。
あの瞬間の「あっ」という反応。本当に、知り合いに似ていたからなのだろうか。色々と考えたいところだがひとまず、挨拶をされたら返すのが礼儀だ。
「はじめまして、ラウラさん。沢井エリナと申します。エリナの方が名前です。」
ラウラの顔立ちは明らかに日本人ではなさそうだったので、とっさに名字と名前の説明をしてみたが、要らない世話だったかもしれないと後から思う。そもそもここが、自分の知っている世界と同一かというと、かなり怪しい。色々と考えているとそれが伝わったのか、彼女の雰囲気がほんの少し柔らかくなった気がした。
「ふふ、ご丁寧にありがとうございます。エリナ、と呼んでもいい?わたしのこともラウラ、と呼んでくれる?」
ニコニコと微笑む彼女は、やわらかさと強さを同時に感じるようなエネルギーに満ちた女性だった。
それにしてもこのラウラという女性は先ほどからずっと、エリナの顔をニコニコと微笑みながら見つめている。しかしエリナとラウラが出会ったのはこの日が初めてだ。それなのにラウラは、まるで母親が小さい子を見守るような笑顔をまっすぐエリナに向けてくるのだ。そのことに気がついてからエリナは、どんどんむず痒い気分になってきていた。居心地の悪さをごまかすように、思いついたままのことが口をついて出る。
「あ、ありがとうございます。ラウラ、あの…素敵なお名前ですね。」
なぜか、口説き文句のような言葉が出てしまった。
どうしてこんなに熱心に見つめられているのかは分からない。けれど不思議なことに、実はエリナの方も、この部屋に入ってテラスからやってきた彼女を見た瞬間、少し特別な気持ちになったことを分かっていた。ちょっぴりノスタルジックな、懐かしさや、せつなさのような、そんな気持ちがじんわりと心の中に広がったような気がしたのだ。エリナはなんとなく、彼女も同じものを感じているのではと考えていた。
「まあ、ふふ…ありがとうございます。あなたもとても素敵よ。優しくて、強くて、そういう美しさがにじみ出ているもの。」
ーーなんか、ものすごい褒められる…!
まるであらかじめ発言を決めていたのかと思うほどにスラスラと言ってのけたラウラに、ほとんど消えかかっていたエリナの警戒心が鎌首をもたげる。経験上、こうやって耳心地良い言葉で持ち上げてくる人間に対しては警戒するに越したことはないのだ。一瞬にして思考が冷静に切り替わった。
エリナは、ラウラがテーブルの上に薄紫色の小さな花を飾るのを目で追いながら、彼女の出方を待った。
ーーけど、花を生ける所作は美しい…
一瞬、彼女の美しい所作に目を奪われたエリナが急いで彼女に視線を戻すと、ラウラは先ほどと同じくずっと、親が子供を慈しむような表情をしてエリナを見つめている。今度こそエリナは赤面してしまった。
ーー眼差しが、ずっと優しい。
エリナは物心ついた時からこの年になるまで、年上の女性からこんなに優しく、愛でるような目線を受けたことは、記憶上ほとんど無かった。エリナは初対面の相手に気を許しそうな自分を恥じたし、また一方では、真に自分に向けてくれているだろうあたたかな感情を、うまく受け取れないでいる自分を恥じた。
ーーなにか、なにか会話を続けないと…
なんとかして自分を隠してしまいたい。実際に赤くなっている自覚もあり、どうにか次の言葉を絞りださないといけないという思いに駆られたエリナは、先ほどのやり取りの中で実はひっそり考えていた疑問をぶつけてみることにした。
「あ、ありがとうございます。そういえば、こちらは一体どういった場所なんですか?私、外に…えっと。気づいたら街の中にいたんですけど、見たことない街で、人が誰もいなくて。船があったから、自分で漕いで、こちらの屋敷の前までやってきました。そしたら…」
そこまで話して、エリナはくま執事の存在を思い出した。ふと後ろを振り返えってみる。
くま執事は、エリナと一緒に入室していたようで、先ほど入ってきたドアの前に控えており、じっとこちらを見ていた。
「あちらの、執事服を着ていらっしゃる、くまさんが私の前に現れて、ここまで案内してくださったんです。」
「そうだったの、ここまですごく頑張ってきたわね…。ところで、彼はちゃんと紳士にふるまっていましたか?」
「ええ、とてもよくしてくださいました。私の意思を、尊重してくださったんですよ。」
自分の手でドアを開ける意思を示したとき、くま執事が少し慌てながらも、エリナの次の行動を待ってくれたことは嬉しかった。この奇妙な世界で初めて少し安心できる気持ちになれたから、エリナはくま執事のことを好意的に伝えた。
「ふふふ…ちゃんと紳士にできたようでなによりです。彼は仕事はできるし、すごく優しくて頼りがいがあるんですけど、少々気まぐれで、そそっかしい面もありますからね。」
ラウラは、私に向ける優しい笑顔とはまたすこし違った、少し幼さが顔をのぞかせた微笑みで、くま執事の方に目線を向ける。ラウラとは今日初めて出会ったのだがエリナは「意外だな」と思った。
ーー二人は既知、で仲良さげかな?
くま執事のほうを見ると、相変わらず何も話さない。しかしエリナにもわかるくらい、彼はちゃんと不貞腐れているのがわかる表情をしていた。けれど照れも見え隠れするそこに、負の感情は全く感じられない。ラウラのほうも、ニコニコとくま執事を見つめて話していて、これが二人の「いつも通り」なのだと察した。
ーーさっきも思ったけど。くまさん、すごい表情豊かだなあ。
拗ねたような顔のテディベアとニコニコ見つめあうラウラを見て、エリナはだんだん笑いが込み上げてきた。
「たしかに、くまさんって気ままなイメージありますもんね。甘いものに夢中になったりとか。」
なんとなく、黄色い熊さんを思い浮かべながら同意してみたが、こういった返しが正解なのかはわからなかった。本当は黙っているのが吉なのかもしれないが、エリナは喋ったり行動したりして自分の立場を確立していかないと、不安になるタイプだ。
「ほら、甘いもの好きまで見抜かれてるじゃない。」
ラウラが笑うと、くま執事はプイとそっぽを向いてしまった。本当にぬいぐるみが命を吹き込まれて動いているかのようで、元来、かわいいものが大好きなエリナは今度こそ、声を出して笑う。
「あはは!」
「!かわいいわよね、彼?」
「はい!失礼になったらごめんなさいなんですけど、正直めちゃくちゃかわいいです!」
「あはは!ですってよ、よかったですね。」
いじりすぎたみたいでとうとう、くま執事は恥ずかしそうに部屋からでていってしまった。あらら…と、おもう暇もなく。
五秒後、くま執事は再び、今度は銀のワゴンを携えて部屋に戻ってきた。
「ええ~、はや!」
エリナは慎重派だが、リアクションはきっちりとる派でもあった。
「ね?仕事はできるのよ、彼は。」
先ほどまで母親のような眼差しでエリナを見ていたラウラは、今はいたずらっぽいお姉さんのような表情をして笑っていた。
ーーラウラ、くまさんが来てからすごく楽しそうに笑ってる。
エリナはうんうんと相槌をうちながらニコニコと笑った。するとラウラはおもむろに銀のワゴンに片手を置き、くま執事のすぐ隣に並び立った。
「…よし、じゃあ。さっそくだけれど、一緒にお茶でもいかがですか?」
よく見ると、くま執事の運んできた銀色のワゴンにはティーセットとスコーンがのせられている。
ーーあの一瞬で?
部屋の外、廊下の造りを見てきたエリナからすると、くま執事が帰ってくるまでの速さと持ってきた物を考えると、頭の上に疑問符が浮かぶ。
ーー部屋の外、来たときには何も用意されてなかったよね…?
頭が痛くなりそうだったが、目の前には美味しそうなお茶会セットがある。もういっそ目の前のものに心を奪われてしまうことにし、エリナは早々に頭を切り替えた。
「え!いいんですか?私、お茶大好きなんです!スコーンまであるじゃないですか!」
警戒心を意識的に思考の隅の方へ追いやったエリナだが、ただの食いしん坊ともいえる。
「やはり、お茶会は女性の心をつかむもの…!」
うんうん、と頷くラウラの横をくま執事が通り過ぎていく。部屋の大きなテーブルではなく、奥に見える庭までワゴンを運ぶらしい。
「さあ、さっそくお茶にしましょう。お茶はダージリンにしましょうか。お作法なんてないから、気楽に楽しんでね。お茶会に必要なのは3つ。美味しい紅茶と、美味しいおやつ、気ままで楽しい会話よ。」
そういいながら、ラウラは左手をテラスの方へ差し出す。エリナがゲストとして先に進むように、待ってくれているようだった。
一瞬だが、エリナの胸にためらいと不安がよぎる。
しかしエリナは、たった今のラウラの仕草が、先ほどこの部屋のドアの前でくま執事が見せた仕草と全く同じだったことに気がついた。もう一度、先ほどのくま執事の姿を思い返す。
ーー大丈夫。くま執事も彼女も、きっと、信頼できる。
エリナは心をととのえて、しっかりと一歩目を踏み出した。
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部屋の右奥にある大きな掃き出し窓からテラスにでると、丸いティーテーブルが三つあった。真正面にはテラスを降りる階段があり、柵を隔てて下には小さなバラ庭園がみえる。ここは少しだけ小高い場所にあるようで、一体どこまでが敷地なのかと思うほど、バラ園の向こう側にはなだらかな草地が続いている。そこには、ところどころ生い茂った木々が森を形成しており、ずっと遠くに雪冠を戴いた山々の連なりが見える。少し歩いたらたどり着けそうな距離には、湖のようなものが見えた。
エリナが大きく深く息を吸い込むと、雨が降っていたのか、ややしっとりとしていて澄んだ空気が、外に出た解放感も相まってとてもおいしく感じられた。
「はぁ~気持ちいい!このテラスからの景色を眺めながら、ティーを嗜むのが一番の癒しになんだにゃあ。」
「確かに……え?」
バラ庭園の方から声がしたかと思うと、声の主は軽やかな跳躍でスタッ、とテラスの柵上へと降り立った。
「ティータイムなら、私も一緒にいいかにゃ?」
そこに立っていたのは、二足歩行の真っ白ふわふわなネコちゃんだった。
「ええ?!二足歩行ねこちゃん!!!」
なんとなく、既視感のある展開だった。
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