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ももか

 

 八月最後の週、アンナはなんとか短い夏休みを作って松山へとやってきていた。なんとなく、先日の旅行でリザと一緒に引いたおみくじに書いてあったことを、実行してみたい気分になったのだ。夏真っ盛りの瀬戸内はまだまだ暑く、留学生時代を合わせて数度目になる日本の夏には、いましばらく慣れる気がしない。

 駅前の観光案内所で市内の観光地をチェックする。パラパラと資料をめくっていると、街のはずれにある山の方にフランス建築の旧領主の館があることを知った。欧風の建物が写るパンフレットを見るとその風景に懐かしさを覚えた。アンナは館を目指して路面バスに乗ることにした。


 路面バスに揺られながら街並みを眺める。過ぎ行く景色を横目に、アンナはこれまでの自身の人生に想いを馳せていた。遡って振り返っていくと幼い頃の思い出が溢れるようにして思いだされる。

 アンナが幼い頃、アンナの両親は離婚した。少々複雑なことに、アンナは父とも母とも暮らしたことがある。幼い頃に父と暮らした後、父が亡くなってしまい母の元に引き取られたのだ。当時は貧乏なせいで毎日塩でゆでたジャガイモとりんごのムースしか食卓に上がらなかった時期があった。けど食べなければお腹はすくし、違うものが食べたいと言えば母は怒り狂ってアンナを殴った。


「あたしのせいだっていうの?!何にもできないくせに、文句ばっかり言ってくるんじゃないよ!」


 母が怒っているとき、アンナが静かに母を見つめ返すと母は顔を歪ませ、苦しみをごまかすようにアンナへと手がのびた。そんな母をずっと見てきたアンナは彼女がとても寂しい人間なのだととっくに気がついていた。


 ――お母さんを悲しませる何かを、一緒に解決できたなら。

 ――その先できっとお母さんは笑顔になってくれて、私たちは本当の家族になれるんじゃないかな。


 アンナが初めてこう考えたとき、アンナは十三歳だった。

 だからアンナはできるだけいつも母親と一緒に食事をとるようにしていた。いつ殴られるかもしれないことが分かっていても、いつか自分が母のためにしていることが実を結んで、優しい母と一緒に暮らせる日が来るんじゃないかと本当に信じていたのだ。

 結局母がアンナの想いに気がつくことはなく、彼女は他の「誰か」からの愛を求めて「アンナ」から送られる愛には気付かず、ついにアンナに愛を示してくれることはなかった。思春期のアンナにとってこの現実は辛いもので、学校に通うバスの中で人知れず泣いてしまったこともあった。

 それに大人になった今、アンナを悩ませるものはそれだけではなかった。


 ーー私もいつか母のように激情に支配されてしまうことが怖い。


 アンナは自分が母のようになってしまうことをとても恐れていた。実際アンナが誰かに対して暴力的にふるまったことは一度もなかったのだが、恐怖だけはどうしてもぬぐえなかった。

「虐待を受けた子は大人になったら絶対虐待するからうちの子に関わらせたくない」と、よりによって自分をベビーシッターとして頼りにしてくれていた女性に言われてしまったこともある。あの母の子供だというだけで説得力を増すように思えるそれは、アンナをぐるぐるとその場に踏みとどまらせる枷になっていた。ふとした時にこの時のことを思い出し、暗い気持ちになってしまう。


 次に現実に意識を戻した時、目的の停留所に辿り着いていた。慌てて電車の外に降りる。


 ーー暑い…


 じりじりと肌をやく日差しに数十秒も耐えられず小走りに日陰へと駆け寄る。湿度も気温も高いので日陰でも涼しさは全く感じられないが、直射日光を浴びるよりはましだ。アンナは日本にやって来て初めてなぜ日本人が晴れの日にも傘をさしているのか理解できた。一度友人に借りて分かったのだが、あの中にいると格段に涼しく感じるのだ。このあと記念にどこかのお店で日傘を買ってこようかな、などと考えながら山間にある旧領主館を目指して坂道を上っていく。


 館に辿り着くと、まず大きな正面のドアが目に入った。それから全貌を目に入れようと顔を上げたアンナは二階の窓際に栗色の髪の背の低い女性の姿をチラリと目の端に捉えた。

 その姿が見えた瞬間、一気に心がざわめいていくのを感じた。体に少し力が入る。


 ーー私、あの女性を知っている気がする。


 どこかで会ったことがあっただろうか。アンナは彼女の正体を確かめたくて急いで館に入った。パッと見る限り他の来館者たちの姿は見えない。手早く入場券を購入し二階へとあがり、先ほど姿の見えたあたりの部屋に行くと彼女の姿はもうなかった。


 ーー先に進んでいるのかもしれない。


 なぜこんなにも彼女を追いかけようとしているのかは分からない。彼女を見つけてどうするのかも分かっていなかった。それでもアンナは順路をどんどん進んで行く。すると先ほどの部屋とは反対側の一番奥の部屋に彼女は立っていた。近づいてみると年配の女性がそばについていて彼女と話をしている。


「おばあちゃんありがとう。ずっと来てみたかったの。ここってすごく小説の世界みたいじゃない?」


「そんなに喜んでくれるなら、来てよかったねえ。」


 アンナはニコニコと笑う二人を部屋の入り口にたたずんでじっと見つめた。栗色の髪の女性はまだ幼さの残る少女だった。背の低い彼女は片腕に本を抱えており、すこし興奮した様子で祖母らしき女性と話していた。


 ーーなんだ、知らない人だった。


 少女をみつめていると、少女の方もアンナに気がついた。


「わあ、シャルロッテみたい。」


「!」


 突然自分の存在が少女に認知され、さらに投げかけられた言葉にアンナは驚いた。


 ーーその名前は聞いたことがある気がする。けど、どこだったっけ。


「ああ、突然ごめんなさい。えっと日本語、大丈夫ですか?」


「あ、はい少し。大丈夫…」


 少女に話しかけられて日本語で返事をすると、彼女の祖母が感心した様子で「まあ、すごいねえ」と破顔する。真っ直ぐな賞賛に照れていると、彼女は嬉しそうな顔で手に持っていた本を見せてくれた。


「私、この本が大好きなんです。この主人公のシャルロッテにお姉さんがそっくりだったから。思わず声に出してしまいました。」


 本の表紙には水色のドレスで金髪に青瞳のキャラクターが描かれている。隣にはピンク色のドレスに栗色の髪で緑目の少女もいる。おそらくマンガか、ティーン向け物語だろう。アンナ自身はこれが自分に似ているとは思わなかったが、この少女にとっては金髪に青い瞳で外国人なのがポイントなのだろうと思った。


「髪と目の色が似ていますね。フフ、私は外国人…ドイツ人ですから。」


 笑って言うと、少女はぱあっと顔を明るくした。


「お姉さんはドイツ人なの?私、初めてドイツ人に出会ったかも。私とお話してくれてありがとう。」


 突然お礼を言われて面食らっていると。隣にいる少女の祖母が少し困ったように眉根を寄せた。


「この子はいつも病院にいるから、あんまり外に出ないのよ。人とお話しする機会もあんまりないからねえ。」


 言われてみると確かに彼女の肌は青白く、すごく健康的という風には見えなかった。そう認識した途端、彼女のことが心配になってくる。


「そうなんですか?今は大丈夫?」


「うん。いっぱい疲れなければ大丈夫。」


 少女の言葉にひとまず安心する。


「ねえ、ドイツってどんなところなんですか?」


 少女が興味津々にアンナに質問を始めると、彼女の祖母が遠慮がちな顔で彼女を制した。


「ほら、ももかちゃん。お姉さんもせっかく来ているんだから、あんまり引き止めたらだめよ。」


 そういうと、ももかちゃんと呼ばれた少女はショックを受けた表情に変わり「ごめんなさい」といって悲しそうに笑った。その表情を見たせいなのか、それとも窓辺に彼女の姿を見た瞬間からそうだったのか。アンナはチラリと時計を見た後、ごく自然に思い切った提案をしてみた。


「あの、もし時間がありましたら一緒にランチはいかがですか?もしよければドイツについてもっと、楽しいお話しできると思います。」


 思いつく限り丁寧な日本語で誘ってみると、少女は一瞬で顔をほころばせた。彼女が急いで隣を見上げると、彼女の祖母がとても驚いた顔をしている。


「あらまあ、いいんですか?何か別に用事があったんじゃないですか?」


 少女の祖母が遠慮がちな態度のままアンナの表情を伺う。アンナは彼女を安心させるようにひたすら柔らかい笑顔で応じた。


「私は問題ないです。お二人は大丈夫ですか?」


「ええ、大丈夫です。ちょうどこれから、ご飯を食べて帰ろうかと話していたところでしたので。それにしてもまあ、あなたは優しいのねぇ。ありがとうございます。」


 彼女の祖母は未だに遠慮がちな雰囲気だが、少女の嬉しそうな表情を見て先ほどよりは柔らかい表情になっている。こうして三人で館を歩きながら、話し合って近くの百貨店のレストランに入ることにした。道中そんなに距離はなかったが入院しているという少女のため、大事を取ってタクシーで移動することにした。三人はタクシーの中で改めて自己紹介をする。


「私はアンナ・ミュラーです。ドイツから来ました。今、広島に住んでいます。」


「そうなんですか。私は在自(あらじ)ヒサコです。この子は私の孫で…ほら。」


在自(あらじ)ももかです。あの、私いつもは病院にいるんだけど今日は先生が久しぶりに、近くならお出かけしていいって言ったから、おばあちゃんとお出かけしていたの。」


「そう、いいね!」


「うん。よかった!ごはんも楽しみ!アンナちゃんは何が食べたいの?」


「私は…」


 そんな話をしているうちに百貨店に到着した。ヒサコさんのおすすめだというお店に三人で入店する。アンナも大好きな和定食のお店だった。相当嬉しかったのかももかのテンションはかなり高く、注文をするだけでもメニューを広げてとても楽しそうにしていた。注文した後はごはんが到着するまでの間、アンナはももかとヒサコさんにドイツの友人と取った写真や風景写真を見せていた。


「わあ、これがドイツのクリスマス?すごくきれい!」


「そう、これはクリスマスマーケット。一カ月くらい街の広場にお店がたくさんになる。そして大人はグリューワインという温かいお酒を飲みますけど、子供は温かいジュースやココアを飲んで、家族みんなで楽しみます。」


「へえ、そうなんだ!いいなあ。」


「さすが、むこうのクリスマスは本格的ねえ。」


 三人でアンナの携帯に入っている写真を交互に見て楽しんだ後は、SNSで検索した他地域の有名なクリスマスマーケットも二人に見せた。


「わあ、これ!ものすごく大きなクリスマスツリー!」


 ももかは目をキラキラさせて、食い入るように画面を見つめている。そのまま彼女に携帯をもたせて一緒に画面をのぞき込む。ももかがスライドさせた画面がひょいと海の動画になり、黒髪の男性とイルカが一緒に映った映像に切り替わった。


「あ、イルカだ。かわいい。私も、海に行って見たいな。」


「いいね!瀬戸内にはイルカはいますか?いたら、一緒に見に行きたいね?」


 アンナがそう言うと、ももかはとても嬉しそうな顔になった。


「…ねえ、アンナちゃん。また、ももかと一緒に遊んでくれる?」


 そう聞かれて少し驚いたものの、ももかの純粋で真っ直ぐな顔をアンナは微笑みながら見つめ返した。子供からこうやって純粋にゆだねるような感情を向けられることは初めてのことだった。それがこんなにもくすぐったくて心地がいいだなんて。自分が彼女くらいの頃、大人に対してこんなに真っ直ぐな感情を向けたことがあっただろうか。


「もちろん!」


「本当?!嬉しい!ねえ、次はいつ来れる?」


「こらこら、ももかちゃん…」


 ヒサコさんが制するが、アンナは笑顔でそんな彼女を安心させた。


「いつでも!広島と松山は近いです、いつでも遊びにこれます。」


 働き始めてからなかなか外へ遊びに行くことをしていなかったアンナに、外出の前向きな目的ができた。忙しさを理由にやってこなかったことも、ももかと会えるならやってみようという気持ちになってくる。それにアンナは入院していてあまり外に出られない少女にとって、何気ないごく普通の会話すらも特別であることをひしひしと感じていた。


「私と、お友達になってくれるの?」


 先ほど彼女の祖母がみせたような遠慮がちに顔色を伺うような仕草。けれどその表情には、隠しきれていない期待の色が見える。アンナはストレートに、自分を信頼してくれているのだなと感じた。こうしていると過去の自分ができなかったことを、今この少女が代わりにやってくれているような感覚さえ覚える。


「もちろん、もう私たちはお友達!ももかちゃんの好きな本の話も教えてほしい。シャルロッテおの話は、どんなお話ですか?」


「これはね?シャルロッテは貴族令嬢で、お茶会が大好きなんだけど…」


 ももかの生き生きとした表情に、ヒサコさんも今は何も言わずにただ笑顔で見守っている。アンナも食べる前から満たされた気持ちになっていた。



20241017_修正

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