罪悪感とフィーカ
――今日も快晴だなあ。
室内からテラスに踏み出しバラ庭園に下る階段の手前で立ち止まってぐぐっと背伸びをする。腕を降ろして息を吐き、そして吸うと、澄んだ空気が体いっぱいにめぐるのを感じた。この瞬間はいつも空気がとってもおいしく感じる。
「はあ~、こうも空気が澄んでいると心まで洗われるようだわ。」
声のした方を振り返るとマリーサもテラスへやって来ており、同じく背伸びをしていた。あくびまでしているマリーサは少し眠たそうな表情だ。
「ちょっと分かるかも。この瞬間だけ、心身ともに健康になっていく感じ。」
「日々の小さな罪が洗い流されていくかんじね。」
「ふふ、罪?」
ピンと来なかったので、笑いながらも疑問符を呈してみる。
「罪っていうと大げさだけど。なんかさ、日々の生活でやっちゃったなあと思う失敗とか、ちょっと罪悪感のある選択をしちゃったって自覚する時とか、ない?」
「へえ、マリーサにも罪悪感とかあるんだ。」
「ちょっと!」
エリナがからかうと、マリーサは笑いながらエリナの肩を軽くはたいた。
「エリナ?あなた私を何だと思ってるのよ!私なんて、毎日罪悪感まみれよ!」
「それもどうなのよ。」
ゲラゲラとエリナが笑うと、エリナのその顔に満足したような様子で、マリーサは庭園に一番近いいつものテーブル席についた。
本日のティータイムは、スウェーデンのフィーカ風だという。
先日タマラがみんなに話してくれたのだが、フィーカとは同僚や近しい人間と共にするコーヒー休憩で、厳密には普通の休憩よりもっとくだけてリラックスしたものらしい。仕事の合間などだいたい午前と午後の仕事初めから1~2時間目に、仲間内でコーヒーを飲みながらリラックスする時間となっている。
先ほどまでエリナとマリーサ、グアダルーペ、カルロ、シャルロッテの五人で「今日は湖の方へ遊びに行ってみよう!」という話をしていたのだが、カルロとグアダルーペが釣りの準備をするというので今はちょっとした待ち時間となっていた。「じゃあこの間にフィーカを楽しんでみましょう!」というラウラの提案でマリーサ、エリナ、シャルロッテの三人はそれを実践してみようとしていたところだった。
二人が席についたところで、室内からシャルロッテとラウラが会話をしながらテラスにやって来る。後ろにはいつものように銀のワゴンを押したくま執事がついてきており、テーブル手前で立ち止まった二人を追い抜き、くま執事はあっという間に本日のカフェセットを並べていく。
「ごきげんよう、エリナ。マリーサもごきげんよう。」
「あっ、ごきげんよう。」
これはシャルロッテと私の間で最近はやっているやり取りだ。おかしなやりとりだがマリーサは特に気にした様子もなく二人に挨拶をした。
「あら、ラウラも一緒にフィーカする?のかしら?」
マリーサの質問に首を横に振ったラウラが、庭を指さす。
「今日は彼女たちと一緒にお庭のお手入れなのよ。」
指さされた方向、庭園の左端のほうを見やると、白と黒のネコちゃんたちが二匹で庭作業をしているのが見えた。エリナは猫の手も借りたいという言葉を連想した。
「ああ、タマラとビクトリアも庭にいたのね。」
マリーサは納得した表情で二匹の様子を眺めている。二匹はこちらに気がついたようで耳がピンとこちらを向き、遠くからでも黒のしっぽと白のしっぽがゆらゆらと揺れているのが分かった。
――癒されるなあ。
そう思ってエリナが手を振ると、真っ白なタマラが一生懸命に前足を伸ばして手を振り返してくれた。
「ふふふ、かわいいわ。」
席についたシャルロッテがそのやり取りを見て笑った。テーブルの上に目をうつすとエリナとマリーサのカップにはすでにコーヒーが注がれており、シャルロッテのカップにはジンジャーティーらしきハーブティーが淹れられていた。中心にはアイビーの観葉植物とその横にカネールブッレ、つまりシナモンロールがたくさん盛られた大皿が置かれている。全員が席についた事を確認すると、エリナはさっそくそれに手をつけた。
「いただきまーす」
手に取って一口かじってみると、口の中がシナモンとカルダモンの香りに満たされる。上に振りかけられた小さな砂糖が食感のアクセントになっており一口でもすごく満足度が高い。もぐもぐとシナモンロールを咀嚼しながら、エリナは冒頭のマリーサとのやり取りを思い出していた。するとマリーサから
「これはカロリー高そう。罪悪感だわ。」
そんな言葉が漏れ聞こえてきて、エリナは思わず笑ってしまう。
「あはは、マリーサ!」
二人でゲラゲラと笑っていると、シャルロッテが不思議そうな顔をする。
「…ねえ、罪悪感ってどういう意味かしら?」
そう尋ねて、シャルロッテはシナモンロールを手に取る。
「ああ、さっきね。ここは空気がおいしいから、綺麗さで日々の罪が洗われるようだって話してたの。そこからマリーサに罪悪感なんてものがあるのかって話になって、ふふ…」
そこまで話したところで、シャルロッテがいままでの話の流れについて尋ねたのではなく、罪悪感という言葉そのものについて意味を尋ねた可能性に思い当たり、エリナは一旦話を止めた。察したマリーサがすかさずフォローを入れてくれる。
「罪悪感ってのはねシャルロッテ。各々が自分を律して生きていく上で、そして人類が社会を形成する上で必要な考えのことよ!例えばこのシナモンロール!私はあと五個は食べられそうだけど、そんなに食べたら太っちゃうでしょ?もしこれで太っちゃって、お気に入りのジーンズがはけなくなっちゃったりしたら罪悪感でいっぱいよ!」
「あはは!マリーサっぽいけどさ。ジーンズ履けなくなるのって、社会形成と何か関係あるかな?」
エリナが笑いのツボにはまって笑っている間も、シャルロッテはマリーサと会話を続ける。シャルロッテが思いのほか真剣に耳を傾けているので、エリナは頑張っておかしさが込み上げてくるのを抑えた。
「それは、我慢とか後悔とは違うの?」
「いい質問ね!私が思うに、罪悪感てのは倫理観に近いわ。さっきのクッキーの話はちょっとふざけちゃったけど無駄に多く食べるのはねえ、貧困で食べられない人間もいるんだからどうかと思うわ。」
「なるほどね。」
マリーサは途中、エリナに目配せをしながらシャルロッテの質問に答えた。
「エリナはどう思うの?」
笑いを抑え込んだエリナにシャルロッテが話を振る。
「私ねえ…うーんと。倫理観とかとはちょっと違う風に考えてるかな。そもそも私、最近まで罪悪感って悪いものだと思っていたんだよね。」
「あら!それはどうして?なぜ罪悪感が『悪』になってしまうの?」
マリーサが前のめりになって体勢を整える。
「えっとね。罪悪感を抱くことで、自分の未来をつぶしてしまっているんじゃないかって思っていたの。」
「…なにか例え話はある?」
「ふふ、そうよね。例えば『私は友達にひどい言葉を投げつけて傷つけてしまった人間だから、幸せな人間になってはいけない』とか。」
エリナが例を出すとマリーサは「あ~」と言いながら、わかるわかると何度も頷いた。
「そういうこと?けど、それってあんまり意味なくない?間違いを犯さない人間なんていないわよ。傷つけたり傷つけられたりって、そんなのお互い様じゃない?」
「そう。たぶん、マリーサの言う通りなんだと思う。自分が何かをしたい時に他人の幸・不幸を軸にして考えていたら、自分自身の幸せを永遠に許せないよね?けどね…罪悪感にずっと囚われてしまう事ってあると思うの。ずっとそのことに足首を掴まれて、身動きがとれなくなってしまうことが、なぜだかね。」
「復讐されるのが怖いとかってこと?」
「うーん、そうなのかなあ。なんていうか私は、相手に私を責める正当性がある状態が怖いのかも。」
「やっぱり、復讐が怖いんじゃない。」
「うーん?」
今少し納得のいく答えが見つからないエリナは考え込んだ。その間マリーサがどんどん意見を述べ、シャルロッテもしっかり耳を傾けている。
「正論とか、正当性とか、そういう人間こそが正しいのだとしたら、今こんな世の中になってないでしょう?どれだけ間違っていても、なんの罪悪感も持たない人間だっているわ。」
「そうだね。だから復讐が怖いは、厳密に言うと違うかも。」
ふーん、と顎に手をついて首を傾けているマリーサは、もう三個目のシナモンロールを頬張っている。二人の会話に耳を傾けているシャルロッテだが、明らかに目線はずっとマリーサの口元に向いている。
(罪悪感はどこにいったのかしら…)
と、エリナにはシャルロッテの心の声が聞こえたような気がした。
「…まあ、私が何をそんなに恐れていたかって言うのは、今すぐには答えが出ないんだけどね?そういうふうに罪悪感についてネガティブに考えていた時、私もシャルロッテのように質問してみたんだ。学生のころからの友だちに。」
「それで、お友達はなんて言っていたの?」
シャルロッテが続きをうながす。彼女はマリーサのシナモンロールに目線を奪われているものの、ずっとこの話題に真剣に聞き入っていることは分かる。そのためエリナはできるだけ真摯に自分の考えを述べようとしていた。
「彼女の話をまとめるとね『自分が後悔しないため』に罪悪感があるらしいんだよね。」
するとマリーサが一瞬、カップを口に運ぶ手をぴたりと止めてこちらを見た。
「つまりどういうこと?」
「罪悪感を…なんていうか、センサーみたいにして、自分が後悔しない選択をしていくってことらしいよ。」
「センサーに?いったい何を探すの?」
「探すのは、自分の『譲れない部分』だよ。」
するとそれまでマリーサがシナモンロールを口元に運ぶのを眺めつつエリナの話を聞いていたシャルロッテが、エリナの方へ目線を向け首をかしげた。
「それって、今これをやらないと後悔する!みたいなこと?やらなかったらあとで後悔に襲われるから?」
「え?じゃあそれってつまり、後悔じゃない。罪悪感ではないと思うわよ?」
目の前の二人が頭の上に疑問符を浮かべている。
「まあ、似たような感じじゃない?思うに、後悔の積み重ねの先に罪悪感がありそうかなって。例えば、目の前でいじめられている子を助けようとせずにそれを後悔したとき、何もしなかった自分に対して罪悪感が芽生えることってあるでしょ?逆にいじめられていて何もできずにやられっぱなしだったときもそう。『後悔』っていう、過去のその一瞬に覚えた感情がずっと後々まで続いていくと、どんどん今の自分のことを嫌いになっていってしまう。自分は意気地なしだとか、卑怯な人間だ、とかってね。」
「なに、それじゃあ、こんなに美味しいシナモンロールなんだから、今のうちに食べてしまわないと後悔するから、思い切って食べたほうがいいみたいなこと?」
マリーサはシナモンロールを指でつまんで見せびらかす。よく分からない、といった様子で肩を竦めた。それに対しての回答はなんとエリナではなくシャルロッテが返した。
「それが本当に譲れないことなのだとしたらそうなんじゃないかしら?お菓子を食べずに健康でいることと、今このお菓子をめいっぱい食べきること。どちらか後悔をしないほうを選ぶべき。私が思うに…いっぱい食べてしまうことは一見、その瞬間には後悔しない選択をしたって思いがち。だけど永遠に好きなものを好きなだけ食べた結果自分の望まない健康状態になりそうな時、後悔から自分の人間性を責めるような行いが罪悪感なんだと思うわよ。」
「…いま私、食べ過ぎって言われてる?」
「まあ。そうそう、そんなかんじ!」
「え、この話ってそういう結論になるの?」
「あはは。あのね、私の友達は自分のよりよい人生のために罪悪感を『使う』んだって。何かを決断する時はいつも、何をしたら罪悪感につながりそうかっていうのを考えながら、自分が後悔しないようにするって。」
シャルロッテが完璧に近い説明をしてくれて霧が晴れたみたいな感覚になったエリナはどんどん話を続ける。
「えっと、これは本人の発言じゃなくて、彼女の生き方とか発言を拾い集めて、私がまとめたことなんだけどね?のちのち罪悪感を覚えそうな予感がした瞬間に、頭に浮かんだそれは選択肢から取り下げるようにしている、みたいなことだと思うんだよね。」
「へえ~、なんだかいつも考えなきゃいけなくて疲れそうな生き方ね。私なら予防線張るより、何かやってしまった後のメンタルを健康に保つ方に力を入れるわよ。」
肩をすくめるマリーサはしかし、意見は違えど批判的・攻撃的要素は一切感じられない雰囲気で続ける。
「まあ、けどそれってすごくおもしろい考えだわ。私、罪悪感は人間を人間たらしめる倫理観、つまり社会のために必要な考えだって、なんとなくそう思って生きてきたけど。…自分自身が後悔しないためって、そういう考えもあるのね。」
「ね。私も当時、面白いなって思ったよ。」
マリーサはエリナとシャルロッテを交互に見るとニコッと笑った。
「二人とこんな話をしなかったら、そんなこと考えることもなかったかもしれない。やっぱり、ここであなたたちとお話しすることは楽しいわ。自分が当たり前だと思って生きているものが、みんなの当たり前ではないことに、気づかされるもの。」
「そうだね。私も、こういうちょっと堅いかんじの話でもいつもすごく楽しいって思ってる。文化も価値観も全然違っていたりするのにね。シャルロッテ、いい質問だったね。」
「…私は、ただ質問しただけだけど。そう言ってもらえてうれしいわ。」
照れをごまかすようにジンジャーティーを口に含んだシャルロッテは、頬をピンク色に染めながらもごもごと二人に応えた。そんなシャルロッテの様子をほほえましく思っているとちょうどタイミングよく、釣りの準備に出かけていたカルロとグアダルーペの二人がくま執事と一緒に戻ってきた。
「すげえなあの部屋、本当にいろんな種類の道具が置いてあった。」
「うん、俺もそんなに詳しい方じゃないけど。色々な道具が揃っていてワクワクしたよ。ていうか、この前ラウラが教えてくれた釣りの話、本当なのかな。」
「洋館近くの湖だぞ?マジだろ。めちゃくちゃ楽しみだよな。」
ゴツン、と息ぴったりに拳を突き合わせる二人の瞳は、宝の山を見てきた少年のようにキラキラと輝いている。そんな二人をちょっとかわいいなとエリナが思っていると、二人の方へ歩き出していたマリーサが、グアダルーペの背に手を添えて笑顔で出迎える。
「待ってたわよ。男の子たちだけでなんだか楽しそうじゃない!準備はOKかしら?」
「ああ、お待たせマリーサ。いい釣り道具を貸してもらったんだ!早く湖に行こう!」
「よし、かわいい弟よ!たくさん釣って見せなさい!さあ、みんな行きましょ!」
巻き起こる風のように、さっぱりとしているが非常にエネルギッシュなマリーサ。その様子を眺めているとラウラがエリナの隣にやって来てバスケットを持たせてくれた。
「お腹がすいたらこの中にお茶とおやつが入っているから、みんなで食べてね?」
まるで小さい子がお母さんからお使いに行かされるみたいな、そんな雰囲気でバスケットを手渡されたエリナは少し照れてしまった。
「ありがとう。…あれ?お茶とかも全部入っているんだよね?なんだかずいぶん軽い気が…」
初めてラウラのバスケットを握ったエリナは、聞かされた中身のわりに、バスケットがとても軽いことに気がついた。するとラウラはエリナにだけ見えるようにウィンクをした。
「これは、私のティー・ルームの企業秘密です!無限バスケット、何を入れても羽のように軽いの。」
「はえ~。ほんと、なんでもあるなあ。」
「ふふふ…じゃあ気を付けていってらっしゃい。ここからまっすぐ目の前に見えているし、行ったことあるから分かると思うけど。この前ピクニックに行った場所をもう少し先に歩いていけば湖につくからね。この洋館は大きくて目立つから、帰りも問題なく帰ってこれるはず。」
「うん、ありがとう。じゃあ…いってきます!」
すでにテラスの階段下に揃っているみんなのもとへ、エリナも続いていく。こちらを振り返り自分を待ってくれているみんなの姿に、エリナの胸は弾んでいた。
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