目覚めた世界
「……え??」
ハッ、と気づいた時にはもう、その場所に立っていた。
砂岩のレンガが目に入る。目の前は坂道だ。
ゆるやかな上り坂には、レンガの石畳がつづいている。道脇には建物がズラリと並んでおり、同じく砂岩のレンガと白い壁で建てられている。全体的に薄いオレンジ色の、夕焼けような街並みが、ずうっと上の方まで続いていた。自分の置かれた状況をいまいち把握できないまま、ここに至るまでに何があったのかを思い出す。
ーー直前の記憶はある。
今になって、肌にせまる水の圧迫感を感じた。
思い出そうとすると同時に、虚無感に支配されそうになる。
ーー誰かが私を引き上げてくれた
そのことに思い至ると、少し気持ちが落ち着いた気がした。
ーー私、溺れてた。
覚えているのは、水中のやや不透明なゆらぎと、上に見える太陽の光。その光の元へ再び戻りたいという気持ちをもつ自分と、ただただ沈んでいく自らを他人事のように見送る自分。相反する感情が入り混じり、結局何の抵抗もせずに水底へ沈んでいくだけだった自分は、もはや自らの体をコントロールできないでいた。
そんな最後の瞬間に、誰かの手に引き上げられたのだ。その体全体を支えられたかのような力強さに勇気づけられて、一気に気力を増した私は自らの意思で、えい!と、水面へ向かって水を蹴ったのだ。
そうして、今この場所に立っている。まるで脈絡がない。それに、溺れる前の記憶がない。
けど、自分が誰なのかを忘れているわけではなかった。
*******
突然のことで、沢井エリナにはこれが現実だという感覚がなかった。
ぼーっと周囲を見渡してみる。
明らかに日本じゃない、外国の街並みだ。なんとなく、すぐそばにあるお店のウィンドウに目をやる。店中を覗いてみると、窓際に仕立て台のようなものがみえ、奥には洋服を着せられたトルソーや、帽子などの服飾小物が棚に飾られているのが見える。ウィンドウに移った自分の姿を見てみると、エリナはいつもの仕事着ではない、レモンイエローの長袖膝丈のワンピースを着ていた。
「え、かわいい…」
窓にうつった姿に、声に出して素直な称賛を贈る。
ーーけど、私こんなワンピースもってたっけ…?
あたりまえのように着こなしているが、エリナの好むファッションとは少し違っていたし、心当たりもなかった。
ーーアレ?この前、駅でショッピングしたときに買ったやつだっけ?…結局何も買わなかったんじゃなかったっけ?
そんなことを考え始めたことで、エリナの頭はようやく回り始める。そしてエリナは、すぐに自分の置かれた状況の奇妙さに気が付いた。
――誰もいない…!
街の異様さ気づいた途端、体の真ん中からぶわっと冷たくなった。こんなに立派な街並みに、生き物の気配が全く感じられない。エリナはようやく、自分がとてつもなく奇妙な状況に置かれていることを理解した。
「え、怖…。」
とりあえず、声に出してみる。声に出すと、自分の中に芽生えつつあった恐怖が、いくらか霧散したような気がした。
ーーちょっと、街を見てみよう。
数メートルほど歩いてみるが、街並みに変化はなくずっとお店が並んでいる。誰の姿もみえず、まるで少し前まで普通に生活していた人達が急にいなくなったような、そんな雰囲気だった。そのまま、緩やかな上り坂を進む。
歩いていると唐突に、左手側に建物のない開けた場所を見つけた。向こう側が見渡せるその場所から、それが見えた瞬間エリナは驚愕した。
「え、でか!!」
川の向こう側にちょっとした小山くらいありそうな、大きくて薄汚れた印象の石壁の洋館が見える。洋館はこれまたとてつもなく大きく、深い緑色をした木々に囲まれ、全容がはっきりとは見えない。けれどエリナはなんとなく、今自分が見ているのが洋館を横から見た部分ではないかと感じた。
ーー街は高いところにあるっぽいのに、いま私がいる高さとあんまり変わらない目線に屋根がある。
しばらくその場所にとどまって、森の中にそびえたつ大きな洋館を観察する。再度振り返り街側をみるが、やはり誰の姿も見えない。
ーー誰かが、住んでいるのかな?
一度、洋館に誰かがいるかもしれないという想像をした瞬間、自分の心の奥底に張りつめていた孤独に気が付いた。気がついてしまった不安をとにかく紛らわせたくなったエリナは、先ほど見えた洋館に向かってみることにする。
ーーずっと、ここにいてもしょうがないし。
再び誰もいない街の、誰もいない道へと戻り、今度は坂道を下り始める。ここは何なんだろうか。
ーー嫌な雰囲気はないけど、ちょっとだけ寂しい。
黙々と歩いていると、思った通りここは高い所にあるようだった。街は山の側面に作られているらしく、時々存在する脇路から、下段の道に抜けることができる。
ーーていうかやっぱり私、レモンイエローのワンピースなんて買ってないなあ。
軽い着心地で自分の背丈にピッタリな、レモンイエローのステキなワンピース。それが自分の物じゃないという確信にいたり、少しガッカリする。
ーーわたし、どうやってこの場所に来たんだろう?
最後に見た景色。
沈んでいる時、不思議と心は凪いでいた。ただ、ただ悲しかったのだ。
そうやってずっと考えていると、だんだんあれはものすごく怖い状況にあったんじゃないかという不安が押し寄せてきた。
ーー海?いや川…池?湖?…もしかして、私、死んじゃったとか?
ぐるぐると、思いつく限りの悪いパターンが頭をめぐる。
仮に自分が溺れて死んだとして、たった今ここは死後の世界にいるとしたら、街に誰もいないというのも、なんだか分かるような気がした。
ーーまあ、死んだあとの世界がどうなってるかなんて、全然知らないんだけど。
その考えに辿り着いたところで、エリナは勝手に想像して、勝手に怖くなっている自分が馬鹿らしくなった。
ーーとりあえず死後の世界かもしれない、覚悟は持っておこうかな。
これから何が待ち受けていてもいいように心の準備をしていると、しだいに街の景色が終わり川があらわれた。すぐそこに桟橋があり、先には一隻の小さな木のボートがつながれている。川の向こう側には先ほど街の上から見た洋館がそびえたっているが、先ほどよりいくらか常識的な大きさに感じる。
ーー何か、上から見た時より小さく感じる。
ここに来てから何度目になるかわからない、奇妙な感覚を覚える。
ーー気持ちの問題…とか……?
混乱していたせいかなと、一旦思考を手放す。それでも通常の一軒家とは比べ物にならないほど大きな洋館が、目の前に建っていた。エリナは向こう岸まで船を動かしてくれる人がいないか付近を探したが、街中同様ここには誰の姿も見えない。しかたなく見えているボートをチェックしようと桟橋まで歩いていく。
トン、トン、トン、と、歩く音が大きく響く。
人の気配がない為か川の音は轟音に聞こえ、木板の上を歩く音も大きく響く。川はそこまで流れが速いようには見えなかったが、音の大きさにエリナは身を引き締めた。木製のボートは、よくある公園のボートくらいの大きさで、両サイドにオールがついている。エリナは公園のボートなら漕いだことがあったが、川を漕いで横断した経験はない。ぜひ、専門の人にお願いしたいところだったが、そもそもここにきてまだ、人間に出会っていない。
「まあ~、やるしかないかあ。」
桟橋とボートを繋ぐロープをたぐりよせる。経験上、こういうのはスタート直前とゴール直前の二カ所が肝心だ。案の定、足を少しのせただけで、ボートはグラグラと大きく揺れた。全身で集中して乗り込む。両足とも乗り込んだところでゆっくりと座り込み、じっとして揺れが収まるのを待った。安定していることを確かめてオールを手に取る。
「よし、第一ミッションクリア!」
漕ぎだすとすぐに、予想以上にボートが流されていることに気が付いた。
ーーえ、思ったより流れが早い。
流されまいと必死に上流へ向かってオールを漕ぐ手に力を込めるが、そうすると今度は前に進まない。エリナは進むことと、流されないことのうち、片方を諦めることにした。
「……まあ、流された分は歩けばいい。とりあえず対岸へ。転覆するとか、体力がつきるのが一番まずい、がんばれ!!」
エリナは声を出して自分を鼓舞しながら、なんとか乗り切ろうとしていた。
予想の五倍はかかりながら、下流に押しやられながらエリナはやっと、洋館のあるサイドの川岸に到着した。街側では桟橋からボートに乗り込んだのだが、洋館側にはそのまま岸に乗り上げる形で上陸する。足元には小石が散らばっていて、川沿いは砂利道になっていた。
ふと頭をあげる。
先ほど街の上から見た時にも思ったが、洋館側にある木はとても背の高いクリスマスツリーのようだった。木々に阻まれてここから洋館は見えない。さっきまでいた街の方を見ると、やはり結構流されているようで、少し上流のほうに出発地点の桟橋が見えた。すごく幅のある川というわけではないのに、渡るのに時間がかかったのは、やはり流れがあるからだろう。エリナは流された分を歩いて取り戻すために、川沿いを上流へ歩き始めた。
ーー夢だと思ってたけど、全然目が覚めない。どういう状況?明晰夢?
頭の中でぐるぐると考え事を続ける。
ーーけど、最初に溺れてなかった?これで永遠に目が覚めなかったら私、どうなるんだろう。
ジャリ、ジャリ、と河石を踏みしめる音が体に響く。
ーー仮に溺れて死んでるとして…死ぬって、どういうシステム?いま私の心だけ、どこだか分からないこの場所を彷徨ってるってこと?
ジャリ、ジャリ、ジャリ、
ーーもしかしてこれ三途の川?どうしよう、渡っちゃったんだけど…
ジャリ、ガザリ、ジャリ、ガザリ、ジャリ、
「アレ…?なんか音、おかしくない?」
砂利道を踏みしめる音が増えていることに気がつき、エリナに緊張がはしる。
いままで全く人の気配がなかったことがすごく心細かったはずなのに、今は振り返って誰がいるのかを確かめることが恐怖だった。
立ち止まると、あちらの足音もしなくなる。エリナはゆっくりと後ろを振り返った。
――え……
なんでも声に出す傾向のあるエリナだったが、こればかりは声にならなかった。
この世界に、エリナは一人じゃなかったのだ。
ーーク…クマ…
口をぱくぱくさせることしかできない。
エリナの後ろに、二メートルほどのおおきな茶色いクマが立っていた。
ーーな…な……!!
エリナは、動揺する気持ちをグッと抑えこんで叫んだ。
「なんで!!服着てるの?!!」
そこには大きな茶色いくまさんが、執事服を着て立っていた。
20241014_修正