2,十年前、茶会でリラ嬢はアルベルト殿下に出会った
リラ・プリマヴェーラ伯爵令嬢と、若手歌手アルカンジェロを乗せた馬車は、夜の王都を伯爵邸へ向かって走っていた。
「あんなみっともない姿をさらして、とてもブライデン公爵邸に残ってはいられないもの」
夜会はまだ続いているが、リラは逃げ出してきたのだ。今夜は公爵邸に雇われたアルカンジェロも、心配してついてきてくれた。
「誰もお嬢様のことをみっともないなんて、思ってやしませんよ。むしろ地位が欲しいだけのパメラ嬢と婚約されたグイード卿を愚かだと蔑んでいるはずです」
アルカンジェロが毅然とした口調で言った。彫りの深い横顔に馬車正面に取り付けられた魔力燈が陰影を浮かび上がらせ、まるで最近流行りの明暗コントラストを過剰に描いた絵画から抜け出してきた神話の人物みたいだ。
「パメラ嬢は、グイード様が未来の王太子かも知れないと考えているんでしょうね。あら、こんなこと言ってはいけないわね」
リラは慌てて口もとを抑えた。普段ならアルカンジェロが相手でもこんな失言はしないのに、自分で思っている以上に疲弊しているようだ。
「俺しか聞いていないんだから構いませんよ」
アルカンジェロは薄闇の中で、白い歯をのぞかせてにっこりとほほ笑んだ。
「国民誰一人、十年前から寝たきりのジルベルト第二王子を見たことがないんだから、彼に政務能力があるのか甚だ疑問ですからね。次期国王は王弟殿下であるブライデン公かも知れないと思うのは当然ですよ」
そしてブライデン公爵の次は、彼の息子であるグイードが王かも知れないというわけだ。
「グイード卿の今夜の行いはあまりに非礼でしたが、俺は正直なところ――」
彼は真摯なまなざしをまっすぐリラに向けた。その魅惑的な緑の瞳に、リラは一瞬ドキッとする。
(十年前にお会いしたアルベルト様も、確か緑の瞳をお持ちだった――)
「俺は――本音を言わせてもらえば、こんな危険な結婚が白紙に戻ってよかったと思っています。お嬢様がブライデン公爵家でスパイの真似事をなさるなんて、俺は心配で心配で……」
「ありがとう、アル。でも私は騎士団長の娘よ。父の役に――いいえ、この国の役に立ちたいの。世間の噂通り、十年前の暗殺計画を企てたのが本当にブライデン公だったら、必ずその罪を暴かなくてはいけないわ」
十年前、三人の王子たちが相次いで命をねらわれた。彼らを亡き者にして一番得をするのは王弟であるブライデン公爵だ。市井ではもっぱら暗殺事件の首謀者だと騒がれたが、騎士団長のプリマヴェーラ伯爵は、状況証拠だけで彼を捕らえることはできなかった。
「ブライデン公爵が私を人質代わりにグイード様と婚約させたいなんて、父からすればまたとない好機だったの。部下を私の護衛として公爵家に潜入させられるでしょ。それなのに婚約破棄だなんて、お父様に申し訳ないわ!」
両手で顔を覆ったリラの肩を、アルカンジェロは優しく抱き寄せた。
「お嬢様、あなたはお強い方だ。そして国を思う誠実な方―― 俺は一生あなたに仕えたい……」
正確には、アルカンジェロはリラに仕えているのではなく、プリマヴェーラ伯爵家に音楽家兼教師として雇われているのだが。
彼の腕の中で、リラは少しだけ罪悪感にさいなまれた。
(国を思うですって? 違うのよ…… 私はあの可愛らしかったアルベルト殿下をまだ忘れられないだけ――)
あれは十年前、アルベルト殿下がお家騒動の犠牲になる少し前のことだった。
七歳になったリラは初めて、王宮の庭園で開かれるお茶会に連れて行ってもらった。社交に忙しいお母様には放っておかれ、リラの世話をするのはもっぱら侍女のマリアだ。
貴婦人たちの社交に飽き飽きしたリラは、マリアの手を引っ張って花園のほうへ走っていった。
「私のお花よ!」
リラが小さな手で指さしたのは、咲き誇る藤色のリラの花。
「ねえマリア、『初恋はリラの花のように』っていうアリア知ってる?」
「ええ、存じ上げております。お母様が大層お気に召していらっしゃる最新のオペラからのアリアですね」
「そうよ、私歌えるの」
オペラ狂いの母が主演男性歌手を家に呼んでしょっちゅう歌わせていたから、リラもすっかり覚えてしまった。
「聴いていてね!」
侍女マリアが、母親のほうへ連れ帰ろうとする手を振りほどいて、リラは花園の中で一人リサイタルをひらいた。
「――初恋はリラの花のように
僕の胸に今も香る
リラの花が咲くたび思い出す
初夏のきらめく陽射しを浴びて
君を追いかけた少年の日――」
歌い終わると花壇の陰から子供の拍手が聞こえた。振り返るとまぶしい陽光の中、ブロンドの髪を春風に揺らして小さな貴公子が立っていた。
「なんて素敵な歌い方だろう!」
少年は大人びた口調で言った。だがその声は愛らしくて、リラの小さな胸は高鳴った。
「僕もその歌が大好きなんだ。でも君ほど明るくまっすぐ歌える人はいないよ!」
子供ながら優雅な足取りで近付いてくると、リラの手をやわらかく握った。
(あたたかい……)
「一緒に歌おう!」
誘われるままに声を合わせて歌って、リラは驚いた。
「わぁ、なんて綺麗な声!」
金色に透ける陽射しのような彼の声に、リラは歓声を上げた。
「ありがとう。僕はアルっていうんだ」
意外にも、少年は照れくさそうに頬を紅潮させた。その反応が可愛らしくて、リラはくすっと笑った。
「私はリラよ」
「この花の名前だ! そうか、君の美しい瞳はリラの花の色だもんね!」
宝石のように輝く緑の瞳でまっすぐ見つめられて、リラは初めて恋を知った。
だが王宮の使用人が走ってきて、
「殿下、いけません!」
と慌てて連れ帰ってしまった。
後日、あの美しい少年がアルベルト第三王子だったと知って、尋常ではない使用人の様子に納得した。茶会の少し前、王宮に送り込まれた刺客によりウンベルト第一王子が命を落とし、アルベルト第三王子は怪我を負ったものの助かったのだ。
だが茶会での邂逅からほどなくして、ジルベルト第二王子とアルベルト第三王子は毒を盛られた。ジルベルト第二王子は一命をとりとめたものの、今も体が不自由でベッドから起き上がれないと聞く。
まだ十歳だったアルベルト第三王子は、あえなく命を散らしてしまった。
(私の初恋は一瞬で終わった……)
アルベルト殿下は亡くなっているの? それとも生きていらっしゃるの?
次話は、主人公のすぐ近くにいる「彼」の秘密についてです。
続きが気になる方はブックマークしてお待ちいただけると幸いです!