1,リラ・プリマヴェーラ伯爵令嬢、婚約破棄される
~初恋はリラの花のように~
「リラ・プリマヴェーラ、お前と交わした婚約を破棄させてもらう!」
豪華なシャンデリアがきらめくブライデン公爵邸の大広間、夜会を彩る優雅な音楽を破ったのは、グイード・ブライデン公爵令息の言葉だった。
驚いたリラ・プリマヴェーラ伯爵令嬢がリラの花を思わせる紫の瞳を見開くと、グイードはさらに言いつのった。
「お前のような真面目くさった女はいらない。僕は一緒に人生を楽しんで行けるパメラ嬢と婚約する!」
宴もたけなわ、あふれんばかりの貴族たちを前に大声で宣言したのだ。
鍵盤楽器の譜めくりをしていた青年歌手アルカンジェロは、空気が凍りついたのに気付くや否やソロを弾いていたヴァイオリン奏者に合図を送った。雅やかな旋律は途絶え、チェンバロ奏者が慌てて終和音を弾いた。
「頭の固いお前はこんな展開、予想もしていなかっただろう」
意地の悪いグイードの声が、静まり返った広間に響いた。リラはこっそりため息をついて、シルクの手袋をはめた指先でプラチナブロンドの髪を耳にかけた。
(おっしゃる通り、こんな常識外れな行動を取るとは思っていなかったわ。両家の関係を考えたら、私に社交界で大恥をかかせるなんてなんの得にもならないもの)
婚約者であるリラをエスコートするはずのグイードが、今夜の夜会で踊ってくれたのは最初の一曲のみ。あとは兄のエスコートで現れたパメラ嬢ばかり誘っていたから、近いうちに騒動が起こる予感はしていた。だがまさか今夜とは――。
宝石をいくつも縫い付けた、これ見よがしに派手なドレスに身を包んだパメラ・ソルディーニ男爵令嬢が口をひらいた。
「グイード様、我がソルディーニ家が力添えいたしますから、お好きなだけ賭け事をお楽しみくださいましね!」
ソルディーニ家は銀行業という名の高利貸しで財を成し、パメラ嬢の祖父の代に男爵位を授かった成り上がり家系。お金だけはたくさん持っている。紅を塗った唇をあざ笑うかのようにつり上げて、勝ち誇った視線をリラに向けた。
「アタシはそこの伯爵令嬢サマみたいに口うるさいことは申しませんので」
「パメラ、きみは理想的な婚約者だ! それにひきかえリラ・プリマヴェーラ、さんざん僕をいら立たせた代償がこれで済んだこと、僕の心の広さに感謝するんだな! 本来なら名誉棄損で罪に問いたいところだ!」
(こんな大勢の前で婚約破棄を宣言されて、名誉棄損で訴えたいのはこっちだわ!)
「リラ、何か言うことはないのか!」
泣きだすでもなく、恥じ入ってうつむくでもなく、冷静な顔で立っているリラにグイードはしびれを切らした。
「大変残念ですわ、グイード様。賭け事に夢中になっていらっしゃるあなたをお諫めしたのが間違っておりましたのね」
公爵家の将来を考えたうえで当然の行動を取ったつもりが、子供っぽいグイードの癇に障ったらしい。
(まあ今後は、ソルディーニ家の財産でお好きなだけ負けたらよろしいわ)
「ふん、騎士団長の娘だけあって真面目なだけじゃなく心臓も強いようだな」
唇の端に冷笑を浮かべるグイードの言葉を受けて、周りの令嬢たちがひそひそと耳打ちしあう。
「本当ですわね。わたくしでしたら気を失ってしまいますわ」
「まったくですわ。こんな社交の場で恥をかかされて、顔色一つ変えずに立っていらっしゃるなんて」
どこかの子息までクスクスと無礼な笑い声をもらしている。
「令嬢にはあるまじき豪胆さだな。さすがプリマヴェーラ騎士団長の娘だ」
(しまった。ここは卒倒する場面でしたのね!)
この場で求められる振る舞いに気が付いたリラは、ほっそりとした手の甲を額に当て、もう一方の手で苦しげに胸を抑えた。
(いまさらかしら?)
などと思いつつ、絨毯の下の大理石に頭を打っても怖いので、チェンバロ脇で心配そうに見つめる歌手アルカンジェロにちらっと視線を送ると、
「はうっ!」
観客方のお望み通り卒倒してみせた。
同時に宙を翔けるがごとく走り寄ったアルカンジェロが、電光石火の身のこなしでリラを支えた。
「お嬢様、お気を確かに……!」
片手でリラを抱きかかえ、もう一方の手で素早く服の下にさげていたペンダントを取り出す。銀細工の香壺のふたを指先で開けた。
「さあ、お嗅ぎなさい。気付け薬です」
一介の歌手とは思えぬ洗練された身のこなしに、令嬢たちがざわめきだす。
「まあご覧になって! アルカンジェロ・ディベッラのあの横顔! 古代の彫刻のように完璧なラインに、長いまつ毛!」
彼は白魔術教会の聖歌隊歌手でありながら、その優雅なたたずまいゆえに貴族の女性方から、劇場の主演男性歌手をしのぐ人気を獲得していた。金と欲望が渦巻く劇場で歌わないことが彼に一層清廉なイメージをもたらし、純粋で美しい幻想に拍車をかけていたのだ。
「リラ嬢ったら彼の腕に抱かれて介抱されるなんて! ああ、うらやましい!」
「仕方ないわよ。アルカンジェロ・ディベッラは数年前からリラ嬢の音楽教師なんですって」
「えぇ、なんてこと!? わたくしなんて冴えない小太りの中年作曲家に習っているのにぃ!」
令嬢たちの注目を浴びる若い歌手に、心のせまいグイードは激怒した。
「半人前は失せろ!」
叫ぶと、あろうことか腰の剣を抜いた。舞踏会主催者の子息だからやりたい放題である。
「どうかつるぎをお納めください、グイード卿」
礼儀正しくこうべを垂れるアルカンジェロの姿は、英雄叙事詩に出てくる麗しの騎士のようだ。頬にかかる一房の巻き毛は少年らしさの残る彼の美貌を引き立て、黒いリボンで一つにまとめた豊かな髪は漆黒の絹糸のようだった。
「なんだその慇懃無礼な態度は!?」
抜き身のつるぎにも平静を保つアルカンジェロにちっぽけな自尊心を傷つけられたのか、グイードは本当に斬りかかった。
「きゃーっ」
「嫌ぁぁぁ!」
女性たちの悲鳴が渦巻き、リラも思わず目をつむった。
カン!
広間に響いたのは刀身同士のぶつかる音。アルカンジェロは目にも留まらぬ速さで腰の細剣を抜き、グイードの剣を受け止めたのだ。美声で歌うのみならず、剣の腕まで確かなアルカンジェロに、令嬢たちは感嘆のため息をもらした。
「このように女性がたくさんいらっしゃる前で流血騒ぎは起こせませぬゆえ、どうぞご無礼をお許しください」
「こ、こ、こいつをひっとらえろ!」
グイードが公爵家の私兵に命じるが、
「わたくしは準聖職者として王都大聖堂の聖歌隊に籍を置く身。わたくしを裁くならば後見人である大教主猊下をお通しください」
と、落ち着き払った様子で国王さえ一目置く者の名を出した。この国――ヴェルデリア王国では新国王が王位を継承する際、即位の儀において大教主猊下から王冠を授けられる。しかも現在の大教主は国王の叔父だった。
「くっ、覚えてろよ!」
グイードはしぶしぶ剣を収めると、
「重要な仕事を思い出した」
と言い残して去ってしまった。
誰の目にもグイードが逃げ出したように見えた。だが彼は本当に重要なことをブライデン公に伝えに行ったのだ。斬り結んだ瞬間、彼は確かに見てしまった。アルカンジェロが疾風のように動き、聖歌隊服のゆったりとした袖が風を含んでふくらんだ刹那、右腕の古傷を――
(まさか、父上が話していたアルベルト第三王子――? 十年前、毒殺が成功したんじゃなかったのか!?)
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