第二十三話 べるせるく饅頭
ベルテーン祝祭を前日に控え、街は落ち着きのない空気で満ちていた。
大通りには屋台がならび、春の訪れを祝うための花々が至る所に飾られている。
頭上には三角旗や細長い旗の束が極彩色にたなびく。
花と火薬の匂いを運ぶ風が、ざわり、ざわりと忙しなく吹き抜けていく。
日没から前夜祭が始まる。
篝火と無数の花火のもとで踊り狂う予感に、妖精たちは皆浮かれていた。
そんな賑わいを窓の外に聞きながら、エリアスは静かに古びた本のページをめくっていた。
先日ラングスイルを仕掛けられてから、体調を崩して寝台から離れられない日々を過ごしているのだ。
とはいえ、そもそも檻の中から出られない身分なので、大して生活は変わらないのだが。
そう独り言ちた彼の耳に、軽快な足音が聞こえてきた。
昼間でもどこか薄暗い部屋に、初夏の風のような声が届く。
「エリアス様、お加減はいかかですか」
「やぁ、来てくれたんだね」
ページから顔をあげれば、ライラが満面の笑みを浮かべて部屋の中に入ってくるところであった。
ふと、エリアスの膝に置かれた本に気づき、慌てた表情を浮かべる。
「あ、すみません。読書中に騒がしくしてしまって」
「気にしないでおくれ。すでに一度読み終わったものだから」
そう微笑んで、エリアスは彼女を手招いた。
素直に寄ってくる彼女の右手を取り、その袖口を指で三度なぞる。
すると袖のボタンから緑銀色の細い蔦がのびて、ぐるりと一周すると小さな蕾が鈴なりに現れる。
それは瞬く間に綻び、ライラの袖はまたたく間に小ぶりの白銀色の清楚な花で飾られた。
その一部始終を見ていたライラが、目を丸くして術者を見つめる。
彼は笑いながら膝の上の本を撫でた。
「これは、古いまじないの本でね。明日は春の祝祭だろう。君に何かを贈りたかったんだ」
「あ、ありがとうございます! とても綺麗です」
「ちなみに、花の香に体力回復の効果を付けておいたよ。最近忙しそうだったから」
「いい匂い。あ、本当だ! なんだか身体が軽くなってきました!」
袖口に鼻を埋めて嬉しそうに笑うライラが、そうだ、と手元の箱をエリアスに差し出した。
「私もエリアス様に何か差し上げたくて。あ、大したものではないんです。今日街に出た時に、知り合いの屋台で買ったものでして」
「そう、街へ行ったの。……今日は非番だったのかい?」
「いえ、姫のお使いでちょっと出ていまして」
「そうか。ありがとう」
エリアスは微笑んで箱を受け取ると、開けてみてもいいかい、と尋ねた。
ライラがはにかんで小さく頷く。
エリアスは丁寧に包装を解き、そして、中から現れたパッケージに一瞬動きが止まった。
「べるせるく、まんじゅう?」
「はい。遠い東の国からインスピレーションを受けた、新作のスイーツだそうです」
「これを造った者のセンス……」
「え、可愛くないですか」
親指と人差し指で作った輪くらい大きさの、潰れた球状の黒っぽい物体が箱の中に詰められていた。
濃い茶色の薄皮に、飴で作られた小さな羽が二枚刺さっている。つぶらな瞳も飴細工なのだろうか。
これだけなら確かに可愛いと言えなくもない。しかし問題は、全体にもふもふと毛が生えているということだった。
「確かに彼らの特徴は熊の毛皮だけれども、そこはリアルに再現しなくてもいいんじゃないかな……しかし、意外においしいね。毛が口の中でふわっと溶けるよ」
「はい! ブルンネンさんはお菓子作りが上手なんです」
「中に入っている、この甘くて黒いものは何だろう」
「アンコ、だそうです。豆のジャムらしいですよ」
「へぇ、変わっているね。その女性はよく旅に出るのかい? 東の国なんてなかなか行く者はいないだろう」
「いや、東の国へ行ったのはゾンダーさんです。この間、エリアス様をお助けした私の幼馴染のお師匠様でして」
「……あぁ、僕はその友人に助けられたのだったね。是非お礼を言いたいな……。どんな子なんだい?」
エリアスは美しく微笑んで尋ねた。
ライラは恐縮して、ぶんぶんと首を振る。
「そんな、礼なんてシックは気にしないと思います」
「そういう訳にもいかないよ。お願い、ライラ。教えておくれ」
上目に伺うと、ライラは眩しい……と呻いて目をそらす。
エリアスは自分の容姿がライラにもたらす効果を理解しつつあった。そのままじっと見つめると、案の定、彼女は観念したように溜息をつく。
そして、しぶしぶと言った様子で話し始めた。本当に気にしないで下さいね、と念を押すのも忘れない。
「シックザールは私の幼馴染の雄の花守で、偵察係なんです。この間は報告書を城に提出した帰りに偶然近くを通りかかったみたいで」
「雄なのに、働いているのかい?」
「はい。模擬戦の初試合で事故にあって。幸い命に別状はなかったのですが、足に傷を負って、走れなくなってしまったんです」
「それは……」
「はい。当時は大変で、もう少しで国から追放されてしまうところでした。あの時は本当に悔しかった……」
「…………」
「シックは確かにもう走れませんが、飛ぶことが誰よりも上手なんです。稲妻みたいに速くて、そよ風よりも自然に木々の間をすり抜ける。私、シックが飛ぶところを見るのが大好きでした」
懐かしむように口元を綻ばせるライラ。
エリアスの顔から笑みが消える。
「……ライラは、彼の事が大切なんだね」
「はい。ずっと一緒に育ってきた家族ですから」
「……」
「だから国から追い出されると聞いて、阻止する為に駆けずり回りました。リーリエ――もう一人の幼馴染と一緒に。ただ、私はリーリエとは違って劣等生でしたから風当たりが強くて。余計な口出しをするなと、よく殴られました」
「殴られた……」
あはは、と眉を下げて笑うライラ。
エリアスの拳がきつく握られる。
自分が受けた暴力について、何でもないことのように語るライラは、エリアスの瞳が不穏に光っていることに気がつかない。
「でも、リーリエの頭が良かったおかげで皆を説得出来て、今ではゾンダーさんの弟子として偵察係として立派に働いています。お調子者だけど、ああ見えて仕事は真面目なんですよ」
「……そう」
素っ気ない相槌に、ライラはようやくエリアスの表情が曇っていることに気が付いた。
そして、慌てた様子で彼の顔をのぞき込む。
「す、すみません。私ったらべらべらと。煩かったですよね」
「いや、元はと言えば僕が君にねだったことだから。……ただ、思ったより手強そうで身構えていただけ」
「手強い?」
「あと、自分の余裕の無さに呆れていた」
「余裕、ですか?」
「気にしないでおくれ。あくまで僕の問題だ」
そう言うと、エリアスはライラの頬に手をのばした。
ライラはその手を受けいれる。
一切抵抗する様子のない彼女に、エリアスは思わず笑った。
そして、感触を味わうように目を閉じる。
張りのある肌は程よく引き締まった弾力があり、そえた指から生命力が伝わってくる。
それは頬だけではない。
彼女の肉体は、初夏に伸びる若木のように、今まさに弾けようとする膨大なエネルギーを内包しているようだ。
手のひらが痺れるような熱の幻を感じ、あつい溜息が漏れる。
長く檻に閉じ込められているエリアスにとって、彼女はまるで百年ぶりの太陽のような灼熱と閃光だ。
直視すれば目が潰れてしまいそうで、それでも見るのを止められない……。
彼は白旗をあげる思いで目を開けた。
途端に、とろりと蕩けた瞳と視線がぶつかって息を止める。
ライラは真直ぐにエリアスを見上げて、添えられた彼の手に懐くように、かすかに首を傾けていた。
じわり、と胸が熱くなるのと同時に、ほの暗い優越感が沸いてくる。
彼女の潤んだ蜜色の虹彩の中で、男の唇が三日月に歪んだ。
「ねぇ、ライラ」
脳髄の奥深くに落としこむように、熱のこもったままの吐息で彼女の名前を呼ぶ。
見つめる先で、ライラは震えだす。
このまま毒されてしまえ、と彼は願った。
そして彼女はエリアスの目の前で、――きゅう、ときつく目をつむった。
叱られる直前の子供のように、緊張しきった様子で棒立ちしている。
その余りの不器用さに、エリアスは毒気を抜かれた。
そればかりか、うっかり庇護欲を覚えてしまった。
心の片隅でがっかりしている自分を自覚しながらも、彼は身を固くしているライラの頭を優しく撫でる。
「ねぇ、ライラ。今夜、少しだけ顔を見せてくれないか?」
君に見せたいものがあるんだ。そう告げると、ライラはおずおずと彼を見上げてきた。
そうして、エリアスの機嫌をうかがう彼女を見ていると、まるで小さな動物を相手にしているような気分になる。
片手でエンプーサを殴り倒す程の力を秘めている相手に、いったい何を錯覚しているのか。
彼はおかしくなって思わず笑った。
その姿にライラの頬が赤く染まる。
「今夜、警備が終わったら、必ず来ます!」
「ありがとう。待っているよ」
「はい!」
悪感情の欠片も感じさせない、純度100%の笑顔だ。
エリアスは溜息が出るような思いで、それを見つめる。
眩しくて目がくらみそうだ。
二人はこの時、お互いの事しか見えていなかった。
その他の事象は、すっかり視界から消えていたのだ。
そのため、檻の中を覗く影がある事にも、その影が足早に廊下から立ち去ることにも欠片も気づいていなかった。




