自分を受け入れること
「俺が男子から可愛いと思われてる...?」
その日の夜、自部屋で伊織は咲の言葉を思い出す。
「いやいやいや、気色わる!」
体をうねらせながら、伊織は枕に顔を埋めた。
あれから、伊織は咲に色々と指導されていた。
歩いただけて服が胸をこすれてこそばゆいし、走ると胸が揺れて痛い。それを咲に相談すると、
「それはブラジャーをしてないからよ! ていうか今までつけてなかったの!?」
と一喝される。
「椅子に座ってる時、足開きすぎ!下着見えちゃうよ?!」
「"なあ" とか "おう" とか言わない! 痛く見えるよ!」
痛い...確かに年頃の女子が男言葉を使っていたら、キャラを作っていると思われても、いたしかたないだろう。
しかし、常にハイテンション気味な咲に痛いと指摘されるのもどうなんだろうか。
「うーんしかし、ブラジャーかあ。確かに、付けたら平気になったな」
今まで、ブラジャーなんて女性がファッションで付けているだけ。そういうものとしか思っていなかった。
物事には理由があるんだな、と伊織は納得する。
「まさか女物の下着をつけるようになるとはなぁ......」
小ぶりな胸を包むブラジャーを服の上からわし、と掴む。身の回りも女っぽくなっていく自分に、伊織は溜息をつく。
「これ、こんな重かったけかな?」
部屋の置物を持ち上げるのにも一苦労。
「ますます、男から離れていってるな……」
そんな風に自己嫌悪していると、ドアをコンコンと小突く音が聞こえてくる。
「いおー?入っていいか?」
伊織の兄の様だ。いお、それは伊織が家族に愛称でそう呼ばれている。
「ああ、いいよー。どうしたん?」
伊織が返事をすると、兄がドアを開けて部屋に入る。
「よっ!高校生活はどうよ? 夕飯中も浮かない顔してるから、心配になってよ」
明るい口調で兄がそう話しかけると 、どんとあぐらをかいて床に座る。
「超大変だぜ? 女同士の会話って、噂話とか気になる男子の話ばっかでさあ。ゲームの話とか全然できねぇんだもん」
ベッドに座りながら、伊織は返事をする。それを聞いた兄は、ぶっ、と噴き出す。
「なんかおかしいこと言ったか?」
伊織が頭をかしげて聞く。
「いや、 しょうもないことで悩んでるからおかしくて」
「しょうもないか?! 毎日気を使ってばっかで、くたくただよ」
ぼふっ、と伊織はまた枕に顔を埋める。
兄は眉に皺を寄せ、心配気な様子で伊織に話しかける。
「ほんとは、自分が女であることを悩んでるんだろ?」
兄に核心を突かれ、伊織は顔を曇らせる。
「それは……悩んでるよ」
「まぁ、そうだよな。いおは昔から、自分から悩みを言わないやつだよな。中学時代ずっと友達がいなかったことだって、こないだ咲ちゃんに言われて初めて知ったんだぜ?」
咲め、いつのまにそんなこと兄に告げ口したんだ、としかめつらになる。
「性別が急に変わって、高校生活が始まって。未知のことばっかで、そりゃ悩まない方がおかしいぜ。でもさ。俺にはちゃんと相談してくれよ。家族だろ?」
相談したところでしょうがない。男に戻るわけではないからだ。
けど、心は軽くなる。そんな兄の思いやりに、伊織は今まで我慢してきた感情が溢れ出す。
「俺は、男に戻りたい。中学時代できなかった青春を、高校で取り戻したかった。なのに、なんで俺は―――」
伊織の目に涙が溢れてくる。
「こないだだって、男に絡まれて何もできなくて。 今だって力がどんどん出せなくなって。俺は、これからどうしたらいいんだよ!!」
兄は、伊織の横に座り、伊織の頭に手をぽんと置く。
「そうだな、お前はもう男に戻れないかもしれない。男として夢見ていた生活はできない。それは辛いことだ。」
どうしようもない状況、解決策なんて無い。男としていたい、その思いが強いほど、状況は辛く感じるだろう。
「でもさ、仮に病気にならず、男として生活できてたとしよう。いおが思い描く生活が、できている保証はあるか?」
「それは……」
「中学時代、友達がいなかったお前だ。 きっと、友達作りだって苦労してたと思うぜ? コミュ症なんて、一朝一夕でどうにかなるもんじゃないだろうし。それこそ、今のいおは過去を捨て0からスタートできる。願ったりじゃないか」
簡単には克服できない悩み。けど、考え方を変えることができれば、気持ちは軽くなる。そう導こうとしてくれる、兄の気遣いを伊織は感じた。
「兄貴は、優しいよな。男前だし、勉強できて、友達はたくさんいて。女は放っておかないよな。」
またしても、兄はぶっと噴き出す。
「今のお前に言われると恥ずかしいな! 」
兄は顔を少し赤くしながら、照れている様だ。
一呼吸起き、兄は口を開く。
「気持ちは落ち着いたか? 今の自分を受け入れる、それが一番だ。そしてお前が女で、女らしくなっていくことを恥じる必要はない。だって、いおは女なんだからさ」
女らしくなっていくことに対する自己嫌悪。重くのしかかる罪の意識を、兄が許容してくれた。
「ありがとう、兄貴。今の自分を好きでいられるよう、頑張る」
そう伊織が告げると、兄はぐっと親指を立てガッツポーズを見せた。
女であることを恥じるな ――
その後押しが、伊織の気持ちを強く支える。
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登校中の生徒が、西洋風の門をくぐり抜ける。
いかにも普通を極めた顔つきの男子と、地味なメガネ男子二人の会話が聞こてくる。
「おはよー。今日もねみー」
男子生徒は、大きなあくびをしながら傍の友人に話しかける。
「また夜更かしでスマホゲーやってたんだろ? 俺みたいに少しは小説でも読んだらどうだ?」
メガネをクイ、と上げながらメガネが返事をする。
「ばっか、昨日中にミッション達成しないとランクが降格しちゃうんだよ。てかお前小説とかいって官能小説じゃねえか! エロいことばっか考えてないでゲームで実績でも上げたらどうだ?」
高校生らしい、身の無い会話をしながら二人は校舎まで歩く。
「エロ小説であろうが読書だ。 ゲームばかりのお前よりは勤勉だと思うがね」
「なにをこいつ! メガネのくせに!」
そんな小競り合いをしていると、
前から長身スレンダーの美しい女子生徒が歩いてきて、すれ違う。
「な、なあ。今の子めっちゃ美人じゃなかったか?」
普通男子はその美貌に驚きを隠せない。
「お前初めて見たのか? あれは学年一の美女、深井 優だよ。」
メガネは何故か誇らしげに返事する。
「あれが噂の! かわいさで伊織ちゃん、美人で優様って言われてるよな。」
「ああ、ジャンルは違うが学年はその二人のファンで二分化されてるってやつだ。けど、優様は生粋のドSだ。」
メガネをクイ、と人差し指で上げながら話すメガネ。
「ドSって? なんか逸話でもあるのか?」
やれやれ、そんなことも知らないのかと言わんばかりの顔でメガネが返事をする。
「自分に対抗しうる容姿を持つ女子に、嫌がらせをするらしい。前の学校じゃ、それが原因でナンバー2の女子が登校拒否になった」
「なったって、お前優様と同じ学校だったとか?」
「ああ。 俺が話しかけてもまるでそこに存在すらなかったかの様に無視される。だが、俺にはそのSさが彼女の魅力であると思うがね」
なるほど、このメガネはドMの素養があるらしい。
「なるほどね。伊織ちゃん大丈夫かな? 」
「むう。伊織ちゃんは誰にでも平等だからな。この俺にも気さくに返事してくれるし。 嫌がらせなんてされてたら気分が悪いな……」
そんな二人の心配が、すぐに現実となる。
「あれ、上履きが無い……?」
自分の上履きが下駄箱から無くなっていることに、伊織は気づく。