第4話 一切れのハンカチ
あのあとはどうしていただろうか。
由美と遊んだ記憶は全て後悔で満たされていた。
財布の中身とクローゼットの中の服を見るに恐らく買い物でもしたのだろう。まるで他人事のようだ。
唐突なメールの着信音。
『今日は楽しかったですね。また遊びにいきたいです。
突然で申し訳ないのですが、最近ストーカーみたいなのにあってて…よく話し掛けられたりするんです。
私の乗る駅で待ち伏せて、電車の時間も合わせてくるし。どうすればいいですか?』
僕は直感的にそれがヒロだと思った。
あの時ヒロに話し掛けられ、限界来て僕に打ち明けたのだろうか。
ふと疑問が浮かんだ。
由美は誰に相談しているのだろうかと。
何故か自分が当事者で無い気がしてならない。
由美は僕に相談しているはずなのに。
いや、由美は本当に僕に相談しているのだろうか。
由美は本当の僕を知らない。それは僕ではないのだ。
「由美が相談しているのは、僕じゃなくて優子だ。」
息が詰まる。
上手く呼吸ができない。
心臓が痛い。
腹痛。
嘔吐感。
僕は耐えきれず蹲る。
いくら落ち着こうとしても、そんなことは無理だと、やる前からわかる。
トイレに駆け込んだ。
自分自身の吐瀉物を見て昼食のパフェを思い出した。
そして胃が空になるまで吐き続けた。
まるで自分が自分で無いみたいな、そんな気分。
求められているのは僕じゃない、"私"だ。
それなのに僕は勘違いをしていた。そのことにようやく気付い
たのだ。
「大丈夫?」
姉は僕の異変に気付いたのか慌てて駆け寄ってきた。
姉は僕を温かく包み僕の頭を優しく撫でた。
僕は自分の体が氷のように冷えていることに今更ながら気付いた。
再び嘔吐。
突然気付いた勘違い。
僕は何故今更、と思った。
今は姉の温かさだけが頼りだった。
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次の日は少し熱があったので、家で寝ていることにした。(正確には姉に寝かされていたのだが)何も聞かないで僕を看病してくれた姉には感謝している。
最近はお世話になってばかりだ。
昨日の夜は僕の端末に何通かメールが来ていたが今は見る気にはなれなかった。
昨日はあんなに良い天気だったというのに、今日は曇り空だ。
まぁ、こんな気分の時に晴天でも、何も晴れないのでこれくらいが心地よいのだが…。
窓から覗く薄暗い空をなんとなく眺めていると、不意に電話が掛かってきた。
不安が過ったが、気にしない方がいいだろう。
「由美…な訳ないよな。」
思わず、そんな独り言を呟いてしまい、それを誤魔化すかのように急いでスマホを掴み取る。
ヒロからだった。
「どうかした?」
「あ、突然で悪いんだけど、前に電車でお前と一緒になった時あったろ。覚えてるか?」
由美の話でもするのだろうか。そんな予感がして今すぐにでも電話を切ろうと思ったが、さすがに自分勝手過ぎると思い、自重した。
「覚えてるよ。あの女の子が可愛いから明日から早く電車に乗るよとかなんとかって言ってたやつでしょ。」
「そうそう。その女の子のことなんだけどさ。最近あの子を後ろから見守ってたり、あの子と一緒の電車に乗ったりしてたんだけどさ。」
僕はそんなタカの発言に、昨日のメールのストーカーはやはりタカだったか、と納得のような不安のよ
うな複雑な気分になる。
同時になにやっているんだ、と呆れてしまう。
「ストーカーは良くないぞ。」
「ちがっ。うっせーな。俺がストーカーなんてするわけないだろ。」
タカが動揺して話が反れそうだったので早めに軌道修正しておく。
「ごめんごめん。で、それがどうかしたの?」
「その子が改札出るときにハンカチ落としてったんだけど、なんとなく声掛けづらくてさ。とりあえず
拾ったんだけどどうすりゃいいと思う?」
「そんなもの知らないよ。僕以外に相談してくれ。」
「あ?しかたないだろお前くらいしかいないんだから。」
「そんなこと知ったことか、頭痛いんだよ。じゃあな。」
僕は苛ついて電話を切った。得体の知れぬ不快感が僕を襲う。
由美がタカにとられると思ったのだろうか。
由美が嫌がっているのに無理矢理近付くタカに苛ついたのだろうか。
そうだ、僕は由美の気持ちを考えないで自分勝手に行動する、タカが嫌いなのだ。
僕はそう決めつけて、考えるのを止めた。
気持ち悪い。吐き気がしてきた。
昨日と同じような吐き気だ。
無性に苛ついたからだろうか。
それをなんとか抑え込んで、ベットに横たわる。
なんとなく由美の事を考えていたら、ふと何通かきていたメールの事を思い出した。
むくりと立ち上がり手に馴染んだスマートフォンを掴み取る。
深呼吸をして、激しい鼓動を静めようとするが、なかなか収まらない。かわりに胃が痛くなってきた。
未読メールは4通。
1つはタカがさっき電話してきた内容だ。
残り3つは案の定由美からだった。
なかなか返事を寄越さない僕を心配するもの。
いつまでたっても来ない返信を催促するもの。
そして最後のメールは
懇願。
僕は胸を締め付けられるような痛みに耐えきれず、スマートフォンを床に落とした。
鈍く固く床と衝突した音が響く。
自分は何て身勝手なのだろうか。
何て自己中心的な考えなのだろうか。
スマートフォンを拾い上げひびの入った画面を一瞥し、無言でメールを書き始める。
『これからは電車、一緒に乗ろうか。』これが僕が由美にできる最大限の償いだった。
自分が由美に求められていない、というだけで、どうして優子として接していこうとしないのだろう。
由美は困っている。僕が今陥っている状態以上に困っている。
なのに僕は自分の事ばかりで由美の事なんてなにも考えていなかった。
タカと同じ、いや、タカ以下だ。
下劣な人間だ。
それでも求めている人がいるならばその人の為に行動すべきではないだろうか。
女装がバレたからなんだ、もともと友達なんてタカくらいしかいないじゃないか。僕が少しの犠牲で安心を得れる人がいるのなら、その人の為に犠牲になる、そんなことも出来ないのなら僕には由美が優子が、などと言う資格はない。
いや、もしかするとこれはただの自己満足になってはいないだろうか。
由美は別の解決策を求めているのではないか。そう考えると、送信ボタンを押すことができなかった。
指に上手く力が入らない。指が震える。
由美に否定されることが怖かった。
「なんか大きい音したけど、大丈夫?」
突然後ろから声をかけられ、僕は咄嗟にスマートフォン隠した。
結局、その日はメールを送ることは出来なかった。
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いつもより少し早い時間の駅のホームは不思議と懐かしい。次に来る電車の時間を確認しながら、僕は女子生徒の格好で電車を待っていた。
ヒロが拾ったハンカチは僕が女装して返せば変に怪しまれないだろう、という定で由美がよく通学している時間を、タカから聞き出たのだ。
とりあえず由美と一緒に電車に乗る口実は作った。
様子を見てメールを無視した件の謝罪をしよう。
それと同時に、これからのストーカーの対処についても、話すべきだろう。
電車が来る事を伝えるアナウンスと共に、少し強めの風がただでさえ危ういスカートを舞い上げていく。
カツラが飛ばないように押さえていると、少し遅れて電車が走ってきた。
由美が乗っているであろう車両に由美の存在を確認すると、僕は思わず固まってしまう。
ドアが開いても中に入ろうとしない僕は、後ろで待つ乗客達の責めるような視線に圧されて電車内に進んでいった。
偶々、由美の座っていた席付近は空いた。
だが、今声をかける勇気も、遠く離れてから声をかける勇気も無い僕は、由美から一つ席を空けて座ってしまった。
それでも隣に座ろうと決心し、尻を椅子から浮かせたときには、まあまあな年のサラリーマンが由美の隣の席に座ってしまっていた。
由美が通う学校まではまだまだあるが、悠長はしていられない。
だが皆が席に座ろうと目をギラつかせている中、わざわざ席を立ってすぐ隣にいる由美に話し掛けれる勇気があるのなら、もうとっくに由美に話し掛けている。
「僕は所詮…。」
「あれ?優子さんですか?」
心臓が跳ねた。
機関銃のように鳴り響く心臓に落ち着け。と叫びながら、僕は由美に向かって頷いた。
それを確認すると由美は立ち上がって私の前にある吊革を掴んだ。
すると、その様子から察してくれたのかサラリーマンのおじさんは一つ横に動いてくれたのだ。
二人そろって会釈すると、おじさんはにこっりと笑い返してくれた。
「よかった。メールも電話も反応してくれなかったので、何かあったのかと思いましたよ。」
実際に会ってみると、少し緊張がほぐれるものだ。
僕はいつものようにスマートフォンを取り出して文字を打とうとすると由美は異変に気付いたようだ。
「あれ、割れてるじゃないですか。画面。」
『落としただけ。』
「ちょっと見せてください。」
そういうと由美は僕の手からスマートフォンを抜き取った。
だが、反射的に見られてはいけない、と思った。
僕は由美から乱暴にスマートフォンを取り返す。
『中、見てほしくない。』
「見ませんって。」
幸いにも笑い事ですんだが、何故見て欲しくないか追及されると何も言えなくなってしまうのですぐに話題を変えたい。
いや、由美は僕の変な行動を、笑い事だけで済ませてくれたのだろうか。
負の感情を抱いたりはしていないだろうか。
それはともかく話を反らす為、何か話題を考えていると、由美に会いに来た目的を思い出した。
『あ、そうこれ、由美のだよね。』
「あぁ!探してたんですよこれ。」
由美は嬉しそうに息を弾ませて、ありがとうございます。と頭を下げた。
『ストーカー男から由美に渡して、って言われたの。』と打ったのたが、何故か由美にはそのことを伝えるべきではないと思った。
それでもどうしようかと迷い、遠くを見ている僕に困惑したのか由美は、どうかしましたか?と首を傾げた。
『もしかしたら人違いかもしれなかったから、安心しちゃって。』
「私なら優子さんを間違えることなんてないですけどね。」
そう自慢気に言い張る由美に、さっき私が優子か確認してたじゃない。と言ってやると、笑って誤魔化された。
僕は由美の反応に安心していた。
何も無かったかのように接してくれた由美に、感謝していた。
僕は不安で一杯だったのだ。
だが、ここからが本番だ。
『ストーカー』
「えっと。はい。」
由美は少し驚いていた。
きっと、メールを無視していた僕は関わりたくないと思っている、と思っていたのだろう。
そんなことはない。そんな訳がない。
僕は素直にそれを伝えることはできなかった。
だが、今は違う。
『今までごめんね。
なんか、由美に嫌われてる気がして。
どうすればいいかわかんなかった。』
「私が優子さんを嫌いになるわけ…」
僕はわかっている、という風に由美の言葉を遮った。
『もう大丈夫なの。大丈夫。』
そう自分に言い聞かせるように言う。
切り替え。
ふとそんな言葉を思い出した。
無理して優斗でいる必要も優子でいる必要もない。
由美といるときは優子、ヒロといるときは優斗。それでいいのだ。
二重人格みたいなものなのだ。
簡単なことだったのだ。
そう思うと今まで何に迷っていたかわからなくなった。
きっと優斗でいたかったのだろう。優斗でいることが正しいと思ったのだろう。
『これからは一緒の電車に乗ろ?』
「え、でもそんな。」
『ストーカー怖いんでしょ?』
「それはそうですけど、流石にそんな迷惑は、」
『私が一緒に乗りたいの。』
私がそう言って笑いかけと、
「是非!一緒に。」
と、由美も私に笑い返した。
その目に水滴が浮かんでいたことは、見なかったことにした。
僕はなんてどうでもいいことで悩んでいたのだろうか。自分に笑えてきた。
いくら優子に相談されたからといって、その相手などどちらでもいい。
今ならそう言いきれる。
再確認すればするだけ過去の自分に呆れかえっていた。
『そうだ、やっぱり文化祭来てもいいよ。』
「ええ!いいんですか?あんなに嫌がっていたのに。」
『私は自分のクラスに来てほしくなかったの。
だから文化祭に来てもらう分には大歓迎なの。』
『ただそれだと文化祭に来る意味が減るだろうけど。』
由美は全文を読まぬうちに抱きついてきた。
狭い電車では窮屈だったが、今はその窮屈さが心地よかった。
私は由美の落とした一切れのハンカチに感謝した。