第1話 出会いにはキッカケが必要だ。
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雲ひとつない。いや、正確には青空にひとつだけ浮かぶ雲が目立つ、そんな晴れた日。
僕は身にまとう違和感のような安心感ような複雑な気持ちに囚われたままいつものように電車を待っていた。
電車は、ひどくうるさい金属の高速で擦れる音と、駅に流れる女性の声のアナウンスと共に止まった。
僕は仄かな緊張に気分が高揚し清々しい気持ちで電車の中に入った。
頭では分かっていても抑えきれない衝動に戸惑いつつも、なんとか自分自身を保っている。
忙しい社会人達が早足で自分の横をすり抜け、僅かに空いている席に我先へと座っていく、そんな光景を見ながらも僕は今一度自分の服装を確認するようにクルクルと回っていた。
ふとした拍子に近くの女性にぶつかってしまう、一瞥されたのち彼女は呆れてスマートフォンに目を滑らせた。彼女には見えていないかもしれないが、一応軽く頭を下げておいた。案の定、彼女はスマートフォンばかり気にしていた。
そんな彼女の薄情な態度に、何故か心の底からほっとしてしまう。
何気無く外を見てみると気付かぬうちに自分の口角が上がってしまっている様子がガラスに反射してうっすらと見えた。僕は慌てていつもの表情を取り戻した。
細かく揺れる電車の中は女性ばかりで、なんとなく疎外感を感じながらも、外面だけは平然としていた。
目的の駅がもうすぐだと知らせるアナウンスが聞こえると、僕は女物とも男物とも取れるような素朴な見た目をしたリュックを背負い直し扉まで近寄った。電車は僕を揺らしながら止まり、僕は吊革になんとかしがみつく。電車が完全に静止した後、扉がゆっくりと開いた。
駅のアナウンスと共に降りた地面に踊る女性専用車両の文字。それを執拗に気にしている人間など、僕くらいしかいなかった。
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さて、僕が一番最初にこんなことを始めたのは、小学生の時、姉にふざけて姉の服を着させられた時だった。
必死の抵抗も虚しく姉のおもちゃにされてしまったのがまだ記憶に残っている。幸いにも(とは言い難いが)あまりにも僕の女装が自然過ぎて姉はすぐに飽きてしまった。
いや、むしろ気持ち悪がっていたものだ。
僕はその時に姉の友人に言われた「かわいいじゃん。」がまだ耳にこびりついて離れない。
今思えばあれが僕の女装癖の始まりだったのだろうか。
中学生になり自分の時間やまとまった金ができると、人生で一度も持ったことも無い女友達とやらに、服を買ってやるなどという言い訳を作り、女物の服を買った。
それを自ら好んで着て楽しむのは、僕の貴重な趣味の1つであったりもする。
高校生になり勉強や友人関係などの様々なストレスを発散するために、僕は中学生の時より高い頻度でこの格好をするようになった。
そして何を血迷ったのか僕はこの格好で学校の近くまで行こうと思ってしまったのだ。
そんなこんなで今に至るというわけである。
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僕は毎朝やっているように、いつもの駅でいつもの電車に乗り替えた。
違うのは格好だけだ。
僕はまた女性専用車両に乗り込もうとしたが、電車は出発のチャイムを鳴らしていた。
僕は仕方なく普通の車両に駆け込む。
視界の端に、見覚えのあるセーラー服が見える。
ここらでは有名な女子校で水色調の目立つ制服が特徴的だ。
非日常の中に感じた僅かな日常に胸の鼓動が早くなる。
男だとバレて無いか確認しているのか、それとも気紛れか、僕の目はその女子生徒の方にいってしまっていた。
なんだか辛そうな顔をして俯いているように見えるのは気のせいだろうか。
どうしたのだろうと思いじっと見てみるとその女子生徒の後ろにいる男。
その手が不自然な位置にあることに気付いた。
痴漢だ。
僕は慌てて助けようとしたが同時に関わりを持ちたくないと強く思った。
仮に痴漢を検挙したとしてこの格好で事情聴取なんて受けたくないし、万が一にも身分証、電話番号の提示なんて要求された時には僕が社会的に死んでしまう。
ふとした拍子にその女子生徒と目が合った。
僕はいつの間にか考えることができなくなっていて、反射的にその子の手を引いてしまっていた。
抱き寄せるように抱え込み女子生徒を電車の角際に追いやって、その子を守るように男に背を向けた。
横目で痴漢男の様子を確認するとそいつは白々しくスマートフォンを触っていた。
その手慣れているような行動に、さらに怒りが込み上げてくる。
「あ、ありがとう…ございます。」
彼女は僕の顎くらいまでしか身長がなかった。
そのため、彼女が見上げてくる形になって少し恥ずかしい。
それに僕が詰めすぎたせいか、まるでカップルのようだ。(僕が女装しているので同性愛者ということになってしまうのだが)
「………。」
僕はこれからは気を付けなよ、というようなことを言うつもりだったのだが、自分は今、はたから見たら女の子で、声が男だったらおかしいということを思い出した。
ギリギリのところで踏みとどまった僕は、何を言おうとしたのか飛んでしまい何も出てこない。
何か言うのかと僕を見てくる彼女に、ぎこちなく頷いておく。
例の痴漢男が電車から出ていく気配がなかったので次で降りるよ、と目だけで合図を送ると彼女もまた頷いて答えてくれた。
彼女は、最寄りの駅に着き、扉が開いたというのに出ていこうとしない僕に、困惑した顔を見せた。名案があるとでも言うかのようにウインクを見せてやると彼女は腹をくくったらしく僕の腕にしがみついてきた。
僕は扉が閉まる寸前に、扉の隙間を縫うように電車から出て行った。
痴漢男は焦って付いてこようとしたのだが、もう遅い。
扉は勢い良く閉まり、電車は煩く鳴きながらホームを出て行った。
彼女は最初は驚きを隠せなかったが、僕が何をしたかったのか理解したらしくほっと息をついていた。
とりあえず外に出ようか、と身振り手振りで伝えようと試みたが、彼女は首を傾げたまま長考する。
さすがに意思疎通が出来ないのはまずいと思った僕は、救済措置としてスマートフォンに文字を打つことにした。
自分をおいて、スマートフォンに文字を打つ様子を彼女は不思議そうに見ていたが、
『とりあえず外出よっか?』
と、その画面を彼女の方に向けると、ああなるほどと言う風に
「はい。」
と、答えてくれた。
何も考えずに駅を出てしまい、さてどうしようかと考えていると
「…とりあえずあそこ、…じゃ駄目ですか?」
と、彼女は近くに見える喫茶店を指差した。
なんとも味のある喫茶店、個人経営だろうか、なかなか洒落た外装だ。
僕はそれにコクンと頷いて答え、彼女を先導した。
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喫茶店に入ると店員が水を渡しに来た。僕は水を配り終わるとすぐに帰ろうとする店員の肩をポンポンと叩いて呼び止めメニュー表を開く。
話をしている最中に飲み物を配られると迷惑だし面倒だからだ。僕の意図を彼女も察したらしく、メニュー表と一所懸命ににらめっこしている。
彼女が決まるまで待とうかと思ったが、さすがに店員が困った顔をしていたのでとりあえず先に注文することにした。
僕は何の言葉も発さない自分自身に違和感を覚えながらも、メニューを指差した。ワンテンポ遅れて彼女も注文を済ませる。
店員が去ると僕はスマートフォンを取りだし
『名前は?』
と彼女に見せた。それに対し、少し恥ずかしそうに
「由美といいます。あなたは?」
と、由美は言った。自分で聞いておいて、名前を聞かれることを想定していなかった僕は、咄嗟に浮かんだ名前を名乗った
『優子』
優斗→優子。咄嗟に付けた名前にしては不自然ではないだろう。
そんな話をしていると、早々に店員が頼んだ飲み物を運んできた。
「ココアとブラックコーヒーですね。」
僕の方がココアを頼んでしまって子供みたいだけれど、気にしたら負けだ。店員は伝票を置くと、すぐに帰っていった。
ふと顔を上げてみると、由美がコーヒーを青ざめた顔でじっと見つめていた。
僕は由美の肩をつんつんと触り
『注文間違えたの?』
と見せると、
「そんなわけないですよ!」
と言って急ぐようにコーヒーに口を付けた。
案の定舌を少し出して熱そうに息を吐いていた。
そんな姿が可愛らしくてつい意地悪したくなってしまう。
『注文間違えたの?』
僕は固い笑顔を作りながら、一語一句同じ文面を差し出すと、
「見栄張ってコーヒー頼みました。」
と、由美は素直に白状してくれた。そんな由美の姿が面白くて、笑い声を抑えて笑っていると、由美には僕がからかっているように見えたらしい。由美はムスッとした表情を見せたが、それもすぐに馬鹿らしくなったらしく、僕らは一緒に笑い始めた。
「はぁー、なんか楽しいですね。」
さっき会ったばかりだと思えないほど自然に、僕は笑いながら頷いた。
そして、さりげなく由美のコーヒーと僕のココアを取り替えてやると由美は
「コーヒー飲めるんですか!?」
などと生意気なことを言ってきた。
逆に、由美が飲めないことに呆れつつ、僕はコーヒーを口に含んだ。
僕達はさっきの事件のことも、まるで些細な事だったかのように忘れ、今を楽しんだ。
生年月日や家族構成などベタな話題の中に出身校のことが入っていて、幸いにも僕の学校は共学だったため適当に誤魔化せたが、なかなかドキドキさせてくれたものだ。
今更ながらであるが今日は休日であり、しかも学校に向かう電車に乗っていた。にも関わらず、何故由美は僕と一緒に喫茶店で一休みしているのだろうか。突然そんな疑問が浮かんだ。
僕はその疑問をそのまま口にしてみた。
『そういえばなんで休日に制服で電車に乗ってたの?』
「……気分が優れなかったので少し外に出てリフレッシュしようかなと思ったんですよ。」
由美は、さっきまでの楽しそうな表情が嘘だったかのように暗い顔をして、もう残り僅かなココアにゆらゆらと漂う泡を眺めていた。
『私も…そんな感じかな。』
由美は僕の文字が見えていないのだろうか、何か考え込んでいるようだった。
何か地雷を踏んだのかと思い、不安に駆られながら再び文字を打つ。
『もうこんな時間だし、もう帰る?』
肩を軽く触ってやると由美はまるで、熱い鉄でも触ったかのような勢いでビクリと飛び上がった。さっき僕の打った文字を読み終えると、由美は急に僕の表情をうかがった。そして少し考えた素振りを見せた挙げ句、
「連絡先、交換しませんか?」
と、言い出した。僕は突然の申し出に驚いたが、素直に応じてやった。
連絡先の交換はすぐに終わった。由美はさっきのことは忘れたかのように浮かれている。
女装をしながらも、女心というものは中々難しいという友人の言葉を思い出し、なるほど、確かにそうだ、と少し感心していた。
複雑な心境だが今は素直に由美が喜んでくれたことをありがたく受け止めよう。友達がいないのかと心配になったが、それは彼女の問題であり、触れる必要はないだろう。お節介というやつだ。
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会計の時、僕がお金を出すつもりだったのだが、由美がどうしても自分が払う、払わせてくれと言い出した。
さすがに彼女に全部払わせるのは男としての面子もあるので(今は女という名目だが)割勘という形でお互いに妥協した。
僕は女装した状態で初めての女性との交流にどことなく満足感を覚えつつも、これ以上の発展は無いだろうという虚無感にも襲われてもいた。
恐らく、連絡先交換なんて社交辞令だし、それこそ女心はわからない、という思い故の虚無感だろう。
そう頭では思いつつもきっとまた会えるという期待を胸の奥に秘めて僕達の不思議な痴漢事件は幕を閉じたのだった。
「今日は本当にありがとうございました!」
痴漢事件に関してか、さっきの喫茶店でお喋りしたことか、どちらに対して言っているのか定かではなかったが恐らく両方に対してだろう。
『これからは気を付けなよ。』
そう言って、僕たちは別れた。