償い不動産
訳有りなのは知っていた。契約の時に不動産屋から説明を受けていたから。だから、春樹が慌てて部屋に駆け込んできても別に何とも思わなかった。
一人暮らしを始めるために大学に近い場所にアパートを借りることにした。これまでは1時間半かけて自宅から通っていた。ここからなら30分もかからない。これで、バイトやサークルの飲み会にも存分に参加できる。
一週間ほど前、不動産屋めぐりをしている時に偶然見つけた。
『家賃2万円、2DK。駅まで徒歩5分!』
この辺りの相場の4分の1だ。“償い不動産”その店名には少し引っかかったけれど、僕はその不動産屋のドアを開けた。
「この部屋、まだ決まっていませんか?」
「ああ、これね…。まだ空いているよ」
「じゃあ、決めます!」
「でもねえ…。私が言うのもなんだけど…」
不動産屋曰く、その物件は事故物件なのだと言う。以前、住んでいた家族が無理心中をしたのだそうだ。それ以来、家賃の安さで何度か入居があったものの「出る」と言って、ひと月もたたずに解約されるのだと言う。「出る」と言うのはもちろん“幽霊”のことだ。
若い夫婦と3歳の男の子が幸せに暮らしていた。父親は中堅どころの企業に勤めるサラリーマン。母親は子供が保育園に通っている間だけ近所のスーパーでパートとして働いていた。どこにでも居る普通の家族だった。
ある日、父親が真っ青な顔をして帰宅した。
「どうかしたの?顔色が悪いわよ」
「すまん…」
話を聞くと相場に手を出して莫大な借金を抱えたのだと言う。お互いの親戚中からかき集めても、とても返せるような金額ではなかった。
「どうしてそんなことに…」
「騙されたんだ。何十倍になるからと言ってあいつの言う通りに投資した。最少は順調に儲かっていたんだ。これでマイホームを購入できると思っていた。ところが…」
よくある話だった。
次の日から借金取りが取り立てに来るようになった。一日中電話が鳴った。外出すればやくざ風の男たちに付きまとわれた。父親は会社に居られなくなった。母親がパートをしているスーパーや子供の保育園にまで嫌がらせをされるようになった。
「もうだめだ…」
父親は台所から包丁を持ち出した…。
子供の頃から幽霊話や心霊写真などの類には全く興味がなかったし、信じなかった。
「平気ですよ。そういうのは信じないですから」
「今までもそう言う人が何人もいたのだけれど、結局はみんな出て行ってしまったんですよ」
「僕がもし、そうなったら違約金をお支払いしますよ」
「ほう!なかなかの自信ですね。そこまで言うのなら契約しましょう。それでは、ここに判を押して下さい。ただし、違約金はいらないですから。その代り…」
不動産屋は妙な条件を付けて来たけれど、こんな物件が2万円で借りられるのなら何の問題もない。僕は実家に戻ると、すぐに引っ越しの準備を始めた。
当日は大学で同じサークルの春樹が手伝ってくれることになった。荷物を運び終えたところで、一休みすることにした。
「缶コーヒーでも買って来るよ」
そう言って、春樹は近所のコンビニへ向かった。僕は部屋の窓を開けてタバコに火をつけた。間もなく春樹が戻ってきた。
「お、おい、大輔!大変だぞ!」
「そんなに慌ててどうしたんだ?金でも拾ったのか?拾ったものはちゃんと警察に届けろよ」
「そんなんじゃねえよ。お前知っていたのか?この部屋、出るんだってよ」
「なんだ、そのことか」
「お前知っていたのか?なのに、なんでこんなところに引っ越してきたんだよ」
「そりゃあ、家賃が安いからさ」
「悪いことは言わねえ。ここはやめておいた方がいい…」
そう言って狼狽えている春樹の前に立て掛けてあった荷物が突然倒れてきた。同時に開けっ放しだった入り口のドアがバタンと大きな音をたてて閉まった。春樹は髪の毛を逆立てて飛び上がった。
「うわあ!ほら、なんか居るよ。この部屋。大輔、悪いけど、もう手伝いは勘弁してくれ」
そう言うと、春樹は逃げるように帰って行った。
「まったく…」
僕は残った荷物の整理を終えスマホを手にして近所の蕎麦屋の電話番号を調べると出前の注文をした。
「五丁目の幸福荘201号室の…」
電話を切られた。リダイヤルしたけれど、それ以降はずっと通話中だった。
「幽霊が出る部屋には出前できないってか」
思わず吐き捨てた。仕方なくコンビニで弁当を買ってきた。
翌日、大学のサークルで春樹に会った。
「昨夜は何もなかったか?」
「あるわけないだろう!あんなのタダの噂話さ」
「ねえ、なんのこと?」
僕らが話していたら翔子が割り込んできた。翔子は僕が大学に入ってから付き合い始めた彼女だ。
「大輔のヤツ、幽霊屋敷に引っ越してきたんだぜ」
「あ、そう言えば引っ越すって言ってたわね。もう、引っ越したんだ。遊びに行ってもいい?」
「おい、やめておけよ。呪われるぞ」
「何バカなことを…」
僕は春樹の頭を思いっきり殴ってやった。
「ねえ、幽霊屋敷ってどういうこと?」
彼女が聞くので僕はその部屋を借りた経緯をざっと説明した。
「なんだ、そんなこと?私、そう言うのは信じないから大丈夫だよ」
彼女は早速、今夜、遊びに来ると言った。
サークルの仲間が僕の引っ越し祝いだと言って飲み会を開いてくれた。引っ越し祝いだと言うのは単に飲むための言い訳で、どんなことにでも理由をつけて飲み会になる。一体、どんなサークルなんだか理解に苦しむのだけれど、みんなノリが良くて僕は割と居心地がいい。もちろん、そう言う飲み会も大歓迎だった。
「よし!これからみんなで大輔のところへ乗り込むぞ」
部長の吉本が声を上げた。すかさず、春樹が口をはさむ。
「マジっすか?大輔のアパートって出るらしいっすよ」
「え~っ!本当?それってマジで楽しいじゃん」
半ば酔いつぶれる寸前の女子メンバー、希望が怪しい呂律で煽ってくる。
「おう、だったら本当に出るのか確かめに行こうぜ」
ほとんどのメンバーがそんなノリではしゃぎだす。僕は翔子と目を合わせる。翔子は諦めたように首を振る。今夜はせっかく二人で過ごすつもりだったのに…。僕は苦笑し、みんなをアパートに案内した。
8帖ほどもあるダイニングキッチンも7人もの男女が集まると少々狭苦しい。コンビニで買って来た酒やつまみを床に広げて7人が輪になった。この時点で希望は既に酔いつぶれてしまってその場に突っ伏した。
「仕方ないなあ。おい、大輔、そっちの部屋でちょっと寝かせてやってもいか?」
「かまいませんよ」
吉本部長に言われて、僕と春樹で希望を和室の畳の上に運んだ。残った6人で宴会の続きが始まった。
「結構広い部屋だな。家賃も高いんじゃないのか?」
「2万円です」
「ウソだろう?」
「だから、出るから安いんですよ」
「マジか!」
「よし、今日は寝ないで見張るぞ。幽霊が出たら取っ捕まえてやる」
しばらくの間、そんな会話で盛り上がった。最初は怯えていた春樹も部長の言葉や他のメンバーの冗談にすっかり安心してケラケラ笑っている。けれど、いつの間にか、みんな床に転がるように眠ってしまった。僕は翔子を抱きかかえると、和室に運び、希望の隣に寝かせ、タオルケットを掛けてから戸襖をそっと閉めた。それから、ダイニングに広げられた酒の入った紙コップやつまみの類を片付けると、僕は自分のベッドに横になった。
どのくらい眠ったのだろうか…。ぼーっとした頭の中で誰かに呼びかけられているような気がして目が覚めた。すると、横になっている僕の目の前に小さな男の子が立っていた。その男の子は水色のパジャマを着ていた。僕は一瞬、ギョッとしたのだけれど、どうせ夢だろうと開き直った。
「どうしたの?どこから来たの?」
僕はその子に聞いてみた。すると男の子は安心したように微笑んで話しかけてきた。
「お兄ちゃんは僕が怖くないの?」
「どうしてだい?」
「だって、今までここに来た人たちはみんな僕を見たら悲鳴を上げて逃げ出してしまったから」
そう言えば、一家心中したと言う家族には3歳の男の子が居たと不動産屋が話していたのを思い出した。でも、まさかこの子がその子の幽霊?そんなわけはない。聞いた話が潜在意識の中にあるからこんな夢を見ているのに違いない。
「そうか…。でも、僕は大丈夫だよ」
「本当に?じゃあ、また遊びに来てもいい?」
「いつでもどうぞ」
「僕、一人ぼっちで寂しいんだ。あの人たちと一緒に居てもいい?」
そう言って男の子はダイニングに寝転がっている春樹たちの方を見た。僕は「幽霊が出たら捕まえてやる」と言っていた部長の言葉を思い出した。
「いいよ。あの人たちも君に会いたがっていたからね」
僕がそう言うと、男の子は嬉しそうに笑って、春樹たちが寝ているダイニングの方へスーッと移動していった。
翌朝、僕が目覚めると、ダイニングには誰も居なくなっていた。どうやら、僕が起きる前に帰って行ったらしい。僕は戸襖を開けて和室の方を覗いて見た。翔子と希望はまだそこで眠っていた。僕は再び戸襖を締めると、キッチンで朝食の支度を始めた。鮭の切り身を三人分焼きながら、ほうれん草の味噌汁を作った。そして、実家から分けてもらった糠床からきゅうりを1本取出した。鮭が焼きあがる頃、和室の戸襖が開いて翔子が出てきた。
「わあ!美味しそう。大輔って料理もできるの?」
「こんなの料理のうちには入らないよ」
翔子はお玉に味噌汁をすくって味見をする。
「美味しい!ねえ、ところで部長たちは?」
「うん、僕が起きた時にはもう居なかった」
「ふーん、そうなんだ…。そう言えば、昨日、変な夢を見たわ」
「へー、どんな夢?」
翔子は思い出すようにしばらく考え込んでから話し始めた。
「昨夜、ここでみんなで飲んでいたら、小さな男の子が現れてずっと私の隣に居たのよ。何もしゃべらずにずっと座っていたの。他のみんなはその子に気が付かないの。一緒に居る間、その子はずっと楽しそうに笑っていたのよ。でも、私が寝ちゃって和室へ運ばれると寂しそうに私の方を見ているの。けれど、私が「おいで」って呼んでも来てくれなくて…。その先のことはよく覚えていないんだけど、最後はみんなと一緒に出掛けて行ったような…」
「その男の子って、もしかして、水色のパジャマを着ていたりして…」
「えー!どうして知ってるの?もしかして、大輔も同じ夢を見たとか?って言うか、あれは夢じゃなかったってことなの?」
「うそ!マジか?」
僕たちはせっかく用意した朝食も取らずに急いで大学へ行った。その時、希望がまだ和室で寝ていることなどすっかり忘れていた。
大学中を探したけれど、春樹たちはどこにも居なかった。携帯に電話をかけると「おかけになった番号は現在使われていません」とのメッセージが流れるだけだった。吉本部長や他のメンバーも同じだった。
消えた?
そんなバカなことがあるわけない。僕の額には嫌な汗がにじんできた。そんな時、翔子が呟いた。
「希望…。希望を置いてきちゃった」
「ヤバイ…」
僕たちはそのままアパートへ引き返した。部屋のドアを開けるなり僕は希望の名を叫んだ。
「希望!」
希望は和室で僕が作った朝食を食べているところだった。僕たちが慌てて駆け込んできたので希望はキョトンとして、しかし、すぐに鮭の身をつつきながら愚痴をこぼすように言った。
「どこに行ってたのよ?目が覚めたら誰も居なくて焦っちゃったわよ。でも、せっかくご飯の支度がしてあったから美味しくいただいているわ。これ、食べてよかったんだよね?」
僕たちは拍子抜けしてその場にへたり込んだ。その途端に僕の腹の虫も何か食わせろと催促をしてきた。僕たちは飯を食いながら、僕と翔子が見た夢の話と春樹たちが居なくなったことを希望に話して聞かせた。
「偶然よ。みんな、昨日はかなり飲んでいたから、きっと、家に帰って二日酔いでダウンしてサボっているのよ」
希望はまるで他人事のように言う。ひたすら鮭の切り身をつつきながら。
「じゃあ、携帯電話の件はどうなんだ?全員が現在使われてないなんて有り得ないんじゃないか?」
僕が言うと希望はこれまた他人事のように説明した。
「前に部長が機種変更すると言っていたわ。だから、みんなで一緒に変えたんじゃないの?」
「そうだとしても、みんなで番号を変えることはないんじゃないか?」
僕と希望が議論しているのを聞いていた翔子が突然叫んだ。
「きゃー!大輔、これ」
翔子が顔を青くして指差しているところを僕は何気なく見た。それは希望がつついている鮭の切り身だった。腐敗してうじが湧いている。希望は平気な顔をして、それを箸でつまんでは口に運んでいる。
「おい、希望。それ…」
僕の声など耳に入っていないようで、ひょうひょうと話を続けた。
「じゃあ、きっと、その男の子に連れて行かれたのよ。あなたたちも行きたい?あっちは楽しいわよ…」
そう言うと、希望はいきなり翔子の手を掴んで自分の方へ引き寄せた。
「ちょ、ちょっと!希望、何するのよ」
「お姉ちゃんもおいで。僕はずっと一人で寂しかったから。パパが借金をしちゃったから友達も居なくなって。ママもパパに殺されちゃって、そして、僕も…」
希望の口調がおかしい。一体何を言っているんだ?声も変だ…。いや、この声には聞き覚えがある。
「君は昨日の…」
僕が話しかけると、希望は…。いや、希望の姿をしているあの男の子が僕の方に顔を向けた。
「お兄ちゃんがいいって言ったんだよ。あの人たちも僕に会いたがっていたって。だから僕はあの人たちを連れて行っただけだよ。お兄ちゃんもこのお姉ちゃんも一緒においでよ。僕は寂しいんだ」
男の子は翔子の腕をさらに強く引き寄せる。男の子の周りには黒い渦のようなものが現れてきた。それは次第に大きくなって翔子の身体ごと飲み込もうとしている。
「大輔!助けて」
翔子が悲痛な叫び声を上げる。僕は翔子の身体に腕を回して必死でこっちに引き寄せようとした。すると、黒い渦の中からいくつもの手が出て来て翔子や僕の身体にまとわりついてきた。僕はまとまとわりついてくる手を払い落とすと、ありったけの力を込めて翔子を連れ戻そうとした。すると、更にいくつもの手が黒い渦の中から這い出してきた。その手の持ち主たちの顔には見覚えがあった。
「春樹!」
居なくなったと思っていた春樹や部長たちだった。
「お前も早くこっちへ来いよ。俺たち寂しいんだよ。こっちに来てまた一緒に酒でも飲もうぜ」
「おい!お前たちしっかりしろよ」
僕は必死に叫んだけれど、春樹たちには僕の声は聞こえていないようだった。そして、這い出てくる手は春樹たちのものだけではなかった。それらの手の持ち主はみんなこの黒い渦に引きずり込まれたこの部屋の住人だったに違いない。
「可哀そうなこの子のお友達になってちょうだい」
胸に包丁が突き刺さって血まみれの女性が言った。恐らくこの人はあの男の子の母親なのだろう。中にはやくざ風の男たちも居た。彼らは借金取りに来てここへ引きずり込まれたのだろう。とにかくいつまでもここに居たら僕たちもヤバいことになる。
僕はやっとの思いで翔子を連れて部屋を出た。急いでドアを閉めると震える手を何とか押さえつけてドアに鍵をかけた。ドアの向こうから希望の悲鳴が聞こえた。僕は翔子の手を取って全速力で走った。
僕は翔子を連れたまま、不動産屋へ向かった。息を切らして店のドアを開けると店内に人影はなかった。疲れ果てて、怯えた翔子を僕はカウンター脇のソファに座らせた。そして、店の奥に向かって叫んだ。
「すいませーん」
すると、間もなく店の奥から、あの部屋を契約した時の男が出てきた。
「どうしました?」
「解約する!」
「なんと!お客さん、あんなに自信満々だったのに…」
「冗談じゃない!あんた、全部知っていたのか?」
「最初にちゃんとお話ししたと思いますが」
確かに幽霊が出ると言う話は聞いていた。けれど、幽霊が住人をどこかへ連れて行くなんてことは聞いていない。
「僕は幽霊が出るとしか聞いていないぞ」
「お客さん、すべて承知の上でご契約いただいていますし…」
男はそう言って契約書をカウンターに広げて見せた。
「ほら、ここにちゃんと書いてありますよ」
そこにはこう書かれていた。
『この部屋では笑わないこと。また、他人を入れないこと。それに違反した場合は身を持ってその代償とすること』
なんてこった!僕は慌てて翔子を見た。翔子の隣には昨夜、夢に出てきたあの男の子がいた。
「お姉ちゃんは僕のお友達になってくれたよ」
男の子はそう言って嬉しそうに笑った。そして、翔子の腕を掴むといつの間に出来たのか床の黒い渦の中へ吸い込まれて行った。
「翔子!」
僕は叫びながら手を伸ばしたけれど、間に合わなかった。消えて行く瞬間にあの男の子が僕の方を向いて無気味な笑いを浮かべた。僕は男に向かって叫んだ。
「違約金を払う。だから、全部無かったことにしてくれ」
「お客さん、それは無理ですよ。そう言う契約なんですから。そうしないと私は妻と息子に許してもらえないんですよ。さあ、あなたも一緒に参りましょう」
そう言って男が僕の腕を掴んだ。
“償い不動産”今日も密やかに営業中。その店頭には一枚のチラシが掲示されている。
『家賃2万円、2DK。駅まで徒歩5分!』
幸せそうなカップルが店頭のチラシを見て、店のドアを開けた…。