一章 3
僕はまた、ここにいた。
他にいくところがなかった。ここしか僕の居場所は残っていなかった。
空は黒ずみ、海は汚泥、大地は腐肉のようだった。
体を小さくして僕はそれを見ていた。気づけば、震えていた。
窓から世界を眺めている。屋敷の電気が消えていた。真っ暗の居場所。
僕は暗がりに隠れながらも震えている。自分を抱きかかえ、守るように。
目を閉じる。それでも余計に震えているのがわかるだけだった。また開いて世界を睨み、眺める。
遠くでまた雷が光った。僕はその光さえも疎んじる。もうなにも聞きたくなかったし、なにも見たくなかった。
大きな窓から見える世界。僕はお気に入りだったその窓を初めてカーテンで塞いだ。少しばかりの明かりもそれで一切消える。部屋は完全な闇と化した。
寝台から毛布だけを奪い、隅でそれを被る。寒いのだろうか。震えが止まらない。熱がもれないように丸くなる。
それでも歯も膝も狂ったように笑い続ける。止めようとしてもさらに嘲笑う。
なんなんだ。一体。
考えても考えても理由はわからない。
ふくれていく疑問は僕を潰そうとする。僕はそれに耐えられなくなって、考えることをやめた。
そうしてなにもかもを拒絶し、小さくなることで時間を過ごした。
――そうして、どれだけ時間が経ったろうか。
なぜ、そうしていたのか忘れてしまうくらいには時間が経った。
歯も膝も笑うことには飽きていた。別のやることを見つけたんだろうか。
部屋の中は相変わらず闇しか広がっていない。
憎らしかったその場所も、慣れてしまうと不思議と居心地が良かった。
そうして僕はようやく頭を動きださせた。
思い出したのが、空や海のことだった。
過去はいつも幸せだった。変わってしまった今の姿を見るのは考えたくもなかった。
震えも止まり、僕は過去の中で微笑む。
ふと思った。
――僕はなにに怯えているんだろうか。
ここには僕のほかに誰もいない。いない誰かに怯えているのか? そうでないとしたら、僕は世界に怯えているのか?
でもこの世界は。
僕がつくった世界じゃないか。
僕がつくった世界は僕そのものだ。
僕は僕に怯えているのか。
――そう思うと口元が歪む。
馬鹿らしい。格好悪い。僕は何をやっているのやら。
その目で見るこの世界は情けない自分を見せつけられているようで、それだけで辛い。
不快感を押しこんで、僕はカーテンを開いた。
世界と僕が向き合う。
闇に慣れた僕にとって、汚れた世界はそれほど不愉快ではなかった。
黒色を薄めるのには時間がかかった。上から別の色で塗りつぶし、隠そうとしても時間が経てば黒がまたにじみ出てくる。
僕は必死になって黒を塗りつぶした。何度も何度も繰り返すことで空は少しずつ青さを取り戻し、大地に緑が芽吹く。
青は黒に負けぬよう輝き、緑は黒さえも自らへ変えようとする。
黒の気配を感じればその前に塗りつぶし繰り返し――そうして気配さえ消えた。
空はついに澄み、大地は緑で包まれた。風も戻ってきた。緑と潮のにおいも運ばれて、初めに望んだ自然の溢れる世界が帰ってきた。
……でも、やっぱりなんの魅力も感じなかった。色がついているだけ。なんだかよそよそしく感じられる。
それも見ていられなくて、僕は電気を消すように世界を暗くした。黒ではなく、夜。綺麗な闇だ。まだ新しい世界の空気は澄んでいる。僕にはちょっと吸い辛い。月や星にも静かにしているよう頼む。
僕はどうしたいんだろう。
よそよそしく感じているのはきっと僕のせいだ。僕が勝手にそんなことを信じ込んでいる。それでも問い掛けることはできない。だって、返事をしてくれないから。確かめようがない。
自然と遊ぶなんてのは嘘っぱちだ。相手がどう思っているのかわからないし、どれだけ期待しても応えてくれることだってない。そこにはただ僕がいるだけだ。滑稽な僕が踊っているだけだ。
また、僕に僕が帰ってくる。
僕は寝台に潜り込んだ。また考えることが面倒になった。疲れてしまった。
目的地のない悪路。歩くことが無意味に思えた。眠ろう眠ろうと思えば思うほど、どうしようどうすればいいのか、悩んでいる僕が表面に現れる。悪路といえども、道は道。誰かが何かのために作った道。僕はそこに立ち止まっている。不安に震えて縮こまってしまう。どっちへ向かえばいいんだ。この先はどこへ繋がっているんだ。ちゃんと道は続いているのか。
不安が不安を回す風車。不安が不安をかきたてて、止まることなく回り続ける。回り始めたそれは、回ることしかできない。風を切る不気味な音。
誰か。誰か止めてくれ。それを止めるには手が届かない。
暗闇の暗がりで僕は世界に訴える。
その音が鳴るたびに、僕の心臓が締めつけられる。
このまま潰れるのではないだろうか。
その恐怖に、自らをぶつけ合って音を立てる歯。ガタガタ泣き喚く膝。また奴らが動き出す。
しかし――瞳を開けると同時に、そのふたつがピタリと止まる。
「大丈夫」
女性が立っていた。
心の中で響くような、芯の強い声だった。自信にあふれたその声だけで、僕はその言葉さえも信じたくなった。
聴覚から、視覚へ。知らずになにひとつ見落としのないように努める。
白い、色素がないような肌。肉をそげ落したような危険な細さ。長い手足、高い身長。小さな顔に、整った鼻、小さな唇。目を引くのがその虚ろな瞳で、それさえも白い。さらにそこを白くて細い髪が流れている。
暗い世界の中では正反対のその彼女の白さは、立っているだけで特別だった。それは光というには白すぎて、広がるそれは闇を払っていく。いや、そうではない。その白さは、闇を、吸いこんでいた。
蠢く闇が彼女へ向かっていく。色だけが動く。物は動いていないのに、僕は自分も吸いこまれるような気がしてその場で体を強張らせた。
壁を闇が這いまわる。生き物のように騒ぎ、最後には彼女へと向かう。
彼女は瞳を閉じていた。風もないのに空間に広がった白い髪は、彼女の存在を大きく見せている。そこに闇が流れ、集まっていく。集まってどうなるのか、どこへいくのか。その答えはすぐに現れた。
広がった髪が黒く染まっていく。その度に闇が消えていく。
目が、離せない。
闇はさらに流れる。奔流となったそれは目で追うことも難しい。
髪は黒を黒く染め、闇色になった。
――最後の闇が吸いこまれる。続いていたものが止まる。世界から闇が消えた。風が止んだように髪も音を立てずに垂れ下がり、上から流れる。輝くような闇そのものの色を宿した長髪。
僕はまだ体を強張らせていた。
いつまで続くのかと思っていた沈黙の時間の中で、彼女は閉じていた瞳をようやく開いた。
――漆黒の瞳。
僕は息を呑んだ。
彼女は僕を真っ直ぐ見つめ、しばらく僕たちは見つめあった。そして彼女は緩慢な動きで近付いてきた。僕はそれに何かを言おうと口を動かすが、声にはならなかった。
僕の目の前にまで近付いた彼女はそのまま自然な流れで僕の顔を抱きかかえた。うろたえる僕に彼女はまたそれを口にする。
「大丈夫」
目を閉じて慈しむようにささやく。甘い、女性のにおいがした。
顔が赤くなるのを感じる。柔らかい感触が頬をおおっている。
――申し訳ない程度に小さくふくらんだそれ。
僕が初めに口にした言葉は。
「とりあえず服着て、服!」
――音はもう、止んでいた。