メチャシコ
デモニオンヒルから幌馬車で西に一日ばかり進んだところ。
俺たちは広大な荒野のなかにいた。
遠く東にはデモニオンヒルの城壁がぼんやり見える。
それ以外にはなにもない。見渡す限りの荒野だった。――
「今日はここでキャンプしようか」
俺はそう言って馬を止めた。
アンジェは頷いた。幌馬車隊に指示を出した。
すると幌馬車がいっせいに停車した。そして無数のテントが設営された。
テントの中心には、たき火、周りを囲うように柵が作られた。
たちまちフリーマーケットのような、あるいは野外コスプレ会場のような、そんな派手な集落ができた。
俺はその手際のよさと安全性に満足した。
アンジェや緒菜穂、仲間のテントを確認するとキャンプ場を散歩した。
まだ日は暮れていないがあたりは少し薄暗くなっている。
幌馬車は黒く、空は白く青く、まるで影絵のような景色となっていた。
東端に出た。
そこにはメチャシコがいた。
彼女は栗色のロングヘアーをなびかせて、お行儀が悪い感じに柵に腰掛けていた。
ぼんやりデモニオンヒルを見ていた。
俺は父性に満ちたため息をついた。隣に腰掛けた。
メチャシコは穏やかな笑みをした。
それからデモニオンヒルに視線を戻すと、彼女はこう言った。
「騎士団のみなさんは追ってこなかったですねえ」
「ああ」
「職務怠慢ですよねえ」
「まあね」
と言って俺は苦笑いをした。
するとメチャシコはイタズラな笑みでこう言った。
「出国を阻止して欲しかった――みたいに聞こえちゃいましたかあ?」
「いや」
「えへへ。でも、わたし、もしかしたら本当は止めて欲しかったのかもしれません」
「はあ」
「違う違うんですぅ。わたし、テンショウさんと一緒にいたいんです。テンショウさんのこと好きなんです、みんなのこと好きなんです。わたしはみんなと一緒にね、いたいんですよ?」
「うん」
「でもね、テンショウさん。以前にも言ったと思うんですけど、わたし2歳のときからずっとデモニオンヒルにいるんです。ほかの街に行ったことないんです。王国にいたことはあるけど、でも、そのときの記憶がないんです」
「まあ、2歳までの記憶だからね」
「ですから、テンショウさん。わたしにとってデモニオンヒルはすべて……って言っていいんですかね? なんかいい言葉が見当たらないですけど、とにかく、わたしにとってデモニオンヒルは、とても大きな存在なんですょ」
「……なんとなく分かるよ」
俺は息をもらすようにそう言った。
メチャシコはおどけてこう言った。
「なんだか、しんみりしちゃいましたね」
「まあね」
「ごめんなさい」
「いや別に謝ることない。俺もあの城壁を眺めていたら、なんだかそういう気分になってきた」
俺は笑顔でため息をついた。それからデモニオンヒルでの日々を振り返った。
心地よい無言の時間が流れた。
俺とメチャシコは肩を寄せ合って、ぼんやりデモニオンヒルを眺めていた。
しばらくののち、メチャシコは言った。
「まさかテンショウさんと、こんな関係になるとは思いもしませんでした」
「ふふっ」
「童貞欲しかったなあ?」
メチャシコはデモニオンヒルを見たままぼんやり言った。
「……俺、誘ったよ?」
俺は非難をこめてそう言った。
それから、かつて酒場でそうしたように彼女の腰を抱いた。
彼女のか細い腰を抱いて、ぐいっと引き寄せた。
メチャシコは、くにゃっと俺にもたれかかった。
それから言った。
「あのとき。わたしの心って、男の夢魔『インキュバス』の影響下にあったんですょ。だから男の子の精神で男の人に言い寄られてるような、そんな感じだったんです」
「うーん」
「今は女の夢魔『サキュバス』の魔法も使えるようになりましたから平気ですけど、でも、あのときのわたしは24時間ずっと男の子の心だったんです。いくら相手がテンショウさんでも肉体関係は無理ですょ」
そう言ってメチャシコは、つんと鼻を上に向けた。
ちょっと偉そうで誇らしげな顔だった。
俺が笑うと、メチャシコはぷっくらと頬をふくらませた。
それから、ぺちんと俺の手を叩いた。
そして言った。
「もう、笑いごとじゃないんですよ?」
「……ごめん」
「あのね、テンショウさん。テンショウさんってわたしと同い年で17歳ですよね?」
「ああ」
「それで童貞時代のことをよく思い出して欲しいんですけど、射精衝動ってありますよねっ」
と、メチャシコが久し振りに下品なことを大声で言った。
俺は思わず彼女の後頭部をひっぱたいた。
まるでコントのような、とても気持ちのいい音がした。
メチャシコは頭を押さえ、うらめしそうに顔を上げた。
上目遣いで俺を見た。それからちょこんと可愛らしく舌を出した。
すこし嬉しそうな笑みだった。
俺のツッコミを喜んでいた。
というか彼女はツッコミを誘って、ワザと下品なことを言ったようだった。
メチャシコはくすりと笑うと、下品な話を続けた。
「それでテンショウさんテンショウさん。十代半ばの男の子ってね、射精衝動ってあると思うんですぅ。今日は出したい、発射したい、なにがなんでも射精したい、朝からムラムラする下腹部の子テンショウがッ、ミスタ・テンショーソンが張り切ってしまってるッ、みたいなそんな日が、えへへ、ほぼ毎日だとおもうんですけどあると思うんです」
「こらっ」
「それでテンショウさん。わたしにもね、そういうのあったんですょ。心は男の子でしたから」
「……ああ」
「でも、わたしって発射できないじゃないですか。体がそういうふうにできてなくて」
「……あんまり下品なこと言うなよ。そういうのはノクトゥルノに行ってからにしようよ」
「えへへ。それでね、テンショウさん。わたし、ムラムラするんだけど解消できない、発散できないみたいな感じで、いつもイライラしていたんです。テンショウさんに逢ってからサキュバスの魔力に目覚めるまでのあいだ、わたしずっとイライラしていたんですょ」
「そう?」
そんな風にはまったく見えなかったけど。
「してたんですぅ! でね、だからってわけではないですけどね? わたしテンショウさんに酷いことしちゃいました」
「いや、まあ」
「今思い返してみれば、アンジェリーチカさまを恨んでいたのも八つ当たり、支離滅裂で意味不明ですぅ」
「それは」
たしかにその通りかもしれないけれど。
でも、あの時期のことに関して言えば俺も人のことを言える立場にない。
俺はそんなことを思って眉を上げた。
するとメチャシコは、
「ごめんなさい」
と言って、ぺこんと頭を下げた。
俺は肩を抱いて顔を上げさせた。
それから穏やかな笑みをして俺は本心を語った。
「実を言うと、あのときの俺はさ、いつもメチャシコの笑顔に救われていたんだよ。キミがいなかったら今の俺はない、心が病んでいたと思うんだ。そして一生うだつの上がらないまま、のたれ死んでいたと思う。ほんと、心からそう思うんだ」
「えへへ」
「だからキミにハメられたと知ったとき、俺は本気で怒った。メチャシコのことをずっと親友だと思っていたから」
「ごめんなさい」
「いや、勝手なものだよ。今思うとさ、俺は随分とキミに依存していたんだな。だから怒ったのも勝手、俺の身勝手さ。まあ」
オコチャマだったんだよな――俺はそう言って自嘲気味に笑った。
するとメチャシコは、きゅっと身をすくめ瞳をうるませた。
それからくちびるをねだるように顔を俺に近づけた。
そして可愛らしくすねて言った。
「もう。そんなこと言ってテンショウさん。だったらわたし、やっぱり童貞欲しかったなあ?」
「……女の子もそういうの、童貞欲しいとかあるの?」
「知りません。だって、わたしの気持ちって男の子なんですよ。わたしは17年間、ずっと男の子の気持ちで過ごしてきたんですよ?」
「……うん」
「だから処女が好きな男の子と同じなんです。わたしがテンショウさんの童貞を欲しがる気分は、男の子が処女を求める気分と同じなんですよっ」
「はあ」
「同じなんですよっ、キリッ!」
メチャシコはそう言って、バチッとウインクを決めた。
俺は無言で、わき腹に指を突っこんだ。
するとメチャシコは嬉しそうな声をあげて、腰をくねらせた。
その拍子に柵から降りた。
それから俺の胸に飛び込んだ。そして力いっぱい抱きついた。
メチャシコのたわわなおっぱいが、むぎゅっと俺を圧迫した。
「おっ、おう」
俺は思わずそんな声をあげた。
彼女は着やせするタイプだから、普段は美少年のようなすらっとした印象がある。
だからいきなり抱きつかれると、不意打ちを食らったような気分になる。
俺はあせり、つばを呑みこんだ。懸命に心を落ち着かせた。
しばらくするとメチャシコは甘えるように顔をあげた。
それから彼女は、とろけるような甘ったるい声でこう言った。
「緒菜穂ちゃん、フランポワンさま、アンジェリーチカさま、マコさん、それにデモニオンヒルのみんな。みんなテンショウさんを慕ってついてきましたよ?」
「ああ」
「今のうちに精力を充てんしておきますかあ?」
「こらっ」
「それとも、えへへ、エッチしてから充てんします?」
「あのなあ」
「わたしはパンパンのテンショウさんも、カラッカラのテンショウさんもどっちも好きですよ?」
「うーん」
「とりあえずテンショウさん」
「あのなメチャシコ」
「えへへ」
「………………」
「………………」
俺とメチャシコは見つめ合ったまましばらく沈黙した。
やがてくちびるが、かるくふれた。
メチャシコの美しい栗色のロングヘアーが風になびいた。
ふわっと、とてもいい女の薫りがした。
俺は彼女をきつく抱きしめた。
メチャシコは俺にぎゅっとしがみついた。
それから彼女はつま先だって、くちびるをもう一度、俺に寄せた。
と。
そのとき。
ガンッ! ――と、なにかが荷物にぶつかる音がした。
それと同時に、
「わっ、わりい」
と、茶髪の女がつんのめってきた。
穂村出身の炎の魔法使い、ガングロだった。
ガングロはぎこちない笑みのまま、しばらく俺とメチャシコを交互に見ていた。
「どうした?」
俺がぼんやり訊くとガングロは声を裏返して言った。
「なっ、ななななんでもねえよ」
「そんな動揺するなよ」
「しっ、してねえし」
「こっちが恥ずかしくなる」
俺がそう言うと、メチャシコがバッと離れた。
真っ赤な顔をして俺の後ろに隠れた。
俺は苦笑いをした。それからガングロに訊いた。
「なにか問題でもあったのか?」
「いっ、いや別に急ぎでもねえし、あんたらの邪魔をするつもりもねえよ」
「邪魔って」
「それに誰にも言わねえ」
「はァ?」
「うっ、浮気とかそういうのじゃねえんだろ?」
「浮気って」
思わず声に笑いが混じってしまった。
するとガングロはひどく動揺して言った。
「あっ、あたしは何も見てねえ。見てねえしっ」
まるで小学生が、父親のドぎついエロ動画を見つけてしまったような――そんな取り乱しかただった。
「ふふっ。いいから言いなよ」
俺は失笑しながら訊いた。
するとガングロは口をとがらせた。それから、ぼそぼそと事情を説明した。
どうやら食料を一日にどれくらい消費するかについて、もめているようだった。
「分かった。俺が行こう」
「わっ、悪いな」
「いや、指示しなかった俺が悪い」
俺はキッパリ言った。
ガングロはぽっかり口をあけた。尊敬が表情に現れていた。
やがて彼女は照れくさそうに俺から目をそらした。
そしてメチャシコに向かってこう言った。
「ああン、なんか悪いことしちゃったな」
ガングロはメチャシコに謝った。
メチャシコは、えへへと笑い、それからこう言った。
「食料の件は、ふたりにおまかせしちゃっていいですかぁ?」
俺とガングロは大きく頷いた。
俺たちはメチャシコと別れて、炊き出し場に行った。
その間、ガングロはニヤニヤしながら、俺の顔を無遠慮にのぞき込んでいた。
俺は笑うだけで何も言わず、ただぼんやりと星空を眺めるだけだった。




