その8
黒死病――この言葉を聞いたとき、俺の全身から血の気が引いた。
目の前に転がる死体が、この中世的な悪夢のような物語のはじまりだった。
「全員動くな!」
俺は跳びはねるように叫んだ。
交易・競売広場にいる騎士たちは立ちすくんだ。
ゼクスは座りこんだまま愕然としていた。
「この死体は黒死病だ! 俺たちは感染したかもしれない」
俺はそう言いながら、死体を激しく燃やした。
瞬間的に死体のなかを煮沸させ、あっという間に灰にした。
滅菌作用を期待したのだ。
そして。
俺はゆっくり首をねじ向け、後ろを見た。
アダマヒア門の内門には、何人か魔法使いがいた。
それを騎士たちが城塞都市のなかに入るよう誘導しようとしていた。
「よしっ。そのままゆっくりだ。ゆっくり街に帰るんだ。その距離なら感染していない。そうだなゼクス!」
俺は叫んだ。
ゼクスは何度も大きく頷いた。
俺は騎士たちに合図した。彼女たちは真剣な目をして頷いた。
魔法使いたちも深刻な状況だと理解した。
おとなしく内門からデモニオンヒルのなかへと帰りはじめた。
俺は安堵のため息をついた。
それから外門の側塔を見上げた。
外側城壁と内側城壁の間を見やった。
そこに向けて、両手を伸ばした。
念のため、炎柱で封鎖しようと思ったのだ。
が。
そのときだった。
「うっ、うえぇぇーぃぃいいい!!!!」
ゼクスが飛びだした。
まるで短距離走のスタートのように、ゼクスが内門に向かってダッシュした。
「あのバカ!」
俺は、両手を広げたまま悪態をついた。
慌てて魔力の放出を止め、それからゼクスに集中した。魔力を放とうとした。
ゼクスは黒死病に感染したかもしれない。
だから俺は、彼女が城塞都市に入るのを防ごうとしたのだ、が。
「んんんッ!!! うえぇぇーぃぃいいい!!!!」
ゼクスは、あっという間に内門の間際まで到達した。
騎士がとっさに盾を構えた。
魔法使いたちは思わず身をすくめた。
そこに向かってゼクスは飛びこもうとした。
その瞬間、まさに突入するかに見えたその時だった。
「てめえッ!」
魔法使いの一団から、茶髪の女が飛びだした。
女は低く鋭く飛んで、ゼクスに真っ正面からぶつかった。
がしっと、レスリングのタックルのように組んだ。
ゼクスを押し戻した。
そして瞬きする間もなく、女はゼクスを地面に叩きつけていた。
ふたりは、からみあい、もつれあって、俺の足もとまで転がってきた。
まるでアメフトのタッチダウンのようだった。
「なにやってんだコラァ!」
女はゼクスを組み伏せた。馬乗りになって叫んだ。
「ガングロ!?」
俺が呆然として彼女を見下ろした。
ガングロは俺を見上げ、ニヤリと笑った。
それから彼女は得意げに鼻をこすった。
「ガングロおまえ」
「分かってる。体が勝手に動いちまった」
「………………」
「なんだよ、そんな顔すんなよ。あんた領主だろ。さっさと封鎖しろよ」
「あっ、ああ」
俺は沈痛な面持ちでガングロのネクタイを外した。
ガングロは上目遣いで俺を見て、可愛らしく口を尖らせた。
俺は父性に満ちた笑みをした。それから顔をあげた。
内門を見た。騎士は頷いた。
騎士は騒ぎを静め、魔法使いたちを街のなかへと押し込んだ。
それが終わると、俺は内門の格子を落とさせた。
外門の側塔最上階には、騎士が数名いた。
俺は、彼女たちに塔の外、城壁の外に降りるよう言った。
そこから城壁をつたい、西のザヴィレッジ門から街に入るよう指示をした。
それから俺は、今いる『交易・競売広場』の東と西――外側城壁と内側城壁の間――の空気を振動させた。炎の壁を作った。
そして念のため、内門と外門の格子も炎の壁でおおった。
これで『交易・競売広場』の封鎖が完了した。
この場には俺とガングロ、番兵と騎士が数人、幌馬車の残がい、そしてゼクスだけが残った。幌馬車には誰も乗っていなかったのだ。
「さてと」
俺は大きく息を吐いて、ガングロに手を差しだした。
ゼクスは、ガングロを立ちあがらせる俺を見て、哀れっぽい、そのくせ嘲笑するような、えたいのしれない笑みをした。
それから、
「もう終わりだ」
と情けない声で言った。
俺とガングロは侮蔑に満ちた目で、ゼクスを見下ろした。
俺は訊いた。
「おい、おまえはこの死体を視て『黒死病』だと言ったな。この病気を知っているな?」
「……終わりだ」
「だったら言え。すべて話せ。おまえはこの『黒死病』のことをどこまで知っている?」
俺は冷淡な声で言った。
ゼクスは、ぼそぼそと語りはじめた。
「ブラックデス……この黒死病は、今から20年ほど前に、アダマヒア王国の魔法使い治療施設で偶然発明されたものだ。感染すれば、およそ10日間の潜伏期間の後、発症する。発症すれば致死率は100パーセント。必ず死ぬ。1日で死ぬ。治療法は、ない」
「感染ルートは?」
「患者の血液、分泌物、排泄物、それに唾液などの飛沫――だと言われているがハッキリしていない。患者の死体からも同様に感染する」
「病原菌を完全に殺し、安全を確保するためには?」
「病原菌とはなんだ?」
「……この場所に入っても黒死病に感染しない。そのようにするには、どうすればいい?」
「黒死病は寒さには強いが、熱にはおそろしく弱い。60℃程度で病の原因はなくなる。それに人間や死体がなくなれば、病もすぐにそこから消え去る」
「なるほど。人体の外では長く生きられないわけだな」
俺は大きく頷いた。
それからこの場にいる全員に向かって言った。
「ここにいる者は、黒死病に感染した疑いがある。念のため、2週間隔離する。ここに居てもらう。逆に言うと、2週間経っても発症しなかったら黒死病ではない。いつもの生活に戻っていい。この場所も安全である」
ガングロと騎士たちは、つばを呑みこむようにして頷いた。
ゼクスは寂しげに、まつ毛を伏せた。
俺は内門を見た。
炎の壁ごしに、デモニオンヒルのなかを見た。
番兵がふたり、こっちを見ていた。
俺は、大げさに内門のすぐそばにある側塔を指さした。
番兵は慌てて側塔を上った。
そして15メートルほどの高さにある頂上から顔を出した。
俺は、ゼクスから聞いたことを大声で話した。
ここにいる者以外は安全である、感染の疑いはない――と伝えた。
そして、今後も連絡はその側塔とおこなう言った。
番兵は大きく頷いた。
ひとりが下りて、それを騎士たちに伝えた。
デモニオンヒルの街は騒然とした。
それが炎の壁ごしにもよく分かった。
俺は穏やかな笑みをして、交易・競売広場の中心を向いた。
念のため、幌馬車の残がいを燃やした。
ばちばちと音を立てて残がいは燃えた。
俺たちはそれを、まるでキャンプファイヤーでも見るように、しばらく見守っていた。
やがて炎が落ち着いた。
ちょうどそのとき、アンジェが側塔から顔を出した。
「テンショウ!」
アンジェは涙で顔をぐちゃぐちゃにしていた。
俺は彼女を見上げ、ゆっくりと頷いた。
それから、街のことを頼む――と言った。
2週間分の食べ物が欲しい――と言った。
テントや生活用品が欲しい――と言った。
できることなら快適に暮らしたい――と、俺は大らかに笑って言った。
アンジェは泣き声をもらすと、口を押さえてその場に座り込んだ。
そばにひかえていた騎士が、俺を見て大きく頷いた。
彼女はアンジェを抱き起こし、塔を下りた。
で。
しばらくすると、塔から荷物が下りてきた。
それはロープに吊された食料だった。
俺たちはそれを受け取った。内容物を確認していると、今度は車載テントが下りてきた。何枚もの清潔なシーツが下りてきた。衣類が下りてきた。そして何枚もの羊皮紙が下りてきた。「これで連絡を取りあいましょう」と書いてあった。
俺は穏やかな笑みをして、一筆こう書いた。
数日したら緒菜穂たちがリオアンチョから帰ってくる。
アダマヒア門の手前で捕まえて、ザヴィレッジ門から中に入れてやってくれ。
騎士は、かしこまって頭をさげた。
それから塔を下りた。
俺は、やるべきことをひとまず終えて安堵のため息をついた。
大きく伸びをした。交易・競売広場を見まわした。
騎士とガングロがテントを組み立てていた。
幌馬車の炎の前には、休むところが作られていた。
俺はそこに座ると、ワインを飲んだ。
ゼクスが陰鬱な顔をして俺を見た。
俺はワインを一本投げた。
それから上着を脱いで、ゼクスに投げ渡した。
そして立ち上がると、俺はゲス顔でこう言った。
「おまえは何をやらかすか分からないからな。念のため壊しておくよ」
俺は外門近くの側塔まで行った。
そして側塔を振動させて破壊した。
側塔は下層が空洞で、地下牢のようになっている。
だから比較的容易に破壊できる。
ダルマ落としのように上層階が落ちてくる。
というわけで。
ビルの五階ほどの高さの側塔は、下層が崩れて三階ほどの高さになった。
俺はそのことによってゼクスが外に飛びおりることを防いだのだ。
「うえぇぇぃ」
ゼクスは上着を抱きしめ、がっくりうなだれた。
ガングロと騎士たちが作業を終えて、炎の前に来た。
俺はワインを大量に開けた。
食べ物を食べきれないほど並べた。
そして、みんなが普段出来ないほどの贅沢な食事にした。
それを日が暮れるまで食べて飲んだ。
戸惑う者には、食べるよう飲むよう命令した。
それから俺たちは、寄り添うようにしてここで暮らした。――
1週間が経った。
今のところ発症した者も体調を崩した者もいない。
それは黒死病の潜伏期間が10日ほどだから、当たり前といえば当たり前のことなのだけれども、しかし俺たちはそのことに安堵した。
その頃には、ここでの生活にも慣れていた。
俺はその間、アンジェとメチャシコ、フランポワンと筆談を交わしていた。
フランポワンは相変わらずスケベなことしか頭にないようだった。しかし文章からは彼女本来の賢さがにじみ出ていた。彼女は理知的な筆致で俺を気遣ってくれた。
メチャシコの手紙はつたなかった。書き慣れてないことは明らかで、おそらく彼女は伝えたいことの半分も書けていなかった。その苛立ちがよく伝わってきた。下手くそな文字で俺を笑わせようとしてくれた。
アンジェは流れるような美しい文章を書いた。文字も美しかった。量が多かった。それが日に何度も送られてきた。もちろん毎日送られてくる。彼女は多くの言葉、豊富な語彙で俺たちを思いやってくれた。政務を隅々まで報告してくれた。俺はそのことで、アンジェが王国とザヴィレッジに救援要請を行ったことを知ったが、しかし、そんなことはどうでも良かった。彼女の気持ち、それにふれるだけで俺はしあわせだった。それだけで隔離生活が満ち足りたものになっていた。
ちなみにゼクスは、まるでうつ病にかかったようだった。
無気力でずっと寝転がっていた。
彼女に信仰がなければ、おそらく自殺をしていたことだろう。
いや、その気力さえなくなっていたのかもしれない。
ゼクスは俺の上着に包まれて、ずっと丸くなっていた。
そういったなか、緒菜穂たちがデモニオンヒルに戻ってきた。
緒菜穂は相当暴れたみたいだ。
それをグウヌケルが懸命に止めてくれたようだった。――
翌日。隔離から8日目。
側塔からひとりの女性が下りてきた。
「店長!?」
ガングロが驚いて跳ね起きた。
女性は大衆酒場の店長だった。
彼女はガングロに微笑むと、俺のところに来た。
それからこう言った。
「領主さま。身勝手なことをしてしまい大変申し訳ございません」
「……ああ」
「みなさまは、あと2日くらいで黒死病が発症するかもしれない――と、それは教会の方より聞いております」
「その通りだ」
「私はそれを承知で、無理を言ってここに来ました。みなさまの料理を作るためです」
店長はおだやかな目でそう言った。
俺はため息混じりに頷いた。
すると彼女はこう言った。
「感染は覚悟のうえです。ですが、どうしても作りたかった。みなさまに温かな食事を食べてもらいたかった。それからあの娘に料理を教えたかった」
店長はガングロに視線を移した。
俺は沈痛な面持ちで頷いた。
「ありがとうございます。ところで、領主さま。あの外門側塔の上層部分には、ピッチを沸かすための炊事場があると聞きましたが」
「ああ、使いなよ」
「ありがとうございます」
店長は深く頭を下げた。それからガングロを連れて側塔に向かった。
側塔は下層が崩れていた。ちょうど炊事場のある階が落ちていた。
騎士たちは店長を思いやり、粛々とガレキを片づけた。
店長はガングロとともに調理場を調えた。
すぐに料理をはじめた。
店長はガングロのそばに立って指導した。
食材の扱いかたを。
鍋のふりかたを。
じゅんじゅんとして、女教師のごとく、また母親のごとく。
ガングロはおとなしくそれに従った。
店長とガングロは、まるで本当の母娘のようだった。
俺はそれを見ながらワインを飲んでいた。
ゼクスは横になり、ぼんやりたき火を見つめたままでいた。――
隔離から10日目。
感染していれば、そろそろ発症するはずだ。
しかし、俺たちは依然として無事だった。
あと数日は様子を見なければ安心はできないが、それでも、希望のようなものがこみあげてきた。自然と、みんなの表情が明るくなった。
ゼクスなど、あからさまだった。
むくりと起き上がって、食料をバクバクと手当たり次第に食べはじめた。
ニコニコしてワインを飲みまくった。
身だしなみを気にしだした。
第6公子としての気位を取りもどした。ようするに嫌なヤツに戻った。
そして、王族としての待遇を要求しはじめたのだが。
「うらあ!」
それを即座にガングロが、頭突きをカマして黙らせた。
ゼクスは仰け反ったまま、しばらく硬直していた。
やがて元の姿勢に戻るとゼクスは、にたあっと笑った。
ツッコミを入れられて喜んでいるようだった。
その晩。
俺は夜遅くまでたき火を見ていた。
特に意味などなく、ただ何となくぼんやり見ていた。すると、
「なっ、なんだよう」
いつの間にかガングロが、俺の横にちょこんと座っていた。
恥ずかしそうにうつむいて、しかし、じりじりと身を寄せてきた。
俺はちらりと見た。
目と目が逢った。
ガングロは急に顔を赤らめ、目を逸らし、そして無言でもたれかかってきた。
俺は微笑んだ。黙ってしばらくそのままでいた。
やがてゼクスがやってきた。
ゼクスは俺の横に座った。
それからガングロの表情を読みとり、手を差しのばした。
ゼクスは俺に寄りかかるようにして、ガングロの手を握った。
ガングロは、それを両手で握りかえした。
俺たちは身を寄せ合った。それだけで誰もなにも話さなかった。
みな、黒死病の発症を恐れていた。
俺は無言のまま顔をあげた。
月が残酷なまでに美しかった。――
13日目。
隔離終了を明日にひかえた夕刻。
俺たちは全員無事だった。
この頃には、もう誰も感染していないと、みな思っていた。
自然と食事は豪華なものとなり、俺たちもそれを賑やかに囲んだ。
ガングロは、店長とまるで母娘のようなケンカをしていた。
それを見て騎士たちは笑っていた。
俺もゼクスも笑った。
ただ、ガングロはゼクスに笑われていることに気がつくと、
「てめえも笑ってンじゃねえ」
と言って、いつも、つっかかっていた。
それからふたりは、じゃれあうようにケンカした。
妙な具合に仲が良くなっていた。
俺はワインを飲みながらそれを見ていた。
その夜、俺はいつまでも起きていたゼクスに訊いた。
「この黒死病を送ってきたのは、王国だろう?」
「………………」
「お前の話では、この病は自然のものではない。王国の施設で作られたものだ」
「………………」
ゼクスは大きく目を見開いたままでいた。
俺は続けてこう言った。
「そこまで魔法使いが嫌いか?」
「いやっ」
ゼクスはようやく言葉を発した。
それからこう言った。
「王国は魔法使いを嫌ってはいない。どちらかというと恐れている」
「ふんっ。イジメっ子が言いそうなセリフだな」
「それにこの黒死病は、おそらく魔法使いを恐れてのことではない。貴様だ、テンショウ・フォン・セロデラプリンセサ。貴様が王になることを、王侯貴族は恐れているのだ」
「ふんっ、迷惑な話だな。俺は王になどなりたくないよ」
俺はしんみり言った。
するとゼクスは、ぽっかり口を開けたままで俺を見た。
「ほんとだよ。俺には愛する女性がいる。俺を慕ってくれる者がいる。今の生活がある。俺はそれ以上を望まない。心からそう思っている」
「……その顔。どうやら本心のようだな」
「だからほんとだって言ってるだろ。それになあ、ゼクス。おまえ、しゃべりかた変えるなよ。もう感染の心配はないんだから、あのアホみたいなハイテンションでしゃべれよ。笑わせてくれよ」
「ふふんっ。……なあ、テンショウ・フォン・セロデラプリンセサ。あの黒死病を運ぶ幌馬車は、ボクのいるデモニオンヒルに突入したんだ。このゼクスごと黒死病にしようとしたんだよ。ハイテンションになど、なれないよ」
ゼクスは情けない顔をして言った。
「……それもそうか」
悪かったな――と、俺は言って立ち上がった。
テントで休むことにした。
ゼクスはしばらくたき火を見つめていた。
そして。
14日目の朝日が昇った。
感染者はいなかった。
黒死病の脅威は去った。
炎の壁を消し去ると、城門の格子があげられた。
それと同時に、緒菜穂が飛び込んできた。
そのあまりにも低く鋭い飛び込みに、みな思わず身構えた。
「ごしゅじん!」
緒菜穂は、俺に両手両脚でしがみついた。
満面の笑みでほっぺたをこすりつけてきた。
デモニオンヒルのみんなは、温かくそれを見守った。
俺たちの姿を見て、2週間ぶりのしあわせを実感したのだった。




