爪
M氏は、30代で始めた山登りを趣味として、定年までに日本の百名山を制覇することを目標にしていた。
それは、M氏の性格を表すように、計画通り着々と進んでいた。
春の日差しが強く感じられるようになると、M氏は、毎年のように体慣らしに近くの山に登ることにしていた。
1000m級の山であるが、山頂や沢には残雪がまだ多く、油断禁物ということを十分承知していたが、下山途中、右足が濡れ落ち葉ですべってつま先が岩に突き当たったときに、激痛が走った。
M氏は、その場所から少し下ったところにある祠まで、足をひきずって歩き、大きな石に腰かけた。登山靴をほどいて靴下を脱ぐと、爪がはがれてしまっていた。
痛みをがまんして、リュックの常備薬で処置していると、背中の祠から、『わしはこの山の精霊じゃが、ここから山を降りていくのは辛かろう。お主は他人が捨てたゴミも持ち帰るお人じゃから、手助けいたそう。わしの分身をお主の爪に変えてやろう』と声がした。
M氏は振りかえってみたが、いままで何度か見たことのある祠が何事もなかったように、たたずんでいるだけだった。
そして、ふと自分の足の親指をみると、痛みは消えていて、乳白色の爪が綺麗に生えていた。
M氏は賽銭箱に小銭を入れて両手を合わせた。
M氏は工務店の営業をしていたが、その日から新規のお客さんは増えるし、売り上げもトントン拍子に増えて行った。
その一方で困ったことがあった。それは、眠りにつくと、山の精霊の分身が、「私はひとりぼっちなので、相手してください」と語りかけてくるのである。
それがしつこいので、仕方なく、なぞなぞや昔話をしてやることになった。
同じものだと「それ、前に聞いたよ」と言うので、寝る前までに新しいネタを仕入れておかなければならない。
精霊が現れてから一ヶ月経った日に、伸びた爪を切った。
爪がはがれた親指の付け根からは、新しく生えてきた分が2mm近くあることが、ハッキリした境界線で分かる。
このままいけば、9か月で生え変わりそうである。
M氏は、あと8か月分の新たな、なぞなぞと昔話を憶えなければならないかと思うとうんざりした。
夜になり、寝付くと早速精霊の分身が声をかけてきた。
「切られても痛くはないけど、少しずつ身を削られるかと思うと、いや~な気分になるもんだね」
「分身のくせにそうなのかい」
「前の世界は、真っ暗な海の底の様なところで、何かを考えることもなく漂っているだけだったから、つまらなくてね。ここでは、言葉があったり、見るものに色々な形や色があって、それだけで楽しいんだよ。だから、このままずっとこうして居たいんだけど……」
「それで、毎日のように相手してほしい訳か」
「どうせなら楽しく行かないとね」
「でもどうして寝ている時なんだ?」
「起きている間はMさんの邪魔をしたくないからね」
「でも、おまえのために爪を切らないわけにいかないから、あきらめてもらうしかないな」
そうして9か月が経ち、いよいよ乳白色の爪を全て切る時が迫ってきた。
今日が最後のつもりで眠りにつくと、すぐに分身が話しかけてきた。
「最近、いつ切られてこの世界からなくなるかと思うと、落ち着かなくてどうしようもないよ」
「俺の方は、なぞなぞと昔話から解放されるかと思うと、嬉しくて仕方がないけどね」
「あと一ヶ月待ってくれたら、金塊が埋まっている場所を教えてあげてもいいんだけど、どう?」
「一ヶ月で何をするんだよ。往生際が悪くないか?」
「時間延ばしに過ぎないんだけど、つい未練がね」
「わかった。それじゃあ、新年を迎えるまで待ってやる」
M氏は金塊の話を信用したわけではなかったが、一ヶ月待ってやることにした。
クリスマスの日、イブの売れ残りのケーキを近くのスーパーに買いに行った。
M氏はこの半値のケーキを毎年買っていて、一人でかぶりつくのを楽しみにしていた。
その日は冷たく細かい雨が降って、盾のように傘をさして雨をガードしながら歩いていた。
そして、交差点に差し掛かったとき、歩道の縁石に右足を突き当てて、伸びた爪が根元からはがれる感覚がした。
M氏は、ケーキの箱が横断歩道に投げ出されてゆっくりと一回転するのと、歩道の信号からの真っ赤な光りが目に入った。
そして、膝を路面に強打し、ゴキッとにぶい音が聞こえた後、腹からしぼり出すような、「あ~、まだ死にたくないよ~」という分身の叫び声が聞こえた。
それに答える余裕も無く、つま先と膝からの激痛に顔をしかめて横を見ると、トラックが音も無く、DVDのスロー再生のように近づいて来るのが見えた。
その後、M氏は分身からの声は勿論、どんな音も聞こえることはなかった。
<完>