尋ね猫
雲の少ない青空は高く、太陽は力強く地を照らしている。思い出したように吹く風は、肩かけにしたうぐいす色の外套をほどよく揺らし、ひどい暑さを感じることもない。隅々まで喧噪が満ちる街は、まさに大貴族が住まうにふさわしい。予定になかった買い物の、ひとつやふたつをしでかしそうな陽気が心地よかったが、ゼルの心の半分ほどは、薄暗いもやに包まれているようだった。
「あの……本当にすみません。よく考えたら、テルデが初めてのゼレセアン様に、こんなことをお願いするなんて……」
傍らのケイトはそう言って、ふたのついた編みかごの取っ手を両手で握りしめた。屋敷にいる時の制服より、多少派手やかなスカートがよく映える。
そういった服のせいなのか、それとも色のせいなのか。ゼルとそう変わらない背丈にも関わらず、首も腕も、少し力を入れ過ぎたら折れそうなほど華奢に見えた。そんな彼女は、今やすっかり俯いてしまっており、わずかに低いところにある彼女の顔すら窺うことはできなかった。
「気にしないでくれよ。探し回ったら、たくさんの場所に行けるじゃないか。街の人の助けになるし、ぼくも街についていっぱい知れる。ほら、得しかないだろ?」
屋敷にいる時とは違い、きつくまとめられていない黒髪が流れると、やっとケイトの目が見えた。が、すぐにでも伏せられそうに弱々しい。
実際、ゼルは悪い意味でひどく衝撃を受けていた。こうしてテルデを見渡すのは、馬車に乗っていた時以来で、主要な通りが何本あるのかすらわからない。そんな異邦人にも等しい自分に、なぜ猫探しなど。“フェルティアードの騎士”ともてはやしてくれたのも、結局形だけだったのか。
だがそれと同時に、着いて間もないというのに、こうして頼み事をされるのは誇らしく感じていた。それが騎士という身分のおかげなのか、ごく平均的な平民のようななじみやすさがあるからなのか。はっきりさせるのは、できればあと回しにしたいところだった。
「ケイト、あれは? 屋台が並んでるけど」
「あ、あれは外から来た商人のお店ですわ。今日はそういう日ですので」
意気消沈しているケイトを元気づけようと、ゼルは視界に入った光景について尋ねた。そこには広場があり、統一感のない屋台がひしめいていたのだ。
「このあたりでは見ない食べ物、布、雑貨とかがあるんです。ご覧になられますか?」
ゼルは頷いて、陳列を眺めながら歩みを緩めたが、それらが本当にテルデ近辺では買えない品物なのか、わかるはずもなかった。
ケイトが漂わせる空気はあまり変わらないまま、市をひと回りすると、ふたりは飼い主の家のある一帯へ向かった。子供たちが駆けてきて、こちらが気をつけていてもぶつかりそうになる。だがゼルは嫌な顔ひとつしなかった。むしろ、村を思い出して懐かしいくらいだった。
違いと言えば、その人数が村よりもずっと多いことだ。軽はずみに遊ぼうなどと宣言したら、その波に押し負かされてしまいそうである。
「マルドは――あ、猫の名前なんですけど、よく脱走するんだそうです」
細く入り組んだ路地を、迷いのない足取りで進みながら、ケイトが話し始めた。物陰から向けられる小さな視線は、子供ではなく猫たちだ。件のマルドのように、飼われているのかはわからないが、自身も住民であるかのように溶け込んでいる。
「それに、ちゃんと家に戻ってくる子で。でも今度、別の街に住んでいる家族の子供が来るから、それまでに戻ってないと困る、というので、相談されたんです」
「困る? どうして?」
「その子供が、マルドをとても気に入ってて、いないと癇癪を起こすって」
「なるほど、それは一大事だ」
ゼルは笑いながら、そういうやつはぼくの村にもいたよ、とこぼした。
「マルドはあんまり遠くに行くことはないし、人見知りでもないと聞いたので、こうしてお気に入りのかごも借りて、探してはいたんですが……」
「人手は多いに越したことはないからね。大丈夫、猫の性格なら大体わかるよ」
「本当ですか?」
ようやく正面から見れたケイトの目は、日陰に差しかかっていたというのに、光を集めたように輝いていた。
「わたし、生き物を育てたり、一緒に暮らしたりしたことがなくて。何か間違った探し方をしていたかもしれないです」
「猫は犬みたいに利口なんだけど、言うことを聞いてくれないんだ。こっちが構おうとすると逃げるから、その気がないように振る舞わないといけない。ケイトは、マルドらしい猫を見つけたことはあったの?」
「はい、ほんの一、二回ですが。もしかして、と思って走ろうとしたら、あっという間に逃げてしまって」
ケイトも猫も、実に典型的な行動を取っていた。これではいつまでたっても捕まえられない。
「この近く?」
「はい、飼い主の家にも、ほんの数分で着きますわ。ただ、よそで飼っている猫や、住み着いている野良猫もいるので、マルドかどうか見極めないといけないです」
確かに、子供の数ほどではないにしろ、時折足元にまとわりつく猫も気になっていた。だが、ケイトが見た様子からして、こんなふうにすり寄る猫の中に、探し猫マルドが紛れているとは考えにくい。
念のため、目の届く範囲の地面を眺めてみたが、マルドの特徴であるという、明るい灰色の毛並みに黒い縞模様、そして両前足だけが白い猫は、やはり見当たらなかった。
「となると、あとはやっぱり」
高いところだよな、と屋根を見上げる。この一帯の家は平屋ばかりだったので、高所を好む猫や鳥がいれば、比較的簡単に見つけやすい景色だったのだ。
すると、ちょうど一軒隣の屋根の上に、一匹の猫が悠々と歩いているではないか。その毛並みは灰色に縞模様があり、日光のおかげで、もう少しで銀色にもなりそうだ。
「ケイト、いたかもしれない!」
えっ、と彼女が小さく叫んだ時には、ゼルの目はあたりを見回していた。一番特徴的な前足は、屋根に隠れて見えなかったので、確証だけでもつかみたい。
「あそこの屋根の上、灰色の猫がいるだろ? あいつから目を離さないで」
「は、はい! ゼレセアン様は?」
彼女がそう聞いたのも当然だ。ゼルはケイトを置き去りにするかのように、猫とは別方向に走っていたのだ。だがそれも数秒のことで、家の壁に立てかけられていた梯子をつかみ上げると、すぐに引き返してきた。
「マルドかどうか確かめる」
同じように屋根に登ったら、警戒されてまた逃げられる可能性が高い。猫の全身が見えるように、少し覗くだけでいい。軋みに気を使いながら、ゼルはゆっくり梯子に足をかけていく。
そっと屋根に手を伸ばした時だった。横合いから飛んできた何かが指先で乾いた音を立てたかと思うと、ゼルの目の前に跳ね返ってきた。
「うわ!?」
反射的に一瞬目をつむり、さらに身を引いたことが災いした。少しでも屋根に近づけようと、あまり傾斜がつけられていなかった木製の梯子は、この急な動きに耐えられるはずもなく、使用者を道連れに地面へ倒れこもうとしていた。
「ゼレセアン様!」
「だめだケイト、離れて!」
猫を見張るため、距離を取っていたケイトが駆け出す。それを制止するために叫ぶのだけが、落ちるゼルができた、ただひとつのことだった。
どうと倒れたゼルは、まず頭をひどくぶつけていないことを自覚して、ひと安心した。そしてすぐに、こうなる原因になった、飛んできた“何か”を思い出した。突然のことでほとんど見えなかったが、軽くて小さいものだったのは間違いない。
屋根から人が落ちてきた、ように見えたであろう人々が、どよめきながら人垣を作り始めているのにも気づかないまま、ゼルは立ち上がって足元を見回した。
土色の目立つ石畳の上に、何か場違いなものはないか――そんなゼルをからかうように、その背中に何かがこつんと当たった。いや、正確には刺さろうとしたのだが、その物自体に鋭さがなかったので、ぶつかって落ちただけだったのだ。しかし、細長いそれの飛翔は、ゼルを振り向かせるには十分な痛みを与えていた。
そこにあったのは、密集した人の塊だった。皆、何事かとゼルに視線を向けている。それだけなら、ゼルはこの塊をもう少し丹念に見ただろう。実際には、彼の視線はすぐさま一点に向けられていた。小ぶりな弓を肩をすくめながら構え、矢を放つ真似事を繰り返している子供へと。
「おまえ!」
もうあの物体を探す必要はなくなった。ゼルが地面を蹴ると同時に、子供はさっと背を向けて、大人たちの隙間を上手にすり抜けていく。その瞬間、子供が満面の笑顔だったのを、ゼルは見逃さなかった。あの笑顔はよく知っている。幼稚な罠やいたずらにはまった者に見せてくる、あの憎たらしい笑顔は。
ゼルの耳には、ケイトの呼ぶ声すら届かなかった。人垣を押しのけ、路地を駆け抜けていく子供の背を追う。今のいたずらは、散歩のさなかにされるのとはわけが違う。一歩間違えれば、こちらは大怪我を負っていたかもしれないのだ。
大小の角、曲がりくねった道を走るうち、ゼルはとうとう子供を見失ってしまった。体力はこちらが有利とは言っても、地の利は完全にあちらに分がある。往来はあるが、あたりの路地は狭く、陰る所も多い。子供を追いかけるうち、ずいぶんと奥まったところに来てしまったようだ。
荒い呼吸の合間に、ため息をつく。ああいう子供は、一度味を占めるとまたやってくる。警戒していれば次こそは。
ひとまず、思い出せるところまで道を引き返そうとすると、戻ろうした先からケイトが駆けてくるのが見えた。
「ゼレセアン様! よかった、こちらにいらしたのですね」
「ごめん、ケイト。探させたみたいで」
「大丈夫ですわ。危ないところでしたもの、ゼレセアン様がお怒りになるのはごもっともです」
やはりあのいたずらは、ケイトも見ていたらしい。
「せっかくそれらしい猫を見つけたってのに……。またやり直しか」
「あまりお気になさらないでください。期限まで見つからなかったとしても、依頼主に叱られるわけではありませんわ」
そう言うと、ケイトはうっすらと汚れたゼルの外套の裾に視線を落とした。
「大丈夫だとは思いますが、今日は念のためお屋敷に戻られてはいかがですか? あざなどできていたら大変です」
あざ程度ならなんともないよ――そう言おうと、ケイトに目を向けたゼルは、その言葉を発することができなくなった。
その時彼には、ケイトの目から指先に至るまで、自身の叔父の姿が重なったように見えたのだ。奔放を許す一方で、怪我や傷を負うと、人目を気にしたくなるほど身を案じてくれた、ただひとりの肉親。そんな彼と、年齢も性別も異なるはずの彼女が、自分の安全を第一に見てくれている。投げかけられた提案は、よくある形だけのものだと、言った本人の目すら見ずに断定したことを悔いるほどに。
これに対して、「なんともない」などと言えるわけがない。自分の安否を気遣ってくれているのをわかっていながら、それを正面から踏みにじるようなものだ。
「そうだね。一応、さっきの猫を見つけたところに寄りながらでもいいかな」
平気な痛みを、とても痛いと言わされているような気分だった。だが、ゼルがその気分を引きずることはなかった。返事をした瞬間、ケイトの身体からは目に見えて力が抜けていき、安堵でしか作り出せないような、たおやかな笑顔が浮かんだのだ。
こんなケイトが見れるなら、この程度の嘘は安いものかもしれない。雑踏も街の匂いも、知覚から外れたこのほんのわずかな間に、ゼルの視界の端にあった路地から小さな人影が飛び出してきたのだが、当然それも気づくことはできず。
「いてっ!」
「わ、あんたさっきの」
わき目もふらなかった人影は、ゼルに頭突きするようにぶつかったかと思うと、そう言ってようやく立ち止まった。
「さっきの、って……あ! おまえさっきの弓の!」
痛みに呻くはずの声が、瞬時に怒声に変わる。すかさずその腕をつかみ、ゼルは畳みかけた。
「捕まえたぞ! おまえ、あんなことやるなら時と状況ってのを」
「そ、それどころじゃないよ兄ちゃん!」
てっきりむくれるものと思っていた件の少年が、ゼルの手を振り払うこともせずそう叫んだ。あっけにとられてケイトを見れば、そちらも自分と同じような顔をしている。
「なに、そっちの姉ちゃん友だち? なら早く一緒に、こっから、離れて!」
ぐいぐいとゼルの腹を押しながら、少年が続ける。尋常でない様子に、ゼルは少年を咎めることを一旦忘れることにした。
「わかった、離れるから何があったかだけ教えてくれよ」
少年の腕をつかんでいた手を離し、ゼルはかがんで問いかけた。すると少年は、今しがた自分が出てきた路地のほうをちらりと見てから、か細い声で答えた。
「人が殺されてるのを見た。早く逃げないと」