晩餐
ゼルたち三人が歩き出すと、シトーレ以外の使用人のほとんどは、持ち場に戻るためか散り散りになっていった。ごく数名さり歩みを妨げないよう、ふたりの貴族の背から、外套を外してやっていった。
「ゼレセアン様のお部屋は、旦那様の書斎からそう遠くございません。図書室や稽古場もすぐですので、快適にお過ごしいただけるかと」
フェルティアードと並んで進むシトーレは、こういった丁寧な調子で、屋敷の説明をしてくれた。なんとか王宮の煌びやかさに慣れていたゼルは、それに比べればひっそりとして、落ち着ける内装――とは言ってもぞんざいに触れるには憚られた――のおかげで、平静な心でシトーレの説明に耳を傾けることができた。
「ところで、ゼレセアン様はこういったお務めは初めて、と聞き及んでおりますが、相違はありませんかな?」
「は、はい。……お恥ずかしながら」
振り向きざまの問いに、ゼルは尻すぼみな返事をした。いくら大貴族が選んだとはいえ、兵役に就いて半年にもならない、片田舎から来た男という、うしろ向きな自負は、ゼルの中から完全に消えたわけではなかったのだ。
シトーレの今の言葉も、それを汲んでのものだったのだろう。しかし彼はどうやら、ゼルとはすっかり逆に捉えていたようだ。ゼルの消え入りそうな返答に、彼はにっこりと笑いかけた。
「それは何より、私どもとしては嬉しい限りです。この屋敷の、ええ、旦那様がその目で、心で確かめ雇い入れた使用人、皆がどれほど立派で、頼りがいがあり、機知に富んでいるか。それを披露できる時が、今まさに訪れたのです」
シトーレは仰々しい演劇のように、腕を掲げていないのが不思議なくらいの口上を述べあげた。
「ゼレセアン様は、何も心配なさる必要はございません。指導こそ旦那様と、不肖このシトーレが執り行いますが、使用人たちも負けてはおりません。王都に戻られた暁には、ぜひその教養の高さを雄弁に語っていただきたい」
「シトーレ。おまえ街にどんな告示を出したのだ。騎士を伴うことだけであれば、あんなにも……いや、言うな。長くなりそうだ」
主人の苦言に目を輝かせたシトーレを見て、フェルティアードは自らが切り出した話題を打ち切った。
階段を上がった先、とある部屋の扉の前で、シトーレはようやく足を止めた。彼が扉を開けると、そこには王宮で見た貴族の執務室に似た光景が広がっていた。机や窓こそ、その大きさは半分程度に見えたが、ゼルにとっては大き過ぎるくらいであった。奥には寝台が見えるところから、扱いとしては客間のようだ。それでも、ゼルが王都に向かう途中で世話になった宿とは、当然ながら雲泥の差である。
「こちらが、ゼレセアン様のお部屋にございます。気兼ねなく自由にお使いください」
絵画の飾られた壁、火が灯らずとも輝いているように見えるシャンデリア、天蓋こそないが広過ぎる寝台。部屋をひと通り眺め切ると、ゼルはフェルティアードを振り仰いだ。
「なあ。おれは確かに騎士になって、ウォールスの位も頂いたぜ。だけど、こんなすごい部屋もらっていいのか? その、もう少し控えめなのを想像してたんだけど」
「おまえは妙なところで卑屈になるな。おまえはわたしの小間使いではない。国王陛下に仕える臣下だ」
フェルティアードに話しかけるゼルを見て、ふたりのうしろにいたシトーレが、一瞬目を見張った。が、すぐにその目を細め、柔和な笑みを浮かべる。彼はそのまま、両人の会話を聞き届ける姿勢を崩さなかった。
「それに、わたしとて好きで広い部屋を与えたわけではない」
「じゃあなんで」
「人が住まうように作った間取りは、どこもこれと同じだ。選ぶ余地がない」
予想外の理由のおかげで、ゼルはうなだれた。貴族の感覚というものは、平民の出のゼルには予測のつかないものが多そうである。
「それでは、私はひとまずこれにて。のちほど、お荷物と軽い昼食をお持ちいたします」
「待て、シトーレ。軽いとはどういう意味だ」
引き下がろうとした従僕を、屋敷の主は意外な単語を拾ってとどめた。
「わたしは軽い夕餉と書いたはずだが」
「ええ、旦那様のお手紙にはこうございました。夕餉は軽くで構わない、私どもに任せる、と」
急に先の見えない問答が始まり、ゼルは思わず聞き入ってしまう。
「我々は総出で真剣に考えました。はてさて、“騎士の席する軽い夕餉とは、いかに飾り立てるべきなのか”と」
フェルティアードの頬が歪み、眉がしかめられた。だがそこに嫌悪や怒りといったものを、ゼルは見つけることができなかった。例えるなら、子供に屁理屈を並べられ、呆れかえる大人の反応に近かった。
「そのようなわけで、数多の客人をもてなすほどではなく、さりとて騎士身分の者を無碍にしない程度には絢爛な――そうですな、つまりは控えめで豪華な晩餐の準備を整えた、という次第でございます」
してやったり、とはこんな表情のことを言うのだろうか。満足げなシトーレとは対称的に、フェルティアードは長々とため息をついた。
「ご心配なく。テルデの長も、警備隊長も、今夜の会には呼んでおりません」
「わかっている。おまえはそうするだろうさ。聞いての通りだ、ゼレセアン」
やや疲れたような調子を隠せないまま、フェルティアードはゼルに向き直った。
「わたしの忠実な屋敷番が、独断で盛大な歓迎の宴を準備したらしい。夕刻には案内の者が来るはずだ。それまでは部屋に居座ろうと屋敷を歩き回ろうと、好きにして構わん」
彼の言う忠実な屋敷番との、歯に衣着せぬやり取りを見聞きしてきたからだろうか。王宮で初めて見た時のような、映したもの全てに牙を向けるような鋭さ。見下ろしてくる金にも見紛う目から、ゼルはその類のものを感じ取ることはなかった。
詳しい話を聞かせてもらうぞ、と言いながら、フェルティアードはシトーレを連れてゼルの部屋を出て行った。そのあとで運ばれてきた、例の軽い昼食を食べ、その膳も下げられてから、ゼルは結局部屋を出ることはなかった。
装飾だけでできたような家具を見て回ったり、窓から眼下の街並みをじっくり眺めてみたり、昼間でも眠りに誘ってくれそうな寝台に寝転んでみたりしているうち、すっかり頭から抜けていた、叔父への手紙を書くことを思い出して、早速貴族らしく、使用人を使ってみようかと夢想していたのだ。
フェルティアードの言った通り、日が傾き色も赤く変わる頃、使用人がゼルの部屋を訪れた。夕餉の案内だった。
案内された階下の食堂の入口には、シトーレが立っていた。彼は軽く会釈をすると、ここまでゼルを連れてきた使用人を下がらせ、その役を引き継いだ。
食堂に足を踏み入れると、ずっとかすかに漂っていた芳香が、一段と強くなった。すでにカーテンは引かれ、室内は天井と、卓上からの明かりで満たされていた。広さのせいか、明かりはやや暗いように感じたが、食事に支障が出るほどでないのは、すぐにわかった。
というのも、部屋の大部分を占める長い食卓には花が飾られていたのだが、これの鮮やかさは十分過ぎるほど見てとれたのだ。どれも瑞々しく、おそらく今日この時のために摘まれたのだろう。
卓の端に差しかかると、食器の並べられた席が見えてきた。この食卓に座った者全員を見渡せる位置にある椅子は、間違いなくフェルティアードのものだ。そこからひとつあけたところの椅子を、先導していたシトーレが引いてゼルを促した。
ゼルが座ると、ちょうど卓の反対側、フェルティアード側に寄ったところの席に、やはり食器が用意されているのが見えた。
シトーレさんは、自分たち以外に客はないと言っていたはずだけど――そんな疑問が如実に顔に出たらしく、卓を回り込むところだったシトーレが告げた。
「ゼレセアン様、これは私の席にございます。旦那様の騎士になられたとはいえ、まだ日も浅い。おふたりのみで食事とは、いささかお疲れになることでしょう。僭越ながら、今宵は私がお話の種を撒ければと思いまして」
厨房に続くらしい奥の部屋から、使用人たちが姿を現すのに目をやりながら、シトーレは続けた。
「普段は給仕の仕事をしていない者も、今日だけはこの場に出ております。お食事を妨げない程度に、皆が挨拶を述べてまいる予定です。名前も役職も記憶にとどまらないでしょうが、お気になさることはありません。これはあくまでも我々の喜び、歓迎のしるしです」
街の人々のみならず、フェルティアードの屋敷の者にまで暖かく迎えられていることを、ゼルはようやく実感していた。それは大貴族という地位の偉人がとった騎士だから、という理由だけではない――そう確信を持てたのは、玄関に足を踏み入れた時の、そしてこの食堂にて一堂に会する使用人が、誰ひとりとして張り詰めた空気をまとわずにいたからだ。
「騎士を先に座らせたか。おまえらしい」
ようやく姿を見せたフェルティアードが、ゼルを見つけるなりそう言った。軍服のような堅苦しさを残しつつ、なんとか軽い室内着と呼べる装いの彼に、シトーレは一礼し、今度は主人の座るべき椅子を引く。
「使いを待たせず、時間通りに来ていただいたのです。それに旦那様も、お疲れなのはゼレセアン様のほうだと申していたではありませんか。お立ちのままで旦那様を待つなど、とんでもない。それより、旦那様がこんなに遅れたことに驚いております」
「片づけておきたい細事があったのだ。先に伝えたとしても、おまえはこうしただろうがな」
腰を下ろしたフェルティアードに、シトーレは再び大きな礼をした。自分のことをすっかりわかっている主人に対し、敬意か畏れを表しての行為だったのだろうが、どこか楽しそうでもあった。
主役であるゼル、そしてフェルティアードが揃い、シトーレの言う“控えめで豪華な晩餐”がようやく始まりを告げた。
運ばれてくる料理については、シトーレが逐一教えてくれた。そして彼が言っていたように、ゼルに料理を運んでくる使用人はその度に交代し、自分の名前と、この屋敷でどんな仕事をしているのかを簡潔に述べるのだった。
その顔ぶれのほとんどは、フェルティアードやシトーレと同年代に見える者だった。厨房のほうや席の死角から、軽い食器が落ちる音や小さく窘められる声が聞こえることがあるので、少なからず若い者もいるようだ。
食べるために形を崩すのもためらわれるような、芸術作品とも見間違える味わい豊かな料理と、シトーレによる話題の提示のおかげで、使用人たちの名乗りは、ゼルの頭から順調に消えていってしまっていた。彼がかろうじてできたのは、料理と顔を関連づけることくらいで、それも数える程度しか成功させることはできなかった。
年若い少女――当然名と役職は飛んでいってしまった――の運んできた前菜のひとつには、紫にも見える赤い花が添えられていた。ゼルは当然飾りだと思い、それでも汚さないようにと皿の端に避けていたのだが、少ししてふたりの皿を見ると、花は跡形もなく消えていた。思わず皿を見つめているところに、シトーレが「それは食べられますよ」と言ってきた。
「食用の花なのです。苦みもありませんので、ぜひお試しください」
そう勧められたので、ゼルは花をそっとすくい取って、おそるおそる噛んでみた。あまり味らしい味はしなかったが、ほのかに甘い花の香りと、溶けるような食感が残った。
「花を食べる、というのは、あまり馴染みがありませんでしたかな?」
「ええ、まあ……。こんな立派な料理に使われるとは、想像したこともなくて」
花を含め、一般的に調理に使われない植物を食べたことは、ないわけではなかった。村の友たちとふざけて遊ぶ勢いで、林や道端に生えているものをかじったことは何度かあったのだ。しかしそれも本当に幼い時期だけで、叔父の勉強で教養がついてきた頃には、年下の子供たちがそんなことをする様子を、苦笑いしながら見守るだけになっていた。
「この屋敷では、庭園と温室でたくさんの花も育てております。今の花はもちろん、木々や植物にご興味があれば、喜んでご案内いたしますよ」
言いながら、シトーレの顔は壁際に控えていたひとりの使用人に向けられた。彼と目が合うなり一歩進み出て礼をしたのは、件の場所を担当しているその人なのだろう。使用人の中では若い部類に入るその男は、確かすでに挨拶をされたはずだ。
フェルティアードの代わりに屋敷を取り仕切り、さらにはこの晩餐も計画した手腕から考えて、彼がこの花について何も知らない、というわけはないはずだ。草花の管理を任されている彼の出番を奪うまいと、わざと伝えなかったであろうことは、想像に難くなかった。
これだけの仕事をこなせるのは、その年齢の成せる業かと思っていたゼルだったが、それだけでないのは、シトーレの咲かせた話の中で知ることができた。彼は、フェルティアードがその名を継ぐ前から、つまり先代のフェルティアード卿の時代から仕えていたのだという。さすがにその頃は若輩者でしたよ、と彼は笑っていた。
フェルティアードとは、やはりと言うべきかまともな会話は生じなかった。反論することには慣れたものの、こういったごく普通の会話となると、逆にやりづらい気持ちになるのだ。なので、シトーレが主導権を握る歓談に加え、例の前菜を運んだ少女が厨房に運んでいた空の食器を取り落とし、年長者の助けも借りながら慌てて戻っていくささいな出来事すら、緊張を解きほぐしてくれたのだった。