大貴族の計らい
それはもう、びくりと肩を震わせるほどの大音量だった。壁に寄り添った棚の上には、気にもとめないような花瓶がぽつんと居座っていたが、それがかすかに揺れたように見え、ついそちらに目をやってしまったほどだ。
巨体のせいで、あまり大きく見えなくなった机に突っ伏し、背中を震わせていたと思えば、椅子の背もたれにのけぞって頭を抱えていたりする。忙しく体勢を変えていたが、その間ずっとあり続けたのは、事情を知っているゼルでなければつられてしまいそうな、愉快でうるさい大き過ぎる笑い声だった。
「ゲルベンス卿、あの……」
苦しそうに、すまん、と言う声が聞こえたような気がした。が、もしかしたら、こうやってまともな発言を待ち望んでいる自分が、都合のいいようにそう解釈したのかもしれない。ほんの数秒、おさまったかのように思えた笑い声は、また元通りの大きさに戻ってしまっていた。
幸い、使用人たちはほとんど部屋を去っていて、会話を切り出す頃合いを見逃し続けているさまを見られる心配はなかった。残っていたほんのひとり、ふたりは、どうやらゲルベンスにとって馴染みの者らしく、最後の仕上げをしつつ、この気の毒な青年に苦笑いを浮かべていた。
今日一日どころか、一か月分の笑いを消費したのではと思うほどの笑声が、やっとのことで終わりを告げた。節くれだった手がにじんでいた涙をぬぐい、深い吐息を伴いながら、両目がこちらに向いたのを見て、ゼルのほうは安堵のため息をついた。
「いや、まずご苦労様だったな。おれの仕事を押しつけちまって」
そうですね、という相づちは心の中だけにしておいた。不機嫌な低音になって外に出ていくのが目に見えていたからだ。そうしたらこの貴族は、また笑い出すに決まっている。そこまでわかっていて、わざわざ話の進行を止めるようなことはしていられない。ただでさえむくれた顔になっているのはわかっているのに。
何も言い出さないゼルに、さすがのゲルベンスも不安になったらしい。身を乗り出し、少し高くなっていた声を普段の調子に無理やり直しながらも小声で、
「いやな、ほら、あんなことになってるところに、給仕なんか行かせられないだろ?」
そう言うので、やはり、フェルティアードがああなっているのを知っていての依頼だったようだ。一計を講じられた悔しさもあるが、一分の乱れもないような大貴族の、あのひどい身なりを思い出すと、なんともやるせない気分になるのだった。
もちろん、フェルティアードとて人間である。少しばかり気を抜いたり、ゆったりと休息を取ることがあっても、なんら不思議ではない。むしろ当たり前でもある。しかし、最も高位にある貴族というだけで、思っていた以上に期待をしていたらしい。彼の、おそらく日常の一端は、ゼルにとって親近感を覚えるどころか、落胆に近い感情をいだかせてしまっていた。
そうですね、とゲルベンスに応じた言葉は、予想通り低かったうえに棒読みだった。
「あいつもちょっと抜けてるとこあるっていうか、おもしろいやつなんだってのを教えてやりたかった、んだけど、な……」
余計なお世話ですと返さないのが奇跡のような目つきのゼルに、ゲルベンスの言葉尻はしぼんでいった。
「……失望しちまったか?」
視線を合わせることもいたたまれなくなったのか、こちらの様子を窺うそぶりは、まるでいたずらを自慢したものの、笑ってくれない大人たちの反応を怖がる子供そのものだ。作り笑いは今にも分解しそうである。
「いえ、さすがに失望まではしませんが。どちらかというとゲルベンス卿に失望してます」
まさか、ここまでいたずら好きの子どものような人だったなんて。
「うはは、ゼル君も言うようになったなあ。結構結構、それぐらいでちょうどいい」
ゲルベンス卿でも、小さな嫌味のひとつぐらい飛ばしてくるのではと思った。この場の状況に流され乗ったからといっても、目上の貴族に失望などという言葉を伝えるなど。しかし彼は変わりなく、むしろ嬉しそうに椅子に背を預けた。逆に彼のほうが、この言動のおかげで解放されたかのようだった。
「少しでも仲良くなれればと思ってな。なに、悪気があったわけじゃないんだ。きみも騎士になったばかりだし、あいつもきみぐらいの歳の子を相手する、の、は……」
ゲルベンスの顔と声から覇気が消えていく。自分はまだ嫌な顔をしていたんだろうか。それにしては目が合っていない、と思ったその時だった。
「悪気がないだと? 謀っておきながらよくそんなことが言えるな、ヘリン」
離れた扉のほうから、低く澄んだ声が響いた。見れば、いつの間にかフェルティアードが姿を見せている。元気を分けてくれそうなまばゆい日光は、分け隔てなくこの男をも照らしてくれていたが、それすら敵視し、跳ね返してしまいそうな重苦しい空気は相変わらず、剣を帯びぬ兵はいないのと同じように、そこに漂っていた。
フェルティアードは見慣れた平時の軍服に身を包み、深く沈んだ青の外套をまとっていた。口元と、顔の輪郭を縁取る髭も整えられ、少し前にゼルが見た姿の面影は、どこにも見当たらない。
あからさまにまずい、という表情になったゲルベンスを、眉をきつく寄せ睨んではいたが、こんな表情は今に始まったことではない。靴音がわずかにぎこちないのは、怪我がまだ治りきってないからだろう。
「よ、よおレイオス。早いな、準備できたのか?」
「いつになく酒を勧めてくると思っていたら、そういう魂胆だったのか」
とってつけたような質問は、ばっさりと切り落とされた。
まっすぐに歩いてきたフェルティアードを見て、ゼルはさっと身を避けた。そうでもしなければ、突き飛ばされそうな勢いだったからだ。
「おまえ、最初からこの男を差し向けようとしていたな」
音を立てて、フェルティアードの両手が机に叩きつけられる。差し向けるとはなんだ、おれは朝食を置きに行っただけだぞ、と言える状況ではなかった。
「だーから、親しくなるにはまずゼル君の緊張をだな」
「余計なお世話だ、このおせっかいが」
ゼルにとって、これは見たことのある光景によく似ていた。突然騎士の叙任式になってしまったあの日のものだ。
同期の新兵に、きみはフェルティアード卿の騎士になったんじゃないのか、と改めて問われるくらい、ゼルのところにはよくゲルベンスの姿があった。それくらい、頼んでもいないのに面倒を見てくれた彼に、本当の上官になるフェルティアードのことを聞かないはずがなかった。
予想通り、ゲルベンスとフェルティアードは友人同士ということだった。それも、お互い正式に家を継ぐ前からのつき合いだという。どうりでふたりの会話からは、地位の違いから生じる垣根を感じ取れなかったわけである。
「別に全部が全部仕組んでたわけじゃないんだからな。おまえが騎士をとるなんて、そりゃあ祝いたくもなるさ。酒だって飲ませたくなるだろ」
だから、ゼル君を行かせたのはついでだ、と笑う。ゼルの位置からフェルティアードの顔はよく見えなかったが、頬が引きつるように動いたのはわかった。
いつまでも無駄な口論をする性分ではないのだろう。両手を戻して姿勢を正すと、フェルティアードはゼルのほうを向いた。自分はこの男の目に入っていなかったと思っていたゼルは、少しばかり面食らってしまった。
「ゼレセアン、用意はできたのか」
「あ、ああ。できてるよ」
「では、表に馬車を回しておく。先に行っていろ」
それだけ言って、フェルティアードは部屋をあとにした。ひどくさっぱりとしていて、物足りなさすら感じたほどだ。
しかし、気にすることでもない。必要最低限のことしか言わないのは、いつもの話だ。がっかりしているようなのは、ゼルではなくむしろゲルベンスのほうだった。
「相変わらずだなあ、あいつ」
頬杖をつき、らしくもなくため息をつく。呆れているようだったが、緩んだ口元からは、同じ感情は見て取れなかった。
「ゲルベンス卿、昨日はフェルティアード卿に何をされたのですか?」
ジュオール・ゼレセアンという騎士を伴い、怪我の療養休暇と称した、領地への一時帰還。その前夜に、ゲルベンスが友のために、宴会を開いたとしてもおかしくはない。今朝のフェルティアードの様子から、ある程度想像はついたものの、ひとり事情を知らないゼルは、その質問を投げかけずにはいられなかった。
「なーに、あいつは単に、酒飲み過ぎると朝に弱くなる体質なだけよ。周りには、しこたま飲んだ日の翌朝はいつも以上に不機嫌だから、落ち着くまではおれが代わりに行くってことになってるんだ。実際はああだけどな」
どうやら彼は、大貴族の秘密をひとつ、教えてくれたつもりらしい。かの大貴族からしてみれば、かなり不本意だったようだが。
ゼルにしても、あまり得をしたとも言えず、順調に関係を良くしていくものにはなり得ない情報、と分類していた。しばらくの間、大貴族の屋敷に住まわされることで、自分に教えられるのは、貴族位にふさわしい振る舞い、常識、それらについての勉学だろう。これにはほとんど、師となる貴族の私生活云々は関わってこないからだ。
さっきはああ言ってたけど、最初からフェルティアード卿のところには、おれを行かせるつもりだったに違いない。そんな推測が顔に出たのか、ゲルベンスは無言で、示し合わせるように歯を出して口角を引き上げた。
「向こうではがんばれよ。あと、こっちに帰ってきたら、おれのことはゲルベンス卿じゃなくてベンって呼べ。間違えんじゃないぞ」
「はっ? いや、あの」
何を言うかと思えば、この大貴族は。ひとつふたつ程度ならともかく、一体いくつの階位のひらきがあると思っているのだろう。
ゼルの反応は見越していたらしく、ゲルベンスは声をひそめて続ける。
「なに、公の場でとまでは言わんさ。前も言ったろ? おれは身近な人間に、かたっくるしい態度取られるのが苦手なんだ」
ゼルはもはや、フェルティアードが受け入れた新兵のひとりではなくなっていた。直属の部下と言ってもいい。それはゲルベンスにとって、さらに近しい位置になったということなのだろう。
「わ、わかりました。……ベン、さん」
絶対に忘れる、という自信が瞬時に固まったので、ゼルは無理にでも実行して、わざと自分に覚えさせることにした。呼び捨てにこそできなかったが、敬称は気軽なものにした。これでも譲歩したつもりだ。
ゲルベンスのほうも、そこまで突っ込んでくることはしなかった。立ち上がって机を回り込み、よくできましたとばかりに頭をなでてくる。なでたというよりこねくり回された、というほうが合っていたかもしれない。おかげで、せっかく整えた髪の毛が、またあちこちに飛び跳ねてしまった。
「よしよし、その調子だ。あいつのことも、そんなふうに呼べたら楽だろうになあ」
敬服すべき位の貴族に対し、ゲルベンスの言う“堅苦しい”呼称を使うのは常識であり、当然のことだ。だがゼルは、国を支える敬うべき人間だとわかっているものの、心の底からフェルティアードという男を信頼してはいなかった。こちらの真意を汲み取ろうともせず、どうせこうだろう、と決めつける態度が気に食わなかった。
貴族を目指す新兵たちの、その志に比べたら、ゼルの心意気は小さいものかもしれない。そうであっても、誰にどんなからかいを受けようとも、迷うことはないと胸を張れる気負いはあった。
そこに、欲にかられて自分のことしか考えない愚か者になるのが関の山だ、と言われて、黙っていられる性格ではない。こうして騎士になったとはいえ、あの男はまだ自分をそういう目で見ているのかと思うと、手放しで喜べない部分があった。
そういった理由で、ゼルは半ば仕方なく“フェルティアード卿”と呼び続けているが、本音を言えば、形式ばったこの呼称を使うのは嫌いだった。それでなくても――ほとんどの貴族がそうだが――長い家名である。略することを許す貴族もいるにはいるらしいが、フェルティアードはまずあり得ないだろう、と望みはとうに捨てていたのだ。
「あの方は、お許しにならないでしょう」
「いや、そうでもないと思うけどな」
そのひと言に、ゼルは閉じられた扉を見つめていたゲルベンスを見上げる。
「あいつはあれでも……やめた、こいつは向こうに着いてからのお楽しみだ」
さあ行ってこい、と大げさに背を叩かれる。ここで立ち話を続けていたら、先に行けと言ったのになぜ遅れたのかと、叱責されるのは間違いない。ゲルベンスがはぐらかした話題は気になったが、彼がそうするぐらいなのだから、まあまあ期待してもいいものだろう。一礼も忘れず、ゼルはゲルベンスの部屋を出た。
貴族への道のりは間違いなく進めている。しかしそれは、必ずしも希望だけで満ちているとは限らないらしい。外套を留める、白く霞んだ空色の宝石は、ゼルの唇を綻ばせてくれた。だが同時によぎる憮然とした大貴族の姿は、その顔を瞬時に曇らせてしまうのだった。