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「こんな寒い日に、ごめんなさい。」と、彼女は言った。僕はどうしていいかわからなかったから、ただ彼女を黙ってみていた。「寒い日に」なんて言われたけど、その日はその年一番の真夏日だったんだ。
飴を舌で転がしながら、ぼんやりと空を見る。空は灰色で、今にも天気は崩れそうだ。そういえば天気予報で今日は雨って言ってたな、なんて考えていた。傘を忘れたことを悔みつつ机の上に目線を戻せば、一人の少女が僕の顔を覗き込んでいた。
「あの・・・」
声を掛けられて思わず飴を飲み込みそうになる。冷静を装いながら、そっと席を立った。少女は不安げな顔で後ろを付いて来る。自然に見えるようにゆっくり歩きながら胸につまった息を吐きだした。
「それで、何?」
人気の居ない場所に着き、振り返る。少女の顔は、不安げな顔から少し嬉しそうな顔へ変化している。
「あの、私、帰れなくて。それで、困ってて・・・」
「そう。今さらだけど、僕に話しかける時は周りに人のいない時にしてほしかったな。」
「ごめんなさい・・・」
「次。」
「え?」
「次は気をつけて。まぁ、次なんてないほうが良いんだけど。」
「はい。」
嫌味っぽく言ったのにも関わらず、良い返事が返ってきた。素直だなと感じ、怒る気が失せた。とりあえず、相談に乗ることにしよう。
「話戻るけど、帰れないってどこに?家?他の場所?」
「家ではないんです。どこかと言われると、言い難い所。それに、私これでも自分の状況はちゃんとわかっています。」
「そう。で、簡単に言うとどこ?」
「えっと、なんて言うんですかね。多分あの世、だと思います。」
「はあ?」
「死んでからは、なんだか真っ暗な場所で、ずっとうとうとしてたんです私。」
「それがどうして。」
「わかりません。急に明るくなって、気付いたら自分の死んだ場所に戻ってました。」
「ふうん・・・」
「私、あの暗闇が好きなわけではないんです。でも、ここにいるのも不安で。いちゃいけない、って、全身で、感じるんです。」
少女の声が、弱弱しく途切れ途切れになる。うっすらと涙が滲んでいる。
「一応聞くけど、心残りとかはないの?」
「変かもしれませんけど、あの、特にないです。」
「・・・そう」
「強いていうなら、親より先に死んじゃった位で。」
「じゃあきっと関係ないか。」
ぶつぶつと呟きながら考え込んだ僕を見て、少女は小さく笑った。
「あの、」
彼女が声を発すると同時に、チャイムが鳴った。
「うわ、授業始まっちゃった。戻らないと!」
「あ、私ここで待ってます!ごめんなさい!」
「わかった。じゃあ放課後に!」
「はい!」
走りながら背中で少女の返事を聞く。僕はとりあえず、先生が既にいた時に言う遅刻の理由を考えながら走った。
ガラッとドアを開ければ、さすがに先生はもう来ていた。
「遅れてすいません。」
「おーなんだ!トイレか?」
「そんなところです。」
「具合悪ければ、保健室行けよー。」
「はい。」
乱れた息を整えながら席に着けば、隣の席の田中が声を掛けてきた。
「めずらしいなー。腹痛いの?」
「ちょっとね。お昼欲張りすぎたかも。」
「食べすぎか!たまにあるよな、そういう時!」
「そうだね。」
「そこ。静かにしろ。今から重要なとこ話すぞ。」
先生に注意され、田中と顔を見合わせ苦笑した。
「教科書64ページの三行目、ここは・・・」
授業が再開され、僕も前を向く。特に理由について聞かれずに済み、ほっとしながら教科書を見た。世界史の重みのある教科書を立てるように持ち、文字の羅列に目を向けた。授業内容は、全く頭に入ってこない。少女との会話が頭に浮かぶばかりだ。今まで接したことのある幽霊の中で、一番変わっていると思う。
先生の声に混ざって、ぱらぱらという音が耳に入った。ちらりと窓に目を向ければ、雨が降っていた。帰りのことを考えると、憂鬱な気持ちになった。その気持ちを振り払うように、授業へ意識を戻す。板書はかなりの量になっている。僕は、板書をノートに書き写す作業に専念した。