第1話 始まりは雨の中
誰かが呼んでいる。
耳に囁く様な声で自分が呼ばれた気がした。
助けて…助けて…と。
それは雨が降っていた夜だった。
俺は気付けば私になっていて…路地裏で目が覚めた。
肌を刺す程度に痛い雨の強さに冷え切った身体から熱をこれ以上逃がさないように私はただ丸くなって膝に顔を埋める。
身に纏う襤褸切れは服として機能しておらず、くすんだ銀髪に病的なまでに白い肌。
熱を持った涙が頬を伝い、なぜ自分がこんな状況に居るかもわからず、ただ混乱して…そして何より世界に取り残されたかのように一人で居るのが怖くて震えていた。
雨は降り続ける。
なんて事無い、ちょっとオタクな一般人だった私はバイトから帰ってきて家に戻り、ちょっと眠たくなって寝て目が覚めたらこんな裏路地で蹲っていたのだ。
訳の分からない状態でしかも半裸。
挙句の果てには降り出した雨で身体は冷え切ってしまっている。
なんとなく明日は風邪を引くんだろうな、と他人事の様に考えながら何かに耐えるように唇を噛み締める。
ざぁ、と降る雨が今の自分の心の様で、流れる涙は止める事が出来なくて…何よりも不安で…寂しくて…誰かに触れて欲しかった。
雨は止む事無く降り続ける。
カラン、と下駄の音が聞こえた。
不意に聞こえた音に反応する力すら無く、ただずっと私は丸くなっていた。
「おい。」
頭上から聞こえる声。
少し落ち着いた感じの若い男の声だ。
その声音に此方を心配する感情など欠片も無く、まるで機械に話しかけられている気分になった。
「…おい、そこな少女よ。」
ふぅ、と溜め息を吐く男。
此方からは見る気も無いが男は再び声を掛けてくる。
そもそも裏路地で蹲っている少女に話しかける男など目的は判りきっている。
私、これから変な事されちゃうんだろうなぁ…。
そう、話しかけられて嬉しい感情は確かにある。
私はこの世界に一人じゃないと認識できたのだから。
でもそれとは別に元男として男に抱かれるのは全力で拒否したい。
そんな事を考えていると頭上から何かを被せられた。
「…な…何…するんですか…?」
頭に被せられたローブからもぞもぞと顔を出して思わず聞いてしまった。
長時間雨に打たれたせいか、クラクラする頭と物凄くダルイ身体を必死にローブで隠して男を見上げる。
腰まで届く黒髪に此方の総てを見透かすような黒曜石の様な瞳、整った顔立ちに長袖シャツにジーパン、漆塗りの黒い下駄を履いて腰に刀を2本差して悠然と立つその男に不覚にも見惚れてしまった。
男はふぅ、と溜め息を吐いて私を抱き上げる、所謂お姫様抱っこと言うやつである。
冷え切った身体は男に触れるだけで僅かな熱を持つ。
酷く心臓の辺りが慌しい、私はそれを誤魔化す様に顔を俯かせる。
頬が赤くなるのが判る、冷え切っていたせいか僅かでも体温が上がると何処が熱くなっているか大体判ってしまう。
きっと風邪を引いているからだ。
そう思いながら思わず男の胸元を握り締める手は解かれる事は無く、見知らぬ場所で出会ったこの男に僅かばかりの感謝を抱いて私の思考は闇に落ちた。
目が醒めると見知らぬ天井だった。
ぼんやりと昨日あった事を振り返って激しく赤面してしまう。
傍に置いてある水差しから水を一杯戴き、落ち着く為に胸に手を当てて深呼吸する。
むにゅ、と柔らかい感触にん?と思い視線を下に向ける。
そこには適度な大きさの二つの丘がこんもりと盛り上がっていた。
「…えーと…。」
思わず自分の相棒を確認するが、数十年付き添った相棒は綺麗さっぱり無くなり、私は絶望の叫び声を上げた。
思わず叫んでしまったが何よりここは何処だろうか?
先程のショックで冷静さを取り戻すのに時間は掛かったがぐるりと部屋を見回すとちょっとお高いホテルみたいな部屋で私はふかふかのベッドで眠っていたのだ。
…も、もう一回ぐらい寝ても大丈夫だよね?
そう理論武装して寝転がろうとした所でドアが開いた。
「ん、起きてたのか。」
「…あ…。」
現れたのは昨日の男。
男の癖に長い黒髪に黒曜石みたいな瞳、整った顔立ちに昨日と変わらない長袖シャツにジーパンを履いた下駄男が立っていた。
「…。」
「…。」
私たちは机を挟んでお互いを見詰めていた。
出て来た朝食は全部食べた。私が。
なんでも5日間は眠っていたらしく、お腹の減りが半端無かったせいかとても美味しく感じられた。
取り敢えず自己紹介を…と思ったが私には名前が無い事に気が付いた。
ちなみに男の名前は時渡 悠人というらしい。
男の頃の名前を思い出そうとするがそれが自分の名前と認識できず、だんまりを決め込むしかなかった。
「…まだ に れていない、か…。」
「…え?」
男の言葉は小さく、聞き取りにくかったが何かを呟いて私にこう言い放った。
「…名前が無いなら…そうだな…銀子、そう名乗っておけ。」
「…はい?」
そんな適当な感じで私の名前は決まった。
かちりと何かが嵌まる様な音がした気がした。