「運命の真実の愛には勝てない」と殿下が仰るので、1年間のコンプライアンス研修を修了してもお心が変わらなければ婚約破棄いたします
卒業記念夜会にて
学園の卒業記念夜会。水晶のシャンデリアが眩い光を落とす大広間の中央で、私の婚約者である第二王子、ローデリク殿下は、男爵令嬢のユーディト嬢の肩を抱き寄せて高らかに宣言した。
「イルゼ、すまない! だが、人は己の心に嘘はつけないのだ! 家格が釣り合おうと、長年の情があろうと――運命の真実の愛には勝てない!」
広間が息を呑み、静まり返る。
ユーディト嬢は大きな瞳を潤ませ、殿下の胸元に身を寄せていた。周囲の生徒たちは、悲劇のヒロインを見るような、あるいは傲慢な公爵令嬢が捨てられる瞬間を待つような目を、私に向けている。
私は扇を静かに閉じ、指先を揃えた。
「運命の真実の愛、でございますか」
「そうだ! 君を責めるつもりはない。だが、私の魂は彼女を求めている。この気持ちは誰にも止められない。婚約を破棄し、ユーディトを妻に迎えたい!」
真実の愛。魂の叫び。若気の至りを濃縮して煮詰めたような美辞麗句である。
二人はすっかり陶酔していたが、私は頭の中で損益と政治的リスクの計算を終えていた。
我が公爵家は、王太子殿下を支える有力家門のひとつだ。一方、第二王子であるローデリク殿下が独立した宮家を構えるにあたり、我が家の後ろ盾と相応の公費が投じられる計画が進んでいた。
ここで感情的に怒鳴れば、王家と公爵家の醜聞となり、余計な火種を残す。かといって、何の条件もなく婚約破棄に応じれば、王家の信義を問わずに済ませたことになり、我が家の面目が立たない。
何より、将来、国政の一翼を担うはずの王族がこの調子では、国民が路頭に迷いかねない。
私は微笑みを崩さず、静かに口を開いた。
「殿下のお気持ちは、しかと承りました。ですが、王族の婚姻は、単なる感情の契約ではございません。国政にも関わる重大な合意です。殿下の『真実の愛』が、一時の感情や環境による錯覚ではなく、国家の予算と身分を揺るがすに値するものか、確かめさせていただく必要がございます」
「確かめるだと? 愛を試すような真似を――」
「試すなど、とんでもございません」
私はドレスの隠しポケットから、あらかじめ用意していた羊皮紙を取り出した。
「王族としての適格性を確認し、公私混同による職務怠慢を防ぐための、王室特別適正化研修――通称『コンプライアンス研修』に、お二人で一年間参加していただきます」
「こんぷ……何だと?」
「平たく申し上げれば、公務に携わる者の職務倫理、王族費の使途透明化、契約法規の再履修、利益相反の防止について学ぶ実務講習でございます。国境沿いの査問監理院にて、外部との接触を制限した環境で一年間、講習と実務に励んでいただきます。一年後、全課程を修了され、なお殿下のお気持ちが変わらなければ、私は喜んで婚約破棄に署名いたしましょう」
ローデリク殿下は鼻で笑った。
「なんだ、そんなことか! ユーディトと一年間一緒に過ごせて、そのうえ君が綺麗に身を引くというのなら、受けて立とうではないか! 真実の愛は、いかなる試練にも屈しない!」
「ええ、ローデリク様……私、頑張りますわ!」
見つめ合い、手を取り合う二人。
私は優雅にカーテシーをし、心の中で合掌した。
(どうぞ、ご無事で)
◇
一年後。
王宮の小会議室で、私は王室顧問弁護士と会計監査官を伴い、長テーブルに書類を並べていた。
扉が開き、二人が入室する。
そこに現れたのは、かつてのような華やかなドレスの令嬢と、香水を漂わせた貴公子ではなかった。
目の下に濃い隈を作り、髪をきっちりとまとめたユーディト嬢。そして、猫背気味に歩き、手首に腱鞘炎予防のサポーターを巻いたローデリク殿下である。
二人の間には、甘やかな距離感など微塵もない。職場の同僚のように、きっちりと間を空けていた。
「お久しぶりでございます、ローデリク殿下、ユーディト嬢」
私が声をかけると、殿下はびくりと肩を跳ねさせた。
「あ、ああ……イルゼ嬢。お疲れ様です」
お疲れ様です、ときた。王族らしからぬ挨拶だが、研修の成果なのだろう。
ユーディト嬢も深々と一礼した。
「お忙しいところ、決裁のお時間をいただき、恐縮に存じます」
見事な官僚の挨拶だった。
「本日は、お約束の一年が経過いたしましたので、査問監理院からの修了報告書の確認と、今後の婚姻契約に関する最終意思確認を行います」
会計監査官が、分厚いファイルを机に置いた。鈍い音が室内に響く。
「まず、前期の『公私混同防止・利益相反特論』について」
書類をめくると、殿下の顔が青ざめた。
「殿下。在学中、ユーディト嬢に贈った宝飾品の数々を、王族活動費の『外交交際費』として申請されていた件は、研修初月に全額否認されましたね」
「うっ……あれは、その……」
「『私的交際費の公費流用における背任リスク』についての特別レポート、拝読いたしました。反省の弁が五十ページにわたり詳細に綴られており、大変すばらしい出来でした」
続いて、私はユーディト嬢に目を向けた。
「ユーディト嬢。『特別待遇の要求に伴う贈収賄防止規則』の実地演習で、殿下の執務室へ許可なく夜食を持ち込んだ件ですが」
ユーディト嬢は息を呑んだ。
「も、申し訳ございませんでした! 無許可の食品持ち込みは、毒物混入や衛生管理上の問題につながる重大な規則違反だと、第3条第4項を百回筆写して骨身に染みました……! あのような軽率な行動は、二度といたしません!」
「よろしい。理解が深まったようで何よりです。では、後期の課題『共同生活における家計簿の透明化と生活費按分シミュレーション』について確認いたしましょう」
会議室の空気が凍りついた。
殿下とユーディト嬢の間に、険悪を通り越した、修羅場をくぐった戦友のような気配が漂う。
「殿下。王族費の補助給付を停止された環境下で、一か月の可処分所得に占めるユーディト嬢の紅茶と焼き菓子の費用が四十二パーセントに達し、激しい口論になったそうですね」
「……彼女は、家計というものをまるで理解していなかった……!」
殿下が絞り出すように言った。
「『愛があればパンの耳でも幸せ』などと言いながら、市販の安売り石鹸は肌が荒れると拒み、特注のローズソープを欲しがったのだぞ! 領民の税金から支給される手当の重みを、何だと思っているんだ!」
「なっ……! それを言うならローデリク様だって!」
ユーディト嬢は眼鏡の奥の目を吊り上げた。
「『男の甲斐性』とおっしゃって、高価な万年筆を見栄で買われたではありませんか! そのせいで月の後半の食費がどれだけ削られたか、お分かりですか? 『真実の愛』で胃袋は膨らみません! シチューの肉を巡って、夜中に言い争ったことを私は一生忘れません!」
「君が私の皿から人参を奪ったからだろう! あれは栄養の偏りを防ぐための計画的な配分だったんだ!」
「人参の配分で愛を語らないでください!」
机を挟んで火花を散らす二人を前に、私は満足げに微笑んだ。
恋愛に浮かれた二人に、現実という冷水を浴びせ、規則という枠の中で生活してもらう。魔法が解けたあとに残るのは、互いの生活力のなさと、金銭感覚の違いだった。
「静粛に」
扇の先で机を軽く叩くと、二人はすぐに背筋を正した。
「申し訳ありません」
声まで揃った。教育の成果は十分らしい。
「それでは、本題に入りましょう」
私は一枚の書類を、ローデリク殿下の前に滑らせた。婚約破棄に同意する、私の署名が記されている。
「お二人は研修を修了されました。法規を理解し、ご自身の権利と義務を認識したうえで、なお『運命の真実の愛』のもとに結ばれたいとおっしゃるのであれば、私は婚約破棄に応じます。どうぞ、ご署名を」
ペンを差し出す。
殿下はペンを見つめ、それからユーディト嬢を見た。ユーディト嬢もまた、青ざめた顔で殿下を見つめ返した。
二人の脳裏には、同じ未来が浮かんでいるに違いない。
公爵家の支援を失い、王族としての特権を返上し、臣籍降下したうえで、限られた年金の中から互いの生活費を捻出する日々。そこには甘い囁きも舞踏会の華やかさもない。あるのは帳簿の締め日と、出費の見直しだけだ。
「……イルゼ」
殿下の手が、ペンではなく、書類をそっと押し戻した。
「私は、重大なコンプライアンス違反を犯していたようだ」
「と、おっしゃいますと?」
「王族として、一時の感情に流され、長期的なリスク管理を怠った。『真実の愛』などという曖昧な言葉に惑わされ、君という有能なパートナーとの関係を一方的に解消しようとした己の不明を、恥じている」
殿下は立ち上がり、私に向かって深々と頭を下げた。
「頼む、イルゼ。婚約を続けさせてほしい。君の優れた管理能力なしに、私は新しい宮家を――いや、自分の人生すら、まともに運営できる自信がない!」
隣でユーディト嬢も膝をついた。
「イルゼ様! 私、宮家の妻という、責任も説明義務も重い立場は辞退させてください! 私は安定した法務事務の仕事に就きたいのです。研修で学んだ知識を活かして、地道に働かせてくださいませ!」
二人の変わりように、私は内心で快哉を叫んだ。
感情論で責めれば、相手は被害者のように振る舞うかもしれない。けれど、現実の家計と規則を前にすれば、人は自分の望みを見つめ直す。
「顔をお上げください、殿下、ユーディト嬢」
私はペンを引き取り、手帳を開いた。
「殿下。過ちを認め、管理の重要性を理解されたことは評価いたします。婚約の継続をお受けしましょう。ただし――」
私は冷静に微笑んだ。
「今後三年間、私の監督のもとで『王家資産適正化委員会』の実務補佐を務めていただきます。また、公私の分別を徹底するため、新設される宮家の財産管理は、当面の間、私が担当いたします」
「喜んで! すべて君に任せる!」
「ユーディト嬢」
「は、はいっ!」
「あなたの事務処理能力は、監査官からも高く評価されていました。学業を修めた後、我が公爵家の法務部で正規雇用いたします。福利厚生も残業代も、規則どおり支給します」
「本当ですか? ありがとうございます、イルゼ様! 一生懸命働きます!」
かつて真実の愛を誓い合った二人は、それぞれ私の監督下で働くことを、涙を浮かべて喜んでいた。
勝ったのは、真実の愛ではない。
規則と、数字と、冷静な現実感覚である。
「それでは、本日の業務は以上です。定時ですので、速やかに退室してください」
私は扇を広げ、整えられた決裁書類に承認印を押した。




