クロアゲハ
「もう奥の院よ。寄っていく?もしかして来る前に来た?弘法大師のおるところやけど」
「来てない。帰るとき寄ろうと話してたんやけどな。まだ生きてるとかやんな」
コペンは奥の院駐車場に停めると、横断歩道を渡って「南無大師遍照金剛」と記された構えの間を入った。社務所のようなところではお札やパワーストーン、托鉢僧こうや君マスコットが売っていたが、後で買うことにした。
途中、無数の墓が並んでいる。
比較的新しいものから、企業のもの、戦没者、駆除した害虫のものまである。朝鮮式のお椀を伏せたようなものまで並んでいた。
杉木立が増えてくる頃、墓も古くなる。弘法大師の御廟が近くなるにつれて、戦国時代や江戸時代に出てくる武将の墓も増えてきた。ここに骨があるわけではなく、たぶん寄付のようなものではないだろうかと、涼子は話した。
墓など寄付さらても。
クロアゲハが目の前を過ぎた。
苔むした墓の間をふわふわと飛ぶ。
足を止めて見つめていた涼子が、
夢うつつ
遍路の終の
蝶の通い路
と呟いた。
「誰の歌?」
「うちが今思いついた。特に意味はない」
川を越え、石段を上がると、燈籠堂が控えていた。まず脇を抜けて、御廟へと。弘法大師が修行している、岩で囲われた空間があるとされていて、観光客と何かあるのか熱心に念仏を唱えている人がいた。不思議な空間で、観光客と信者が同じところで混在していた。清濁とはこのことなのかもしれない。線香の甘い匂いが充満する中、老若男女それぞれ人目をはばかることなく声を出して念仏に没入していた。
「ロウソク買おう」
紗弥が涼子のものと二本分の小銭をアルミの箱に入れた。それから別のところから火を移したロウソクをかざした。
「ここで火をつけて」
「結婚式みたいやん」
「こうしてここに立てる」
二人して御廟に手を合わせた。
燈籠堂に入ると、朱の床に天井から下がる燈籠が金に輝いていた。電灯などない昔の人はこれを見て、極楽がどういうものなか想像したのかもしれない。地下に入ると、数珠や弘法大師の像などが控えていた。二人は薄暗い奥の院から離れ、来た道を戻ることにした。
涼子はパンフレットを読んで、弥勒菩薩が五十六億七千万年後に救いに来るらしいと教えてくれた。そのときに弘法大師も一緒に兜率天なるものから降りてくるとのことだ。涼子は今すぐ救いに来てくれと笑うと、紗弥は笑っていいのかどうか迷いながらも少し笑った。
紗弥は社務所で小さなこうや君のキーホルダーともお守りともつかないグッズを買った。
「電車賃くらい残しとかんとな」
「これ、もうええわ」
紗弥は千円札の束を返した。
「何もなければ返す気やってん。何もないどころか逆に楽しめてるから」
紗弥は抵抗する涼子のスカジャンのポケットに強引に突っ込んだ。これまでなら遠慮して返すこともできなかったはずだが、紗弥自身が決めたことに気にすることはないと思えた。
二人で草餅屋を見つけて食べた。
「宇治まで送るわ。わたしは八尾やし。高速道路ですぐや」
「申し訳なさすぎる」
「じゃ八尾まで送るわ。それなら近鉄もあるし帰れるやん。今のわたしは涼子さんをここで置いておくのは考えられん。これは命令や」
涼子はこうや君を指にぶら下げて、
「命令かぁ」
と呟いた。
コペンは高野山を後にした。街に入るまでルーフを開けたままにしていたが、やがて人家がまばらに見えてきた頃、紗弥はそろそろ恥ずかしいから閉めようかと話した。
「うちとおると恥ずかしいんかな」
「違う。まったく違う。むしろ乗せてるだけで自慢したいレベルや。インスタに上げる」
「ならこのままがええな。うちはこうしてると空と繋がってる気がする」
涼子は助手席から夕闇を見つめた。
「羽があれば飛べるような気がするから、この車好きや」
「これはね……」
サングラスから涙が耳に流れた。涼子に羽など生えたら、飛んでいくのではないか。消えてしまいそうなほど、はかなげに見えた。
「またクロアゲハが飛んでるわ」
京奈和自動車道へ曲がる信号待ちのとき、サングラスを外した涼子が指差した。アマチュアの薔薇園のところに飛んでいた。
「頭ん中なんかな」指で突きながら「ここにクロアゲハの通り道があるねん。何かあるとクロアゲハが飛んでくる。ただ飛んでいく。蝶は夢とうつつの間を飛ぶらしいんや」
「今、涼子さんおるのは夢?うつつ?」
「わからん」
自動車道に乗ると、速度を上げた。このまま橋本まで行き、北上しつつ峠を越えて松原か美原まで走る。そこからは何とでもなる。
「空に吸い込まれそうや」
「助手席はそうできるねんよね。運転席では上は向いて走れんからわからん」
「紗弥ちゃんがうつつにいて、うちは夢におるんかもしれんな。うちは幻なんや」
「生きてる。わたしは世間に合わせて恋愛することで夢の世界に逃げ込もうとしてた」
「ときどき難しいこと言うよな」
「涼子ちゃんが気づかせてくれた。わたしには世間の常識なんて何の意味もない」
紗弥は涼子の意見など聞く気もなく、宇治に通じる高速道路で一気に走ることにした。大阪の南にあるインターから高速に乗ると、クラッチを踏み込んで、二速、三速で一気に回転数を上げた。これまでしたこともない。気が済むまでエンジンの音を聞いて五速まで上げた。
「このコペンてのは、屋根開けるとエンジンも風もどこもかしこもやかましいな」
「わたしも気づいた。これからがわたしとコペンのほんまもんの人生や」
「またわからんな。八尾過ぎるで」
「このまま宇治へ行くんや。この子も涼子ちゃんと会えて喜んでるねん」
「下手くそな慰めはいらん」
「新しい出会いや。恥ずかしくて街でオープンにしたことなかってん。でも涼子ちゃんのおかげで街でもオープンにできてる。気兼ねなくアクセルも踏めてる。風が肌を突き抜ける」
「やっぱわからん」
おわり