1話 俺は勇者様なんかじゃない
まぶた越しに陽の光を感じて、ゆっくりと目を開ける。光は建物の隙間から差し込むものであった。
男は右手を地に突き合わせ、上半身を起こす。
よく見れば男が転がっていたのは大きな石造りの神殿の床であり、どうりで背中が変な痛み方をしているわけである。
ここはいったいどこで自分は何をやっていたのだったか。夢の中のような気もするが、夢の中でそれが夢であると気づけたことはないし、かといって他にこの知らない建物と自分の状況を説明する理論を持ち合わせてもいなかった。
「起きたッピね!」
甲高い声の鳴る方向に目をやれば、そこには男の座高ほどの、黄色い鳥のようなものがぺちぺちと足の床を叩いて歩いてくるのであった。
「混乱しているッピね? 無理もないッピ」
あっけらかんとする男などお構いなしに、短い羽を、組んでいるつもりなのだろうか、前に目いっぱい伸ばし、小さなくちばしからふごふごと声を出す。
しかし、男が驚いているのはなにも黄色い毛むくじゃらが人語を喋っているからではなかった。むしろ、それだけであれば奇妙な生き物への生理的不信感から尻を引きずって少々後ずさりぐらいはしたことであろう。
「……ピピィか?」
その生き物は、男が昔プレイしていたロールプレイングゲームの登場キャラクターにとてもよく似た外見をしており、語尾もそのテキストに準拠していた。
思えば、今着ている、中世に着られていたような服も、そのゲームの主人公の着ていたそれであった。
「むむっ! 勇者様はどうしてピピィのことを知っているッピか? 不思議だッピ」
ピピィは羽を後ろに広げ、ずいぶんと古典的な驚き方で見つめてくる。男はその愛らしい仕草に少し警戒を緩めると、ピピィに向かい直す。
「……ピピィ。俺を呼び出しのは、君なんだろ」
「そうだッピ! 特別な力を持った勇者様に、こわーい魔王を倒して世界を救っていただきたいんだッピ!」
こわーい、を身振り手振りで表現しようとジタバタするピピィを横目に、男はだんだんと自身が置かれた状況を飲み込みはじめていた。
冷静に考えられたのは、この世界が彼がかつてプレイしたゲームに似ていること、おそらくストーリーも概ね同じであること、そしてピピィの態度の緊張感の無さに起因する。
とはいえ、もちろん男は受け入れたわけではなかった。彼にも元の世界での生活があり、立場があり、人間関係があるのである。
「……今すぐ、元の世界に帰りたいんだけど」
男の言葉に、ピピィは不機嫌を感じ取ったのか、目をまんまるにする。さらに、男は睨みつける。
「ご、ごめんなさいッピ。今すぐは、その……」
「できないの? なんで? お前が呼び出したんだろ?」
待遇の理不尽さに男の口調がキツくなると、ピピィは目に涙を浮かべて縮こまる。その態度に男はますます機嫌を悪くし、息を吐いてから大きく舌打ちをする。たまらずピピィは、きゅうきゅうと喉を鳴らしながら話し始める。
「で、でも! 魔王を倒して世界に平和がもたらされた暁にはきっと……ううん、絶対! 勇者様を元の世界に戻すことができるようになるッピ!」
「それってお前がやってくれるの? じゃあなんで今できないの?」
「え、えっとそれは……ごめんなさいッピ、ピピィは、魔王を倒してまたこの場所に来たら、帰れるようになることしかわからなくて……」
ポロポロと涙を流し始めるピピィから視線を外し、男はまた当てつけのようにため息を吐く。
「なんで仕組みも帰し方もわからないのに俺を召喚したの? ウザいから泣くなよ、俺が悪者みたいじゃねぇかよ」
後頭部を触りながら、黙ってしまった目の前の生き物に対しイライラをぶつける。これが、男の素性なのだろうか、理不尽な状況に置かれたとき人間の性格は悪い面が目立つ。
「もういいから、今の俺にできること教えてよ。元いた世界じゃ俺、ただの不登校だからさ。何も生身で戦えってんじゃないだろ? あるじゃん、剣とか魔法とか」
◇
ピピィと別れた後、男は近くにある村に向かっていた。ピピィの話によると、男の身体能力は引き上げられているが、魔法はピピィに教える技術は無いとのことであった。
舗装の甘い道を踏み歩く男の周りには、青々とした木々と草が無造作に生えている。
緑の隙間を吹き、男の肌を撫でる少し冷たい風は、心なしか地球のそれとは異なるように感じられた。
「……言い方、ちょっとよくなかったかな」
思ったことがすべて口に出るのは男の悪癖である。
他者との会話において、感情のコントロールが難しく、いつも後になって自己嫌悪に陥るところまでが一セットであった。
それに、態度こそ悪いものの、ピピィに対する男の発言がすべて間違っているとも言い難いだろう。それでも、男はまたひとつ自分を責めるのであった。
土を踏み草を踏み、時々小石を踏んでよろけながら、ピピィが教えてくれた道をまっすぐに進んでいくと、木々は少なく、ポツポツと家の立つ集落が見えてきた。
この世界の常識などわからないものだから、いきなり村に入ってよいものかと内心ビクビクしながら進むと、歩いてきた道のがわに1番近い、二階建ての大きな家からちょうど1人の青年が出てくるところであった。
青年は短い茶色の髪をあげた爽やかな顔つきで、身長も男と同じぐらい、歳もそう変わらないぐらいであった。とはいえ、男はだいぶ人見知りであったから、自分から話しかけるのを躊躇った。
すると、青年は男を見つけて声をかけてきた。
「こんにちは。旅の人ですか?」
「……たっ、ゆっ、あ……あ、そう、旅の……旅してる、旅の人、みたいな?」
なにしろ元の世界で同年代の人と喋る機会は少なかったので、まだ夢見心地だった時に喋った地球外生命体のピピィの時のようには言葉を上手く繋げられなかった。
青年は男をまじまじと見て、少し考えてから、また口を開く。
「黒い髪に、青い服……もしかして、あなたは勇者様ですか?」
「あー……い、一応。そうらしい、けど」
「そうですか。それではやはり、旅の目的は……魔王の討伐、でしょうか」
青年は真剣な表情で男を見つめる。いったい何をそんなに真剣になっているのか男にはわからなかったが、この世界では魔王、そして勇者の存在はそれほど重要なものなのだろう。
だが、男は現代日本の倫理観を持った学生であり、魔王どころか虫を殺すのも後味が悪くて躊躇う。そんな彼に、命懸けで凶悪なモンスターと戦い、魔王を殺せなどという運命は、簡単には決心のつかないものであった。
元の世界に帰りたいのなら、いずれそうするしか方法は無いのだろうが、今は到底やる気の起きるものではなかった。
「いや……まだ、決めてない。魔王ってのが人なら殺したくはない、的な。というか、俺はまだ明日どうやって生きるかもわからない、かな……」
男が目を伏せ気味にそういうと、青年は少し眉を上げて口元を緩ませた。
「わかりました。それでは、決まるまで僕の家にお泊りください、勇者様」
「え、あ、そ、そう? じゃあ、そうさせてもらおうかな」
もっとお願いされるかも、とか考えていた男は、すんなりと引き下がる青年に困惑しつつも申し出を甘んじて受け入れる。
先の見えない中、食住を確保できたのはひとえに勇者という立場のおかげであり、その職務を果たすかどうか迷っているなどといえば当然強く魔王の討伐をお願いされると思っていたからだ。
知らない人を泊めることに抵抗がないのはこの世界の価値観なのか、この青年の価値観なのか?
「あ、あと『勇者様』はあんまり慣れてなくて……ハルキでいいよ。できれば、敬語もなしで」
「そう……か、わかった。僕の名前はトニー。よろしくね、ハルキ」
◇
トニーに紹介された、客人用の一室のベッドに座り、ハルキは今後について考え始める。
元の世界に帰るには、腕を磨き、仲間を集め、いずれ魔王を倒さなければならないのだろう。
しかし、今は現実逃避の時間であった。
今のハルキは木を蹴れば倒れ、剣を振ればモンスターの骨まで断つこともできるだろうが、それをするやる気は起きなかった。
ハルキにはどうしようもない先延ばし癖があった。
そのうち本気を出せばやれる、いつかの自分がやってくれる、それまでは今を楽しもう、などという、未熟で甘い考え方だった。
当面はトニーの家に滞在し、村で過ごす。あとのことはその時になってから考えよう。それが今のハルキが出した、一応の結論である。
「部屋は狭くないかな?」
開けっぱなしにしていたドアからトニーが顔を出し、ハルキに声をかける。ベッドはじゅうぶん大きいが、それでもまだ空間的に余裕があるし、仮に狭かったとして、それにケチをつけるほど歪んだ性格もしていない。
「全然大丈夫。むしろ、こんな良い部屋に居候させてもらって申し訳ないぐらいだわ」
「過剰評価な気もするけど、ありがとう。家主として鼻が高いよ」
「家主……トニーって今何歳? あんまり歳いってるようには見えないんだけど」
プレイしたのが小さい頃だったので聞くまで忘れていたが、村の青年トニーはモブキャラではなく、最初に主人公のパーティに加わる仲間であった。
しかし、このような会話は記憶にないし、年齢の設定などもなかったはずである。会話が定型文でない以上、彼やピピィはNPC(ノンプレイヤーキャラクター)などには到底思えず、そこにははっきりと一人の人間がいるようである。
「今年で16になるね。こう言ってはなんだけど、それなりに強いから、モンスターの討伐で結構お金持ちなんだよ」
「マジ? 同い年だ。この歳で戦わせられるのって、結構過酷だよな」
トニーはうーんと顎に指を当てる。
「そうかな。この世界じゃ普通だよ。ハルキは別の世界から来たって話だけど、そこでは何歳から戦うんだい?」
「いや、俺の住んでたとこにはモンスターとかいなくて……危なくないわけじゃないけど、だいたいの人は、戦わなくていい。平和だよ」
「……素敵な場所だね。モンスターも魔王もいないなんて、おとぎ話でしか読んだことないよ」
少しだけ視線を落とし、トニーはぽつりとつぶやく。それから、視線を戻してハルキに問いかける。
「今から森に果実を取りに行くんだけど、一緒に行かないか? 夜には戻るけど、ここにいてもあまりすることがないと思って」
「そうする。俺ももうちょっと話したい」
ハルキはベッドを軋ませて立ち上がり、トニーの後ろに着いていく。部屋を出る時、青い上着は脱いで掛けておく。
ツヤのある階段を二人で降りていき、家を出ると、若い男が何人かたむろしていた。その中でもとくだん陽気な男がこちらに向かって大声を出す。
「ようトニー。そっちの兄ちゃんは知り合いかぁ? 見ない顔だけど」
「彼は……そうだな、さっき知り合った友達だよ」
トニーは少し後ろにいるハルキのほうをチラッと見てから、そう答えた。
◇
「……そういえば、さっきはありがとな」
「うん?」
素人なら怖気付くぐらいには高い木に器用に登り、手際良く赤い果物をカゴに入れるトニーは、ハルキの言葉に手を止めて振り返る。
「俺が……勇者だって知ったら、多分村中に広まるだろ。そしたら、長くはいれなくなると思う。だから、助かったよ」
おあつらえ向きな岩に座りながらぶっきらぼうに感謝するハルキに、なんだそんなことか、とトニーは微笑む。
「ハルキは甘いものは好き?」
「うーん、まあまあかな。……今日の晩飯にフルーツのパイを焼こうとかってんなら、普通に肉とかのほうが食いたいけど」
「ははっ、食客のくせに注文あるんだ。面白いな、君は」
包み隠さないハルキの物言いに、トニーは口元を軽く抑えながらまた笑い出す。
果実のなる森に至る道中もこんな調子でやり取りしていたものだから、トニーもだんだんとハルキが厳格な勇者様などではなく同い年の青年だと理解してきており、大分打ち解けたようだ。
そうこうしている内に日は落ちてきて、森はオレンジ色に真っ赤に燃えている。
「そろそろ戻ろうか」
果実の入ったかごをそれぞれ両手でしっかり抱えて、二人は辿ってきた道を引き返そうとする。
その時、そう遠くない森の奥から、女の声が木々にぶつかって響いてきた。遅れて、鈍重な唸り声のような低音がかすかに聞こえてくる。
「なあ、今のって」
「時間も時間だ。襲われている子がいて、もし一人なら、僕らが行かなきゃまず助からないだろうね。……ハルキ、僕は」
「わ、わかってる。お前みたいな正義感の強そうな奴が、助けに行かないわけないよな。俺は……た、戦えるかわからないけど、ついていく」
二人は目を合わせ頷くと、急いでかごを下ろし、反射で曖昧ながらも声のしたほうへ駆け出した。
かごからいくつかの果実が、こぼれ落ちた。