鈴蘭の恋
君を愛していた。
ガシャンと鋭い音を響かせて、床に落ちたグラスが割れた。
その音に弾かれるように立ち上がり、扉へと走る。
震えだした指で乱暴に部屋の鍵を閉めた僕は、安堵からドアに凭れながらずるずると床へ滑り落ちる。
口から漏れる息は熱く、荒い。
「はぁ、………ドラマみたいに、ぅ、死ねない、っ、だな…………」
世界がぐらぐらと揺れ、目が回る。座っているのか、倒れているのかわからない。
カンカンカンカンと踏切の音が、頭の中で鳴り響く。
体の奥から何か熱いものがせり上がり、口を抑える間もなく喉を通り、オェツ! と吐き出た。ツンとした匂いが部屋に充満し、鼻を刺激する。
室内にいるはずなのに酷く肌寒く感じ、僕の身体はぶるりと震える。
息苦しさか、それとも寂しさから、縋るように胸元をぎゅうと抑え込む。
遠のく意識の中で、太陽のような君を見た。
あぁ。
僕は、君を愛していた。
いや、
いまも、
ぼくは、
きみ
を、
あ
い
し、
て……
…………。
* * * * *
鈴本蘭は、302号のチャイムをかれこれ30分間睨みつけていた。
「こういうのって、勢いが大事よね………」
自身の言葉に「そうよ! そうだわ!」と鼓舞するように返し、部屋の前に立ってから31分してついにチャイムを鳴らした。すぐにガチャリと音が鳴り、緊張からか彼女は唾を飲み込む。僅かに開かれたドアの隙間から「はーい!」と、軽やかな男性の声に少しだけ後ずさる。
「こんにちはー。なんでも屋でーす」
挨拶とともに現れたのは、この辺りに建っている高校の制服を着た少年だった。少年は流れるように「ご依頼ですか? 中へどうぞ!」と蘭の返事も聞かずに室内へ招く。流されるまま蘭は大人しく後を追い、ドアは静かにしまった。
リビングに案内され、ソファに座るように促された蘭は大人しく従い、腰を下ろす。興味深そうにあたりを見渡す彼女に、少年は困ったように笑った。理由は単純にオモシロイものなんて、何もないからだ。なんも変哲もないただの間取り2LDKの部屋。リビングに置かれた長方形のテーブル。それを挟むように置かれたソファ。申しわけない程度の観葉植物。残りはドアの閉じた二部屋。忙しなく二つの瞳を動かす蘭の前に、そっとお茶を出す。同じタイミングで閉じられていたドアの一つが開いた。その音に蘭と、少年は顔を向ける。
「お待たせしました~~~~~」
蘭はその男を見て、顔をひきつらせた。
ひょろりとした体躯は頼りなく、少しだけ猫背な姿勢がさらに拍車をかける。真っ黒な髪の毛は鳥の巣のようにボサボサで、伸びきった前髪からキラリと何かが反射した。その眩しさに目を細めれば、少年が「もう! 店長!!!」と声を荒げて、男へ近づく。二人が並ぶことによって、その対格差がより浮き彫りになり蘭は――大丈夫なのかしら………。と少し眉を寄せる。
「ちゃんとしてください! せめて、髪の毛は梳いてくださいよ!」
「いやいや、君も知っているだろう? 意味がないって」
「しないより、したほうが少しはマシでしょ!」
プリプリと怒る少年から逃げるように、蘭の前に座った男は取って張り付けたような笑みを浮かべ、自己紹介を始めた。
「はじめまして。なんでも屋、店長の山本達人です。彼は従業員の黒川士郎です」
「えっと、わたしは鈴本蘭です……」
達人は、自身を怪しむ蘭の視線から逃げるように手を顔に持っていき、それを押し上げた。
——あぁ、さっきの光はメガネのレンズだったのね。
一人納得している蘭に、達人は「それで、なにかご依頼があったのでは?」と首を傾げる。士郎も達人の隣に座り、興味深そうに蘭を見つめている。そんな二人に蘭は、まるで内緒話をするように口を開いた。
「あの、」
「なんでしょう?」
「本当に、なんでもしてくれるんですか……?」
「わたしどもで、できる範囲かつ、法律に触れないことであれば」
達人の言葉に胸を撫でおろした蘭を見て、「どういったご依頼でしたか?」と静かに言葉を続けた。
「真実を知りたいのです」
その声は少しだけ震えていた。
鈴本財閥の娘である鈴本蘭が、画家の辻綾人と出会ったのは陽光が雨に乱反射し世界を輝かした日のことだった。
目が合った二人は、お互いの瞳に吸い込まれるように惹かれあい、手を伸ばした。
綾人の描く絵を気に入った蘭は、両親から与えられた森の中に建つ別荘を綾人に貸し与えた。創作活動をして手や、頬を汚す綾人を少し遠くから見つめる蘭。二人は穏やかな日々の中で幸福を積み重ねていった。
そんなある日に綾人は描いた絵を蘭に見せなくなった。理由は単純に完成していないからであったけれど、日々は過ぎ去り半年の間に増えていくカンバスに蘭は首を傾げ、綾人に何度か「見せてほしい」とお願いをした。
「蘭さんの頼みでもそれはできないです。前も伝えたように未完成ですし………」
「こっちに置かれたのは失敗作じゃないの?」
「………違いますよ。これも作品の一部なんです」
「そう、なんですね」と納得してない様子の蘭に、綾人は苦笑いをしながら「これは秘密なんですけど」と小さく呟く。
「大切な人のために描いているんです。完成したらその人に、一番初めに見てほしいんです」
「………あなた、大切な人がいたのね」
目を丸くする蘭に頬を掻きながら「そらぁ、僕にだって一人ぐらいはいますよ」と言葉を返す。
「だから、」
「えぇ、わかったわ! もう見せてなんて言わない」
「ありがとう、ございます」
はにかむ綾人に蘭は「でも、」と顔を俯かせる。
「? どうかしましたか?」
「いえ……、ただ、あなたの絵を最初に見せてもらえるその人が羨ましいなって思って」
「蘭さん、」
「頑張って、描いてね」
蘭の言葉に綾人は、「必ず描ききります」と力強く頷いた。
その数日後である、辻綾人が自殺をしたのは————————。
死因は毒。
場所はアトリエとして使っていた、鈴本蘭の別荘の一室。
その部屋は辻綾人からの要望で、内側からしか鍵をかけられないようになっていた――――完全なる密室。
「警察の方が言うには、毒は水栽培をしていた鈴蘭だろうって」
「鈴蘭ですか?」
不思議そうに首を傾げる士郎に、蘭は小さく頷いて、鈴蘭について軽い説明をする。
「意外かもしれないけど、鈴蘭って猛毒なの。鈴蘭を挿していた花瓶の水を飲むだけで死んじゃう可能性がある花なんですよ」
「えっ!? あの小さくて、白い花が咲くやつですよね?」
「そうよ」と肯定しながら、士郎の反応を見て蘭はくすくすと笑う。
「つまり、辻綾人さんは鈴蘭を育てていた鉢の水を飲んだってことですね!」
「えぇ、そうなの。でも—————」
「『大切な人のために描いている』と言った人物が自殺するとは思えませんね」
達人の言葉に蘭は静かに頷いた。
「だから『真実を知りたい』か……」
「協力できることは、何でもします。ですから、」
「えぇ、もちろんですとも!」
蘭の言葉を遮り、達人は意気揚々と答えた。へらりと口元を緩ませながらも、二つの瞳は真剣そのもので、蘭は「ありがとうございます!」と頭を下げた。
「なんでも屋として、ご依頼をお受けいたします」
達人と士郎は、早速蘭に頼み実際の現場————辻綾人が自殺したとみられる部屋へと足を踏み入れた。
ドアは外されており、当時の様子を物語っていた。
達人は興味深そうに画材を見つめている。そんな真剣な横顔を見つめる士郎は「て、てんちょう」と今にも泣きだしてしまいそうな声で呼んだ。その声に士郎の方へ顔を向けた達人は意外そうに眼を丸めた。
「まさか君、怖いのかい?」
驚きを隠そうとしない声に、士郎はコクリと首を縦に動かした。
「意外だな。君はこういったものも平気だと思っていたよ」
「いやいやいや店長! よく考えてみてくださいよ、幽霊って殴れないんですよ!?」
「わかります!?」と叫べぶ士郎を無視して、しまっているカンバスを次々に出していく。黙々と作業をする達人に、何を言っても無駄だとわかったのか士郎は溜息を一つ吐き出し、恐る恐るといったようにカンバスを出していった。
なんとかカンバスを出し終わった二人は、その描かれているものに目を奪われた。
「なんか、店長と二人で花畑に来た感じがします」
士郎の言葉に達人は「ソーダネ」と言葉を返す。
カンバスに描かれていたのは「ひまわり」だった。たくさんあったカンバス全てがひまわりの絵であり、並べると士郎が言った通りひまわり畑にいるような錯覚を起こす。達人は目の前に広がるひまわり畑に首を傾げた。
「? 店長、なにか気になることでも?」
「どうして、鈴蘭じゃないんだろうねぇ」
「え? どうしてって? てか、なんで鈴蘭なんです?」
「それは、」
達人の言葉を遮るように、コンコンと控えめなノックの音が響いた。ドアの方を向けば、蘭が立っており「少し休憩にしませんか?」と二人に提案をする。その言葉に二つ返事で返し、蘭に案内されるままリビングへ行く。
出されたお茶を飲みながら士郎は、先ほどと同じ質問をした。
「描くなら鈴蘭だろう? だって、彼を拾ったのは鈴本蘭さんなんだから」
士郎は蘭をじっと見る。士郎の視線に蘭は「名前ですよ」と笑った。
「あぁ! なるほど! 鈴本蘭の本を抜くと、鈴蘭ですね!」
「母は花が好きで、言葉遊びですよ」
「なるほど……」
「鈴本さんは、ひまわりの絵にあたる人物に心当たりはありますか?」
蘭は首を横に振る。
「……彼の言う大切な人に見てほしいけど、わたしには誰なのかわからないんです」
そう言って目を伏せた蘭に空気が静まり返るが、ピピピピ……とスマホの着信音が沈黙を許さなかった。
「あ、すみません」と一言断って席を立ち、少し離れたところで電話に出た。花が咲くように笑う蘭を達人は、静かに見つめた。話はすぐに終わったのかスマホを切って、二人のもとへと戻ってきた。
「随分楽しそうでしたね? 失礼ですが、お相手は?」
「店長!」
「婚約者です」
「さすが鈴本財閥ですね。このことは辻さんも知っていたんですか?」
「知っていましたよ」
淡々と目の前で交わされる言葉に士郎は、早々に口を閉じた。
「辻さんはドアの近くで倒れていたんですよね?」
「えぇ、そうです」
「もう一度部屋を見てきても?」
「もちろん、気が済むまで調べてください」
蘭の言葉に達人は立ち上がり、「ほら、行くよ」と士郎に呼びかけ部屋へと戻る。士郎は大きなため息一つ吐き出して、「待ってくださいよ」とその背を追った。
「ねぇ、ひまわりの花言葉知ってる?」
「え? たぶんですけど、あなたを見つめる。とかそんな感じじゃないですか? って、なんですかその顔」
顔をひきつらせた達人に、士郎は眉を寄せる。
「いや、僕が聞いたことだけど、すぐ返ってくるとは思わなくて……」
「さすがの俺も怒りますよ」
頬を膨らませた士郎を見て「ごめん、ごめん」と軽く謝った。
達人はひまわりの花言葉を頭に浮かべながら、大量に描かれたひまわりをじっと見る。そんななか、士郎はスマホを取り出し、自身が気になったことを調べていた。
「あ、店長」
「どうした?」
「今調べたんですけど、花って本数によっても意味が変わるらしいですよ」
「今調べたって、便利な世の中になったもんだなぁ」
関したような声を上げる達人に、「ひまわりも本数によって意味が変わるっぽいです」と言葉を続ける。
「一つずつ教えてくれるかい」
「え、スマホ貸すんで、自分で見てください」
差し出されたスマホを手に取り、「ちぇー、教えてくれたっていいのにさー」とぶつぶついいながらスマホの画面に目を通していく。—————最後に書かれた意味に息を飲んだ。
「————これだから、」
不安を宿した瞳は揺れながらも、達人をまっすぐ見つめていた。
「真実……かはわかりません。それでもよければ、お話しします」
「……お願いします」
物々しい雰囲気に士郎は唾を飲み込んだ。
空気を換えるように達人は、咳ばらいをしてから口を開いた。
「結論として、まずこの事件は自殺でもあり、他殺でもある」
「自殺でもあり、他殺でもある……ですか?」
首を傾げた蘭に、「えぇ、そうです」と肯定をする。
「順を追って説明しましょう。まず確認ですが、ある時から辻綾人はあなたに描いた絵を見せなくなった。理由は完成していないから。そして、その絵は『大切な人のために描いていて、完成したら一番最初に見せたい』と言っていた。」
「……えぇ」
「————あなたは見てしまったんじゃないんですか?」
蘭の肩がはねる。
「もし僕があなたと同じ立場なら、大切な人は自分自身だと思う。しかし描かれていたのは鈴蘭ではなく、ひまわりだった」
「あ、そっか。鈴本さんが大切な人だったなら……」
「そう、鈴本蘭さんを大切な人とするなら、描くなら鈴蘭だ」
蘭は顔を俯かせ、達人と士郎にはその表情が見えない。
「大切な人が自分ではない事実に、あなたは激しい怒りと嫉妬を感じてしまった。それで、水栽培していた鈴蘭の鉢の水をコップに入れて飲ませた」
「飲ませたって、どうやってですか?」
「そんなの、少し休憩しよう。とかなんとか言いながらコップ渡せば一発だろ。渡さなくてもコップを置いていけばいい」
達人の言葉に士郎は目を見開いた。
「辻綾人は水を飲んだ時に気づいてしまった、だから警察が自殺と判断するように内側から鍵を閉めた。きっとこのとき、自分が引きこもるために内側からしか鍵を閉められないような構造にしたことを喜んだことでしょうね」
「じゃ、じゃあ、店長は彼女が辻さんを殺したって言いたいんですか……?」
「さっきから、そう話してたと思うけど?」
「で、でも、最初に自殺でもあるって!」
声を荒げる士郎に、頭を掻きながら達人は答える。
「辻綾人は絵が完成したら——————自殺しようとしていたのさ」
その言葉に弾かれたように蘭は顔を上げた。
「…………ど、いうことですか?」
その声はとても震えていた。士郎も続きが気になるのか、達人の言葉を待っている。
「鈴本さんはひまわりの花言葉を知っていますか?」
「えっと、あなたを見つめる。かしら……?」
「そうです。なら花は本数によって意味が変わることも知っていましたか?」
「えぇ、バラとかそうよね……。もしかして————」
気づいてしまったのか、両手で口元を覆う。その姿に、達人は目を逸らす。
「僕たちは、あの絵を並べて、まるでひまわり畑にいるような気持になりました。————ひまわり999本で『何度生まれ変わっても君を愛している』だそうです」
「そ、んな………うそ、うそよ………」
「きっと彼は真面目だったんでしょうね。ひまわり999本を描くまでは見せる気がなかった。あなたを思って描くなら鈴蘭だと言いましたが、辻綾人にとって自身を拾ってくれた
あなたは太陽だった」
「だから、ひまわりを」
士郎の言葉に、達人は静かに頷いた。
「辻綾人は婚約者の存在を知っていた。あなたの幸せを願っているのと同時に、結ばれない事実に耐えられなかった。この絵は秘めた思いの告白とともに、遺言でもあった」
顔を覆い隠し、体を震わせる蘭に「でも」と、達人は言葉続ける。
「話をする前に伝えたように、これが真実かはわかりません。証拠はない、状況だけの妄想と言われれば、それまでです——————力及ばず、申しわけありませんでした」
達人は蘭に頭を下げた。
確かに蘭の依頼は「真実を知りたい」だった。なんの確証も、証拠もない話は、達人自身が言うように妄想と片づけられても仕方がないものだった。
「……今回のご依頼はわたしたちの力不足のため、お代は不要です。では、失礼します」
顔を上げた達人は「ほら、帰るぞ」と士郎に声をかけた。士郎は慌てて「し、失礼しました!」と蘭に頭を下げて、達人の後を追った。
鈴本蘭の別荘から、なんでも屋まで沈黙を守ってきた二人であったが、とうとう我慢できずに士郎が先に沈黙を破った。
「あの、店長……」
視線だけで返事をした達人に、士郎は眉をよせながら「本当によかったんですか?」と投げかける。
「なにが?」
「いや、だって、もし店長の話が本当なら警察に連絡とか、」
「僕たちの依頼は『真実を暴くこと』だった。依頼以外のことはしないし、何回でも言うけど妄想と言われてもしかたがない話を警察にするって言うのかい? 門前払いが目に見えるね」
肩をすくめる達人に、士郎は肩を落とした。
「……まぁでも、どう転ぶかわからないけど、嫌でも結果は明日わかるさ」
達人の言葉に士郎は首を傾げた。
達人が言っていた結果というのは、次の日の朝から晩まで話題になった。
鈴本財閥の娘————鈴本蘭は別荘の一室にて、大量のひまわりの絵に囲まれながら自殺をした。
理由は不明。
さまざまな説がインターネットを中心に流れたが、その理由を知る者はいない。
「—————愛ってやつは嫌なんだ」
テレビの電源を落とし、目を閉じた男は不貞寝をすることにしたらしい。
「っと、その前に」
男はスマホを取り出し、検索結果を見て————スマホを放り投げた。
「あーーー、もう寝よ」
今度こそ眠りについた男が放り投げたスマホの画面には———————。
『鈴蘭の花言葉は再び幸せが訪れる』
無機質な文字でそう書かれていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!