「時計の針はどうして右に回るの?」
前の席に座る彼女は腕を天井に向かって上げて身体の筋を伸ばす。
「そろそろ時間だし、締めに入ろうか」
一息ついて腕を下ろした彼女はこちらを見る。
「時計の針はどうして右に回るの?」
僕と彼女しかいない放課後の教室に彼女の声が吸い込まれる。
「締めがそれでいいの?」
「うん」
彼女は透き通った手首に巻かれた腕時計のリューズをいじりながら言う。白い文字盤に黒の数字、金の三本の針。六の上を黒猫が悠々と横切る。三の近くの小窓からは日にちを表す数字が覗いている。いつも彼女の手首に巻かれているものだ。
今日の彼女は一度も椅子を揺らしていない。いつもならぎっこんばっこんと小学生のように揺らすのに、それがないから静かだ。
「電池や歯車のおかげでしょ」
「そうじゃなくて。時計の針が右回りに動くのはなぜ?」
「時間が進んでいるから」
それ以外の理由はないだろう。時計の針が右に回れば時が進んでいる証拠だ。何らかの理由で人為的に針を動かそうとすると針を左に回すことも可能だ。しかし、一般的には時計は右に回るものだ。そうやって時計の針は時間の進みを表している。
ふーん、と彼女はどこか上の空だ。そんな彼女は時計のリューズを変わらずいじっている。僕の目は自然と白い文字盤を見る。
彼女の腕時計にはヒビが入っている。削れたガラスの下、示す時は今の時刻と異なる。長針が猫の身体を貫くような位置で止まったまま、秒針は一ミリたりとも動いていない。日にちも数日前のものだ。
彼女がどれだけリューズを回しても、針は動かないし、日付も変わらない。
「じゃあ、この腕時計が止まったのは私が死んじゃって時が止まったから?」
彼女は寂しさを滲ませた声で訊く。腕時計は悲惨な姿になっていること、彼女の身体は透けていること以外はいつもと変わりない。だから、僕自身、彼女は本当に死んでしまったのだろうかと思いながら話している。
止まった腕時計は彼女が亡くなった時間に近い。彼女の時間が止まった瞬間と言ってもいいのかもしれない。
何も言わない僕に彼女は、そっか、と小さく呟く。
「……君はこれからどうなるの?」
今日で本当にお別れだから、と目の前に現れたときに言った彼女の言葉が思い出される。
「新しい時間をもらいにいくよ」
始まりの季節の風が彼女を連れて行くように優しく吹き込む。バイバイ、といつもの声音と笑顔と共に彼女は行ってしまった。
僕の腕時計の長針がひとつ時を進めた。
バイバイした彼女のその後→「交差点にて動き出す」https://ncode.syosetu.com/n6991hj/
バイバイしてから三年後の話→「「観覧車も右に回るみたい」」https://ncode.syosetu.com/n6933jw/