018 不本意な罪に罰はあるか 其の三
僕らの目の前の男は、僕を敬いながら、僕を見下した発言をした。
僕の力を奪いに来た?どうやって。
僕は今、クレイの中に封印されている。
封印は、本来であれば自分たちにとって都合の悪い強大な力を持つ者を、文字通り封じ込めて何の手出しもできないようにしてしまうためのもの。封印された者は封印が弱まらない限り外に出られないし、自分の思うように外と干渉できなくなる。
しかし、裏返せば周りからも封印された者に対して手を加えることは難しくなる訳で、封印した相手の力を奪う、好きなように操る、コミュニケーションをとるなど、大半の行為ができない。
この辺は封印について疎い僕でもわかる。
クレイのように魔王が封印されている器本人はイレギュラーで、本当は僕と会話ができるなんておかしいことなんだ。
おかしい、はずなんだけどね。
他に僕と会話ができる人物二人が脳裏をちらつく。
九年も経過して緩まっているとはいえ、封印を通してまで僕とクレイの心の中でだけの会話を聞き取ることができるあの二人は一体なんなんだ。まあ、悟りスライムと勇者なんだけど。
その辺は置いておこう。
とりあえず僕に干渉できるのは異例の二人を除いてクレイしかいない。
試しに、目の前の男と会話を試みてみよう。
『魔王って、僕のことかな?』
『そうだろ』
『ご、ごめん。クレイじゃなくてあの男に聞いてた』
『そうか、悪い』
思わずクレイが答えてしまった。何も言わずに話しかけた僕が悪い。
しかし、男は僕の問いかけに答えるどころか全く反応を示さない。
通じていないのかな。
『クレイ、僕に気にせず会話を続けちゃっていいよ。僕はアイツと会話を試みるから』
クレイは僕の言葉に理解を示すと、木刀を構えて男を睨みつける。
「俺の中にあるアギラの力を奪う気か」
「アギラ?アギラディオス様をまるで友人のように親しく呼ぶとは、面白い少年だ。その身に封印された魔王の恐ろしさを理解していないと見える」
男は前髪を上げて露わになった気色の悪いほど真っ黒な瞳を細めて、趣味の悪い紫色の細い唇で笑う。
そして続けて手持無沙汰なのか歩き回りながら語り始める。
「魔王様は厳格で醜悪で、実に素晴らしいお方だ」
『厳格、だったね。確かに』
「殺した人間は数知れず、忌まわしき勇者さえいなければ今頃魔王様の偉大な力によってこの世界は魔物の世界だった」
『もうしないけどね』
「その魔王を略称で呼ぶ?くはははっ、どの分際で魔王様に口をきいているのか」
『親友だし、力を奪うって言ってる君も大概だと思う』
男の語りに口を挟む僕だけど、男は一切反応しない。
クレイは僕の相槌に反応しないように無心で男を見据えている。
「どの分際って、俺とアギラは親友だ」
でも、クレイも男のどの分際発言にイラっと来たのか訂正をする。
男は一瞬キョトンとした顔になって、すぐに割れたような笑い声をあげた。
「親友?史上最悪の魔王とか!かかかっ!ふざけたことを抜かす。お前はよっぽどの愚か者か、魔王同等の劣悪な人種と見受けられる!魔王と話したのか?遊んだのか!よかったなぁ、魔王を封印されたことによって自分にとって都合のいいお友達ができて!」
男は面白可笑しそうに腹を抱えて笑う。
めちゃくちゃむかつく。僕の友達を笑うな。
この反応からして、僕の言葉は聞こえていなさそうだね。
聞こえていないフリにしては心の底から爆笑しているし。
お前はお腹が痛そうだけど、クレイと僕はハラワタが煮えくり返る気分だよ。
「魔王と親友、なの?」
クレイの隣からキャスヴァニアの震える声がする。
しまった、キャスヴァニアがいるんだった。
軽率に魔王と親友発言をしてしまったクレイは慌ててキャスヴァニアの方を確認する。
キャスヴァニアは目を輝かせながら頬を紅潮させてクレイのことをじっと見ている。
まるで親友に有名アイドルがいると言った知り合いを見るかのような目だ。
我魔王ぞ。そこはもっと怖がるなり頭おかしい奴って思うなりする場面じゃないのかな。クレイをそんな目で見たら怒るけど。
「はぁ、この状況下で怪我もせずにやってきたというにはどんな奴かと期待したが、思ったよりもおめでたい奴だったな。期待外れだ」
男は首を鳴らすと大きくため息を吐いた。
先ほどまでの馬鹿にした態度とは変わって、姿勢を正してこちらを見る。
「まあいい。僕が用があるのはそのお友達だ。そのためにはお前に死んでもらう必要がある。だからわざわざこの村を利用した。しかし、全く役に立たなかったみたいだがな」
クレイの中に重く、黒い感情が渦巻く。
殺意までとはいかないけれど激怒。目の前の相手を罰したいという心の底からの祈り。
クレイの表情は変わらないけれど、明確な負の感情を男に差し向けていた。
「プレッシャーもいっちょ前のようだ。どれ、かかってこい。相手をしよう」
男は醜い笑顔と共に片手を胸元へ、もう片手を宙に掲げると、その場に薄気味悪いオーラを纏った青い本を召喚した。
魔術書かな。色だけでは内容を判別できないけれど、強力な魔術が一ページ毎に記されている危険な書だ。詠唱や術式構成に時間のかかる複雑な魔術を省略して即時発動するために使われる。
使用回数があるはずだけれど、危険なことに変わりはない。
『クレイ、あれは魔術書だと思う。アイツが魔力を込めればすぐに強力な攻撃が飛んでくるから気を付けて。本は一冊とは限らないけれど、アイツの手から落としてしまうか、全てのページに傷をつけるようなことができれば無力化できる』
クレイは僕の言葉に頷きながら臨戦態勢に移った。
「キャスヴァニア、本を奪うか破壊するぞ。攻撃は素早いから気を付けろ」
「う、うん」
キャスヴァニアはクレイからの命令を受けると、不安そうな声とは裏腹に慣れた構えで男と向き合った。
最初に仕掛けてきたのは男の方からだった。
予告も無しに勢いよく地面から硬く鋭い氷の牙がせりあがり、クレイとキャスヴァニアに向かって伸びてきた。
二人は素早く横に飛ぶが、着地点を狙って更に地面から牙が生えてくる。
クレイは木刀で、キャスヴァニアは拳で牙を破壊し、角を失った氷の上に着地する。
「まだまだこれから」
男が笑うと二人のいる地面に突然穴が開く。
穴の底には無数の氷の槍。
だけど、クレイは魂と体の動きを合わせ、強力な力で空中を蹴って問題なく穴から脱出した。
しかし、キャスヴァニアは穴から出てこない。
まさか避けきれなかったのではと僕とクレイの胸がざわつく。
「極炎の柱!」
次の瞬間、キャスヴァニアの声と共に穴から燃え盛る炎の柱が突きあがる。
そして、炎が消えると同時に地上へキャスヴァニアが華麗に着地をした。
超火力の炎魔法地面に打ち出して、その勢いで上がってきたんだ。よかった。
キャスヴァニアの魔法のせいで辺りの気温が一気に上がる。
「はん、氷と炎じゃ相性悪そうだね!」
キャスヴァニアはふんぞり返って男を挑発する。
男は面白くなさそうに鼻をならすと、僕らの頭上に巨大な分厚い氷板を召喚した。
氷板は僕らめがけて勢いよく落下してくる。
キャスヴァニアは魔法を構えるけれど、これは流石に火力を上げた炎魔法でも間に合わない。
クレイは全力で地面を蹴り、間一髪でキャスヴァニアごと板の射程外に飛び出した。
「ほわっ、ありがと!」
「礼を言ってる暇はないぞ」
笑顔で礼を言うキャスヴァニアに注意を促すクレイ。
次から次へと隙を与えずに放たれる氷魔術を的確に対処しながら、二人は反撃のチャンスを伺う。
飛んでくる無数の氷のナイフを炎魔法で溶かして消滅させるキャスヴァニア。
巨大な氷のトラばさみを持ち前の素早さで回避するクレイ。
僕は違和感を覚える。
魔術にしては攻撃の質が弱すぎる。
となれば、先ほどからあの男が使っているのは氷魔術じゃない。氷魔法だ。
ならあれは魔法書?でも、魔法書はその魔法を使えない人が魔力を込めるだけで魔法を発動できるようにする、いわば補助道具でしかない。
魔法が使える人でも時間短縮のために使うことはあるけれど、使用魔力量も威力も変わらない。
威力と言えばこの男のは、魔術師にしては最弱レベルにすら達していない強さだ。
縮まる時間も対して大きく変わらないのに、わざわざ僕ら相手に取り出してまで使う?
『クレイ、ごめん。僕が間違ってたみたいだ。あれは魔法書。次の発動までの時間が短いからすごく見えるだけで大したことはない。でも警戒はして』
「キャスヴァニア!こいつはさっきから魔法攻撃しかしていない!あれは魔術書じゃない!だけど気を付けろ!」
僕からの推理を受け取り次第、順次キャスヴァニアと情報を共有してくれるクレイ。
キャスヴァニアはクレイからの情報を受け取ると、唇を尖らせながら頬に人差し指を添えて考え込む仕草を見せる。
そんなポーズ取っている暇はないよ。と言おうとしたけれど、ちゃんと魔法は避けているから要らない説教だね。
と思っていたら突然、キャスヴァニアは無鉄砲にも男に向かってまっすぐ突っ込み始めた。
男はキャスヴァニアのいきなりの行動に驚いたけれど、咄嗟に分厚い氷の壁で自分の身を守る。
キャスヴァニアは迫った勢いを乗せて力強く氷を蹴りつけ、壁を粉砕する。かなりの厚さがあるにも関わらず、凄まじい蹴りの力だ。
「くっ、やかましい女だ。お前から始末してやろうか」
男は余裕を失い、キャスヴァニアへの集中攻撃を開始する。
余裕がない?魔術師が?この程度の攻防で?
僕は気づいた。
こいつは魔術師なんかじゃない。魔術どころか魔法すら使えないペテン師だ。
今までこの男が使ったとわかる魔術は、村を混乱に陥れた悲観傀儡の魔術、そして本を取り出した収納魔術だ。
悲観傀儡は物に魔術を組み込んで、後は任意のタイミングで発動できる。
収納魔術も同じく物に魔術を組み込んで、任意のタイミングで発動ができる魔術だ。
そして、この二つの魔術の特徴は、発動する者と魔術を組み込んだ者が別人でも、問題なく動作するということ。収納魔術は鍵みたいなのもかけられるけどね。
僕は相手の魔力を感じ取れるはずなのに男の魔力が見えないのは、男が何らかの魔術で保有魔力の隠蔽をしているからだと思っていた。
だけど今、はっきりわかった。
コイツは魔術も魔法も使えない、魔力すら持っていない一般人だ。
使用した魔術は他人の魔術師から譲渡された代物を使い、魔法は魔法書を使って発動し、あたかも自分は魔術師のように振る舞う。
これがペテン師でなくてなんだというのか。
だけど、これらが本当ならば魔法を使う魔力源はどこから来るのって話になる。
これも簡単だ。協力者に大量の魔力を込めてもらった物体から引き出して使えばいい。
そして、その物体の在り処も今、大体の見当がついた。
ケインの証言、アイツが本を取り出した時に見せたキザな仕草。
僕はクレイに僕が導き出した答えを伝える。
『クレイ!あの男は自分の胸に魔力を溜めた何かを隠しているはず!それを壊してしまえばもう魔法は使えなくなるよ!』
クレイは僕の言葉を受け止めると木刀を腰にしまい、柄に手をかけたまま腰を落として集中を始めた。
居合の構えだ。
今はキャスヴァニアが囮となって男の注意を引き付けている。
男はキャスヴァニアを地面から生やした氷の槍で攻撃しながら、キャスヴァニアの打撃攻撃を氷の盾で防ぐので精いっぱいだ。
その氷の盾も、キャスヴァニアの一撃が当たるたびに砕かれる。
クレイは男から視線をそらさず、瞬きをせずにタイミングを伺う。
――勝機が見えたようだ。
クレイは男めがけて一足飛び。
風を切るがの如くクレイの体は速さを味方につけて男に迫る。
クレイが男の懐に潜り込むにはそれを邪魔する氷の盾が存在したけど、キャスヴァニアが剛腕で打ち砕き粉々になってしまった。
このタイミングを狙っていたんだ。
クレイは射程範囲内に男を捉えると、木刀を抜き放ちながら男が手にしていた本を打ち払った。
そして、そのまま空気の流れに身を任せながら滑らかな動作で男の胸に強烈な一太刀を打ち付けた。
木刀と男の胸にあった物がぶつかり合い、衝撃で囚人服が破け男の胸元が現れる。
男の胸には窪みが複数個所存在していて、ところどころに複数の魔力石、そして中央に一際大きな魔力石が植わっていた。
しかし、クレイの与えた一撃のおかげで、魔力石は全て耐えられずに砕け散った。
しばらく待ったが男からこれ以上の魔法攻撃はない。勝利だ。
『よくやったねクレイ』
僕はすかさずクレイを褒める。
だけど、クレイの表情は浮かばない。
いくらコイツに勝とうと亡くなった村人たちは帰ってこない。
その事実がクレイの胸を縛り付けていた。
「はぁ、面倒くさかったね。コイツ」
キャスヴァニアは魔法書を燃やしながら男に近寄る。
男は脱力し、地面にへたり込んだまま僕らを見上げている。
「ほら、謝った方がいいよ?コイツ強い人だよ?ぼっこぼこにされちゃうよ?」
キャスヴァニアは男を抱き上げると、そのまま幼児を窘めるような口調で語りかけながら僕らの元まで運んでくる。
「なん、でだ。子供は強くないと聞いていた。魔王様の力は簡単に奪えると聞いていた、のに」
男の頭の中は想定外の事ばかりが起きているようで、キャスヴァニアの言葉には一切耳を傾けずにぶつぶつと戯言を呟いている。
僕の推理通り、本当にこれ以上は打つ手が無いようだ。安心した。
だけど、クレイの心は晴れないまま。
クレイは木刀をしまうと男に対して体を向け、愁いを帯びた瞳を見せた。
「村の人たちを魔術から解放しろ」
迫力の無い声で男に命令するクレイ。
僕は気づいた。
気づきたくなかったことに。
悲観傀儡の魔術は発動と共に魔術の本体にしていた物体は消滅してしまう。
物体に魔術をかけた魔術師本人であれば簡単に魔術を解くことができるけれど、この男は魔術師ではないただの一般人だ。
じゃあ、どうやって魔術を解けばいい?
「ああ、実に、実に面倒くさい」
男は顔を醜く歪ませて吐き捨てる。
抵抗する様子はないみたいだけど、僕らに対して心底うざったそうに視線を向ける。
「この男の体程度でもどうにかなると踏んで手を回したというのに、全く使えなかったな」
男はまるで自分を他人事のように貶す。
いや、きっと他人なんだろう。
「何を言っている」
『つまり、この男も今喋っている奴に操られていたってことだよ』
訳が分からないクレイに解説を入れる。
クレイはハッとすると胸糞が悪いとでも言いたげに男を睨みつけた。
「おい、お前はどこにいる。本体は?何が目的だ」
「答える必要があるか。もうこの男も用済みだ。魔王様の力も、また今度頂戴する」
苛立つクレイを男は不機嫌そうにあしらう。
そして、ふと思い出したように語り出した。
「ああ、そうだ。村人を解放してほしいんだったな。いいぞ。好きにするがいい」
男は愉快そうに笑う。
クレイもキャスヴァニアも、何もわかっていない。
ただ、僕だけが胸をざわつかせていた。
「好きにしろ?どういうことだ」
「僕は魔術を解くつもりは無いと言っている」
「ふ、ふざけるな!村人たちをこのままにするつもりか!」
クレイは思わず男の胸倉を掴み、大声で怒鳴りつける。
男はそのままおちょくるような顔で続けた。
「ヒントをやろう。悲観傀儡の魔術を解くには三つの方法がある。一つは魔術をかけた本人が解くこと。一つは魔術をかけた本人を殺すこと。一つは……」
男はクレイを見つめるとふっと鼻で笑う。
「魔術を発動させた者を殺すこと」
時が止まる。
誰も、何も言えない。喋れない。
身動き一つすること、表情を変えることすらしない。
ただ一人、この男を除いて。
「は、ははは、わかっているようだ!そうだ、この男を殺せ!だが、この男は罪人でも僕の手駒ですらもない!ただ町をぶらついていた一般人だ!僕はコイツを操って犯罪を犯し、わざわざ罪人にしてこの村まで連れてこさせたんだ!計画がうまくいかなくとも、哀れな人間が罪も無い同族を殺す、その瞬間が見たいがために!」
男は何も知らずにクレイに追い打ちをかける。
クレイは、例えこの男が罪人でも、語っている本人であっても、命を奪うことを良しとしない。
誰一人としてむやみやたらに傷つけることを嫌う、とんでもないほどのお人好しなんだ。
それが、村を救うために人を殺せ?
更には、その殺すべき人は操られていただけで実際には何もやっていない、不本意な罪を着せられた一般人?
ふざけるのも大概にしろ!
何がわざわざ罪人にしてだ。何がその瞬間が見たいがためだ。
散々人の命を弄んで、挙句まだまだ愚弄したりないのかこの糞野郎は!
ああ、気持ちがわかる。わかってしまう。
過去の僕が、コイツの言葉に同調しているのがわかる。
記憶の中の僕が、目の前の下劣な思考を求めている。
そうだね、そうだ。最高だ。
最高に人々を苦しめ続けてきた僕ならわかる。
クレイがとんでもないほどのお人好しなら、コイツはとんでもないほどのクズ野郎だって!!
『黙れ、黙れ黙れ黙れ!この悪党が!クズ野郎が!最低の、最悪の、胸糞野郎が!』
僕は叫んだ。クレイの心の底から。相手に伝わらないこともわかっているのに。
伝わるどころか届きすらしていない。
僕の罵りは、クレイの心の中でだけこだまする。
クレイの魂の感情は、固まってしまっている。
ショックで、思考が停止してしまっている。
その分も含めて、僕はアイツを侮辱した。
アイツは僕の言葉に気付いていない。先ほどから変わらずに僕らをあざ笑っている。
「ああ、あーあ。楽しいショーが見たいところだが、僕はこの辺りで失礼しよう。ああ、安心しろ。この男は僕が今までやってきたことを全て覚えている。僕はこの男から離れた後、君たちがこの男を裁く様子を想像しながら、優雅な午後を過ごすことにする。では、また会おう。魔王様の親友くん」
クレイが残った僅かな気力で止めようとしたときにはもう遅かった。
男は全身を小刻みに震わせ、僕らを怯えた目で見つめていた。
何か言いたげに紫色の唇を震わせ、言葉にならない音を発する。
この男の中に居た悪しきクズ野郎は、去ってしまったんだ。
クレイは何も言わずに立ち尽くす。
キャスヴァニアも、男を抱えたまま何も言わない。
男は身を震わせながら祈るように、許しを請うように僕らを見つめている。
クレイは、男の様子をしばらく眺めた後、僕に問いかけてきた。
『俺は、どうすればいい』
なんて、なんて残酷な選択肢だ。
村を救うためにこの人を殺すか、この人を救うために村を見捨てるか。
他に選択肢はないのか。
この人の中に居たアイツを殺すために旅に出る。
ダメだ。どこにいるかもわからない相手を探すなんて、クジラさんの呪い解呪のための旅と全く同じだ。それに、探している間にも魔術の効力は続く。その間にも村の人たちの体力は消耗していく。時間なんてない。
他に魔術を解く術を探す。
どうやって?アイツの力量にもよるけれど、一度かけた魔術を術者以外が解くにはそれ相応の力が必要になる。
悲観傀儡が発動しないように人々から負の感情を消す。
やろうと思えばできるかもしれない。だけどそれは無茶苦茶だ。
人は負の感情があるから悲しめる。怒れる。恐怖できる。
これらの感情が無かったらロボットと同じだ。辛い時に悲しめない。それがどれほど危険で酷い状態か。
答えがでない。
『どう、しよう、ね』
僕はクレイを元気づけたい。
いつも通り手を掴んで導いて、クレイを安心させたい。
だけど無理だ。
何を選んでもクレイはきっと苦しんでしまう。後悔してしまう。自分を責めてしまう!
僕と入れ替わることができたならば、この程度の魔術なんて簡単に解いてあげられるのに。この人も村人たちも救ってあげられるのに!
僕らは何もできないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
僕らの心の中には分厚い暗雲が、いつまでもいつまでも渦巻いている。
男の人は、死の恐怖に耐えきれずに泣き出してしまっている。
何も、できない。
『アギラ、村長が前に言ってた』
クレイの心の中に、今まで感じたことがなかった感情が芽生えたのがわかった。
とても小さくて、不安定で、ボロボロの感情だ。
『俺は罪の重みと命の重みがつりあった時、命ばっかり優先するって』
クレイは震える手をゆっくりとあげながら、男の人に歩み寄る。
止められない。止めちゃだめだ。止めないとだめだ。
僕の思考はめちゃくちゃになる。
『この人の罪は不本意な罪だった』
クレイは男の人の首に手をかける。
不安定な感情が少しずつ大きくなっていく。
クレイの心臓の動きが早くなっていく。
クレイの呼吸は荒い。
男の人は、泣きながら、小声で命乞いの声を漏らす。
『だが俺は、この人に罰を与えなくてはいけない……!!』
クレイの中の感情が、殺意が、明確な形を持った。
「不本意な罪に、罰を与えろなんて、一体何様だよ」
クレイは、男の人の両肩に手を置いて、縋りつくように顔をうずめた。
男の人はボロボロと涙を零して、何が何だかわからないという顔をしている。
クレイの中の殺意が、跡形もなく崩れていくのがわかる。
僕は、クレイを叱らないといけなかった。
正解なんてないけれど、この場ではもっとも正解に近い答えを選ばなければいけなかった。
『クレイ、気持ちはわかるよ。でも、村の存亡がかかっているんだ』
僕はクレイの心の中で語り掛けた。
だけど、クレイは脱力したまま口に出して答える。
「わかってる。このままじゃ村の人たちはいつまで経っても治らない。この人を殺さなきゃいけない。だけど、それじゃアイツの望み通りだし、この人も救われない」
クレイはキャスヴァニアの腕を掴む。
男の人を離せと言わんばかりに腕を引っ張る。
『だけど、切り捨てなければより大勢の人が救われない。天秤にかけて。重いのはどっち』
僕はクレイを諭す。
クレイの思考は間違ってはいない。
だけど、ダメなんだ。それは村を見捨てる行為になる。
「まだ時間はある。俺は足掻く。この人も村も助けたい」
どうやって。
さっき考えた方法は全て非現実的だ。それ以外に方法があるの?
「アギラ、お前に変わったら、魔術は解けるのか」
『……可能だけど、無理でしょ。作り出した恐怖で気絶するのは禁止だよ』
すると突然、クレイはその場で全身の力を抜いて倒れ伏した。
キャスヴァニアも男の人も驚いて、クレイの顔を覗き込む。
全身の力だけじゃない。心も魂も、段々と活動する力を失っていく。
まさかだ。
まさか、クレイはこの状況で魂だけを眠らせようとしているの?
僕と入れ替わるために、全身の、全身全霊の全ての力を抜くことを試しているの?
体ならまだしも、心まで全ての力を抜くのは楽じゃない。
心なら何も考えないように、感じないようにしていてもどこかで無心という名の力を持ってしまう。思考が残る。無心は無心じゃない。
それに、これが上手くいったからと、僕と入れ替わるとは限らない。
魂だけが眠る方法だとは限らないのに。
クレイは、村とこの人を救う一縷の望みをかけて試しているんだ。
なんて無謀な。
この行為に何も意味が無い可能性だって高いのに。
でも、クレイがその気なら、僕も本気でそれに応えよう。
僕はひたすら、体の主導権が僕に入れ替わるのを待った。
入れ替わったら手を上げて、男の人に手を向けて、男の人の中にある魔術の術式を解除する。
入れ替わったら手を上げて、男の人に手を向けて、男の人の中にある魔術の術式を解除する。
ひたすら僕はクレイの体を操作する意思を強く持ち続ける。
気を抜くな。一瞬かもしれない。逃したら、クレイの努力が無駄になる。
クレイと気持ちを一つにしろ。
僕とクレイは、この村を、この人を救いたい!
入れ替わったら手をあげて、
男の人に向けて、
中にある術式を、解除する!
プツッと何かが切れた感覚があった。
即座に僕は心の中にあった一連の流れを行動に移す。
男の人から大勢の人に対して繋がっていた大量の糸が、纏めて切られた感覚があった。
クレイは成し遂げた。
クレイの魂だけが眠る方法を。
「大丈夫?」
キャスヴァニアの不安そうな声と共に、主導権がバチッとクレイに入れ替わったのがわかった。
クレイは一瞬意識を取り戻したけれど、再び眠りにつこうと脱力する。
『クレイ、うまくいったよ!もう必要ないよ!』
僕が慌ててクレイに作戦成功の旨を伝えると、クレイは飛び起きた。
そして、キャスヴァニアと怯える男の人を見つめると、事実確認へ向かうために立ち上がった。
「魔術は解除した、はずだ。村人たちのところへ行こう。うまくいっているなら、全員暴れなくなっているはずだ」
「本当!?」
クレイの言葉に、キャスヴァニアが笑顔を輝かせながら男の人を降ろす。
男の人も我を疑うような顔で半信半疑のままその場に立つ。
「念のため、その人も連れてきてくれ。もし失敗していたとしても、また試す。あんたは、何があっても殺さない」
クレイは男の人にまっすぐな眼差しを向け、同じようにまっすぐな意思で決意を伝えた。
男の人は、ようやくホッとしたのか、立つ力も失ってよろけてしまう。
「まだ抱っこしていた方がいいみたいだね」
キャスヴァニアは男の人を支えると、抱き上げてお姫様抱っこの形にした。
男の人が腕の中で恥ずかしがっている。
全員の準備が揃うと、みんなで一斉に村人たちのもとへ走り出した。
*
結果を言うと、クレイの望み通り、村人も男の人も救うことができた。
家に着いて適当な村人の縄をほどくと、その人は暴れることなく自分が自由に動き回れることに驚いていた。
一人確認したら次は警戒しながら他の人も次々とほどいていく。
村の人たちは誰一人暴れることなく、全員を解放することができた。ケインを除いて。
「おい!クレイ!キャスヴァニア!早くほどきやがれ!勝手に行きやがって、説教だ!」
なんて言って暴れているから仕方がない。
事態が完全に収束するまでは放っておくことになった。
森で放置している駐在兵を村の人たちにお願いすると、僕らは続いて村長のもとへ向かった。
村長はクレイが戻ってきたのを見ると、落ち着いて何があったかを全て聞き、そしてクレイに感謝をした。
子供たちはホッとした途端、今まで我慢していた分大声を上げて泣き始めた。
アスレイナはクレイに近寄ると心配そうに見つめた。
クレイは優しい笑顔を作ると、アスレイナに向かって一言だけ呟いた。
「誰も殺していないよ」
アスレイナは安心した表情を浮かべ、クレイの手を取った。
「そっか。でも、よく考えたけど私はクレイをいい人と思えない」
アスレイナの言葉に笑顔を曇らせるクレイ。
「でも、殺さない人だって信じる。クレイ、ありがとね」
アスレイナは複雑な心情で困ったように笑う。
クレイも合わせて不器用に、笑った。
こうして、事態は収束し、負傷者百十二名、死者四十五名を出した村の大事件は幕を閉じた。
……訳ではない。
まだ問題は山積みで、死者の回収、負傷者の治療が終わったら、村長を議長にして村の中央で緊急会議をすることになった。
詳細な村の被害状況、キャスヴァニアと利用された男性の処遇、村の今後についてを主に話し合うようだ。
急だけれど仕方がない。全てが急だったからね。
そして、その中でクレイとケインは村を守った功労者として、村の有権者たちに並ぶ発言権を持った席に座ることが許された。
キャスヴァニアも村を守るために走り回ったけれど、元が凶悪犯罪者なだけあって許されることはなかった。
『クレイ、この後も大変だろうけど頑張ろうね』
僕は村を駆け回ってついた汚れを落とすクレイを励ました。
だけど、クレイは重い感情を抱えたままだ。
『大丈夫?』
僕は心配して声をかける。
いろいろなことがあった。救えなかった命も多かった。
見殺しにしてしまった命もある。
『大丈夫じゃない』
珍しく、クレイが素直に弱音を吐いてきた。
疲れ切った顔で、愁いを浮かべた表情で、心の中で僕を見つめた。
『もし、さ。村人たちとあの人、すぐにどちらか一方を殺さないと全員死ぬ状況だったらさ、俺の判断はみんなを殺していた』
クレイは他にも心に闇を抱えていたけれど、そのうちの一つを僕に差し出してきた。
僕ですら答えが出なかった、とても深い闇だ。
『今回はこれでよかったかもしれない。でも、もしアギラがいなかったら。もし、他に方法が無かったら。次にまた同じ状況で選択を迫られたら。俺、どうすればいい』
僕は悩んだ。
さっきは焦って出なかった答えを、冷静な頭で考えた。
それでも、答えは出そうにない。
だから、思い切って答えた。
『間違えてもいいから、選んで。クレイは絶対にその答えに後悔して、苦しんで、絶望するから。それを見て、僕も同じように絶望して、同じ罪を背負うよ』
僕らは元から共犯者だ。
僕の罪をクレイが背負うなら、クレイに出来た罪は僕が背負おう。
お互いにそれで軽くなることはない。
むしろ、お互いに余計に苦しい思いをすることになる。
だから、それでいい。
クレイの心は晴れることはなかった。
だけど、クレイは泣きそうな心のまま前を向いた。




