013 全身全霊の恐怖
「お、おわーーーーーー!!!!!」
なんだなんだ!
早朝から何?今、家の外から聞こえたよね?
気持ちの良いふかふかのベッドから思わずクレイが飛び起きる。
今の声はクレイでもアルでもクジラさんでもない。
もちろん、僕でもない。僕が叫んでもクレイの心の中にだけ響くのみで、声になることは無いからね。
『聞こえたか、アギラ』
『うん、聞こえた!急ごう。何か事件があったのかも』
クレイは落ち着いて玄関から外へと足早に向かった。
玄関の扉の先に居た声の主は、クレイが扉から出てくるや否や家の前に尻もちをついて怯えている常駐兵、ケインだった。
「ひぃ!出た!出たぁ!」
失礼なことに、ケインはまるで化け物を見たかのように叫んで、腰が抜けたまま這ってその場から逃げようとし始めた。
クレイは怒りの前に呆れを浮かべ、面倒臭そうにケインに歩み寄った。
「なんだよ、お前」
「魔王だぁ!食われる!お、お助けぇ!」
クレイが近づくと尚のこと怯え、ケインは何もないところに手を伸ばして必死に助けを求める。
困った。この様子のケインを村の人たちに見られでもしたら、クレイが悪いことになってしまう。
下手すると村総出でクレイが退治されるかもしれない。
何とか叫ばせるのだけでも止めないと。
『アル、聞こえる?この人を怪我させない程度に黙らせて』
するとピタリとケインの悲鳴が止まる。
ケインは口をパクパクさせて、絶望した表情でゆっくりとこちらを振り向く。
おそらく、アルが使ったのは封印魔法『沈黙』だ。
対象は声が出せなくなるので、詠唱魔法とかを封じることができるようになるデバフなんだけど、よく咄嗟に使ってくれた。
「んで、ここに何の用だお前」
クレイが声の出なくなったケインに無表情で歩み寄る。
ゆっくりと一歩一歩近づいてくる恐怖の元凶に、臆病なケインは耐えきれずにその場で白目を剥いて気絶した。
クレイは動かなくなったケインに慌てて近寄ると、脈拍などに異常が無いか確認してからため息をついた。
「なんなんだよ、急に」
『彼がケイン。悪い奴じゃないんだけど、すっごい怖がりだから許してあげて』
ケインの代わりに僕が紹介する。
数日前にクレイにもケインのことは説明してあるから、クレイはすぐに頭の中で前に聞いた特徴と目の前の人物を合致させた。
『こんなところにいつまでも放置できないな』
『うん、一回家に入れちゃおうか。放っておいたら目が覚めて、村に魔王が復活したなんて言いに行きかねないし』
クレイは頷いてケインを俵のように抱えると、家の中まで運んだ。
*
ケインを家の中に運び入れてクレイのベッドに寝かせてからしばらくが経過した。
クジラさんとアルもやってきて、クレイと一緒にケインの様子を観察している。
アルはケインがいつ目覚めてもいいように人の姿で待機している。
「どうする?全然起きない」
クレイは最初こそ呆れていたけど、段々と目を覚まさないケインのことが心配になってきた。
ケインは呼吸はしているけれど、死人のようにシーンと眠り続けている。
『どうするって言っても、目が覚めるまで待つしかないよ』
「うーん、魔物だったら起こす方法があるんすっけどね」
やめなさいソレは。
クジラさんがうーんと悩みながらやろうとしていたソレは、スキルを魔物に与える『能力共有』で『意識覚醒』スキルを渡し、相手の意思に関わらずスキルを発動させる『能力誘発』で使わせるという一種の不眠拷問コンボだ。
僕もクレイ抜きでクジラさんと会話するときは『意識覚醒』を使われる。
多分、この人には何か大事な物が欠けている。
「相手が魔物ならば起こすことができるのですか」
「そうっすね。魔物じゃないと駄目なんっす」
ここでアルがクジラさんの顔を覗き込みながら話に加わってきた。
クジラさんは相変わらず困りげに唸っている。
「そうですね、一時的に魂の属性を人から魔物に変えてしまえば良いのではないでしょうか」
おっと、アルが不穏なことを言い始めたぞ。
頼むからクジラさんの案に軽率に乗らないでほしい。
僕が不安になる。
『ちょっと待って、流石にそれはケインの心に悪影響がでない?』
「アギラの言うとおりだ。魂の属性を変えるのがどういうことか知らないけれど、人の魂を勝手にいじるもんじゃない」
ああ、この場で安定の安心感を与えてくれるのはクレイしかいないよ。
クレイは二人の行おうとしていることを止めようとしてくれた。
「大丈夫です。魂をいじるのではなく、魂を騙すだけですので」
まーたアルが難しいことを言う。
こちらが難しいことを聞いて理解出来ていないのを良しとして、もっともらしいことを言って籠絡するアルのいつもの話術だ。
「今からケイン様の魂と私の魂を同調させます。ケイン様の属性は人ですが私の属性は魔物ですので、より強い私の魂に引かれた結果、一時的に魂が自らの属性を勘違いします。その結果、ほんの僅かな間だけケイン様の属性は魔物となるのです。羊の傍に狼を放り込んだ際に一瞬だけ仲間と誤認するかのようなものです。すぐに魂が気づいて戻りますので、ケイン様に悪影響はございません」
騙されるなクレイ。
もっともらしいことを言っているように感じるけれど、アルの言っていることだから多分もっともだぞ。
だけど、ここで折れたらまたサイコパスクジラさんの餌食が増えてしまう。
頼むクレイ、折れないで!
「そうか。ケインを起こすためだもんな。このまま起きなかったら困る。頼む、やってくれ」
折れたー!
クレイはケインが心配なあまり、アルの説得を受けて折れてしまった!
ごめんよ、ケイン。守れなかった。一瞬だけだけどクジラさんの餌食になってくれ。
「それではクジラ様。始めますのでタイミングを合わせてください」
「わかったっす!」
クジラさんはケインにスキル付与のために手をかざすけれど、アルは何か特別なことをするでもなく意識を集中し始めた。
すると、アルがまるでケインの中に入っていくような気配の流れを感じ取った。
今まで見たことがない芸当だ。面白い。面白がっちゃいけないけど。
そして、ケインの中の気配が二つになった。
「今です」
アルの合図と共にクジラさんがケインに『意識覚醒』スキルを付与する。
途端に二つの気配は離れ離れになって、この場は元通りの空気に戻った。
そして、クジラさんは一呼吸おいてから能力誘発を繰り出した。
ケインは短く息を吐き出すとハッと目を覚まし辺りを見渡した。
そして僕らの姿を確認すると、慌ててベッドの横の壁にびったりとくっついて口を動かしながら怯え始めた。
まだ沈黙の効果が続いているんだな。うるさくなくて助かる。
「おい、そんなに怯えるなよ」
クレイが話しかけるとケインはボロボロ泣いて傍にあった布団を抱きしめ始めた。
情けないな。僕と同じ十九歳とは思えない。老け顔だし。いや、この場合の思えないは下の方に見ているけれど。というかそもそも僕は数百歳だけど。
「今、あんたを喋れないようにしているけど、叫ばないって約束したら喋れるようにしてやる。約束できるか?」
クレイはちょっと苛立ち気にケインに問いかける。
ケインは話を聞いておらず、ベッドの隅に移動してがくがくと震えている。
クレイは大きくため息をつくと、ずいっとケインに顔を近づける。
「喋れるようにするから叫ぶな。いいな」
ケインは歯をガタガタと鳴らしながら首を縦に振る。
ようやく言うことを聞いたケインにホッとしながらクレイはアルに向き直る。
「アル、ケインを喋れるようにしてやってくれ」
「はい、お任せを」
するとケインの沈黙状態が解かれる。
ケインは小さくあ、あ、と呟いて、クレイの動向を監視している。
無事喋れるようにはなっているようだ。
『まだ怖がっているみたいだから離れてあげたら?』
『わかった』
クレイはケインから離れるとアルとクジラさんの横に並んだ。
ケインはクレイが自分から離れたのを確認すると、小さなぼそぼそ声で話し始めた。
「あのう……クレイさん。その二人はどちらさまで……」
他の二人には聞こえていたけれどクレイには聞こえなかったようで、クレイが聞きなおすとケインはまた萎縮してしまった。
「僕はクレイくんの家にお泊りさせていただいてる冒険者のクジラ・ヒライっす!ぴちぴちの三十二っす!」
「私はアルステム……フルバックと申します。最近クレイくんのおうちに泊まらせていただいている魔法使いです」
おお、余所行きのアルの対応は初めて見た。なるほど、そういう設定でいくんだ。
一方でクジラさんはいつもとぶれない。いっそ安心する。
「あ、あんたら……こいつがどんな奴か知らないのか……?おんぼろ小屋を一人で魔改造してこんな家にした子供だぞ……。しかも少なくとも三日前はまだおんぼろ小屋だったぞ……。おかしいとは思わないのか……?」
ケインが怯えている理由がなんとなくわかった。
僕がこの家をリフォームした当初に抱えていた不安、村人がこの劇的変化を見たらクレイが魔王になったと勘違いするんじゃないか問題だ。
他の村人がどう思うかは置いておいて、少なくともケインにはクリティカルヒットしてしまったみたいだ。それで今朝のあの叫びに繋がる、と。
「ああ、それでしたら勘違いですよ。あの小屋を建て替えたのはこの私です」
「……へ?」
チワワのように震えるケインに、アルはにこやかに微笑むと胸に手を添えて会釈した。
「クレイくんが一人であの小屋に住んでいると知った私が居ても立っても居られず、ついついお節介で手を貸してしまったのです。私はこう見えていても高度な魔法が使える魔法使いですので、一晩で家を建てるのにはそう苦労致しません。そして、家を建て替えたお礼にとクレイくんがおっしゃったので、しばらく厄介になっている次第でございます」
よくもまあそんなにぺらぺらと舌が回る。
未熟?ボロが出る?全然。全てを知っている僕らですら騙せそうな勢いだ。
まあ確かに家を建てたのはほぼアル一匹の力だけだけど。
現に何も知らないケインは肩の力が抜けて、アルの言葉に安心感を感じている。
「じゃ、じゃあ、クレイ、さんの仕業ではない、と?」
「はい、クレイくんはただの少年ですよ。一人で家が建てられるわけがありません」
ケインは大きく深呼吸を何度かした後ででっかくため息をついた。
恐怖でうまく呼吸ができていなかったんだろう。
少なくとも、この場ではクレイの仕業ではないとして安心したようだ。
だけど、クレイは内心ちょっといらいらしていた。
散々魔王扱いされて、何でもありませんでしただけじゃ済まないようだ。
「俺に何かいうことはあるかよ」
「ひっ、クレイ、さん。か、勘違いを起こしてす、すみませんでした!」
いくら誤解が解けてもまだ恐怖心は残っているようだ。
クレイはケインに対して怒りと呆れを繰り返している。
『僕の時はこんなに怯えていなかったのに、なんでだろう。やっぱりさっきのが怖かったのかな』
「……この間会った時はこんなんじゃなかっただろ。なんでそんなにビビるんだよ」
僕が伝えた言葉をクレイ翻訳でそのまま話しちゃうのか。
ケインはクレイの言葉にビクつくと、そのまま目をそらす。
「あー……えーっと、クレイさん……雰囲気、変わりましたね……?」
あ。あー。あーー、なるほど。完全に理解した。
僕が喋る時の声の調子や口調と、クレイが喋る時が違うから、それでケインは違和感を感じているんだ。
んで、クレイは魔王封印の器だから、もしかしたら今喋っているクレイは魔王かもしれないとか思っているんだ。
面倒くさいな!魔王さんとはついこの間お話ししたでしょうが!こっちが本物のクレイだよ!
はあ、全くしょうがないな。
『クレイ。この間は初めましてで緊張していたから、丁寧に対応していただけですって言っておいて』
「……この間は初めて会ったから、緊張で丁寧に話してただけだ」
僕の言葉をクレイ翻訳してぶっきらぼうに言うクレイ。
ケインはクレイの言葉を聞くと安心しきってホッと胸をなでおろした。
「驚かせるなよー……一連の流れで魔王が復活したと思ったじゃないか……」
くたびれ損って顔でようやく落ち着くケイン。
それにしてもどんな言葉もすぐ鵜呑みにするな。大丈夫かこの人。詐欺とかに会わないようにね。
「それで、君はここに何しに来たんっすか?」
僕らの様子を静かに見守っていたクジラさんが口を出す。
そうだ。わざわざ村外れまで来たってことはクレイに用がある以外ありえない。
「それもそうだ。俺になんかようか?」
「そうそう、それなんだけどよ……」
ケインは流石にいつまでもベッドの上に居座っていることに違和感を感じたのか、布団を手放して床に降りた。
「……この間の件、俺が上司に頼んでみてよ……」
「この間の件?」
「忘れてんのかよ……お前が提案してきたのに……」
ケインはがっかりして、クレイはさっぱりという顔をしている。
この間の件ってもしかして……。
『クレイの見張り係の件のことじゃないかな?ほら、隠れてトレーニングがしたいって言ってた話』
「俺の見張り係のことか」
「そうそう!なんだよ覚えてるじゃないかー」
ケインはよかったと言わんばかりに笑う。
クレイはこっそりと僕が言ったんだから覚えてるわけがないなんて愚痴ってきた。
僕が好き勝手やったせいだね。ごめんね。
「んで、見張り係の件だよ。最初は命がいくらあっても足りないと思ってたぜ。だけどあの後、何度かよくよく考えてみたら、お前魔王の器にしては感じよかったし、ちゃんと話聞いてくれてたし……」
ケインは目を閉じて考えながらクレイ、のフリをしていた僕の姿を思い出す。
おお、別れ際の時はまだクレイのこと怖がっていたみたいだけれど、日付を置いたら考えを改めたみたいだ。
もしかしたらケイン、クレイの村での初めての友達になれるかも!
「もしかしたら、いい奴……なのか?」
ケインは疑い深そうな目でクレイを睨む。
まだ疑っているんかい。疑問形で聞かないでよ。
そんな聞き方じゃクレイは、はいそうです、なんて言えないじゃないか。
ほら、クレイもなんだコイツって目でケインを見始めた。
どうしてくれるのこの空気。
「いやぁ~、クレイくんは良い子っすよ~!」
「おわっ!?」
そこでパッと横からクジラさんが顔を出す。
突然顔を近づけてきたクジラさんに、思わずケインはたじろいだ。
「実はっすね、僕が森で迂闊にも食料の買いだめを忘れて空腹で行き倒れていた所、なんとクレイくんが通りかかり家まで運んでくれたんっす!そんでクレイくんは家にある僅かな豆、芋、干し肉を、僕のために惜しげもなく調理してくれて、自分の食べる分も無いのに……あの時は、感動したっす!」
うわー、うさんくさー。
ぺらぺらと回る口で、わざわざハンカチを出して涙をこぼしながらの迫真の演技かっこわらい。
同じく口が回るアルよりも何倍も疑わしい演技でよくここまでやるなぁ。
こんなのじゃ流石にケインも騙されないでしょ。
「……クレイ、お前、いい奴なんだなぁ!!」
嘘でしょケイン。
思わずもらい泣きしながら涙声で叫ぶケイン。
もうここまでくるとただの馬鹿だよ。いい奴にしても物を信じるのには限度がある。
クレイももはや何の反応もしなくなってきた。
「うー、魔王がいるとはいえ、そんないい奴を俺は怖がっていたのか……くそっ、もっと早く気づきたかった!くそーっ!」
「別にいい。怖がられるのは慣れている」
「はぁー!?慣れるなよこんな俺よりも一回りも小さいガキが!今まで魔王は怖くて当たり前って思ってたけどよ、よくよく考えたらお前魔王じゃねぇ!俺がお前だったら周りの冷たさに耐えかねてとっくに首吊ってるわ!」
泣きながらキレ散らかすケイン。
そうだよ。ケインに話したのは嘘のクレイの優しさかもしれないけれど、本当のクレイだって同じ状況になれば同じことをする。
クレイはいい奴なんだ。それをよく心に刻んでね。
「だから慣れてる。今更怖いのなんのって言われて傷つくほど、俺の心は弱くない」
確かに、クレイの心は出会った時よりも強くなった。
でも、それは僕らという心の支えができたからだ。
それがあっても、今でもクレイは誰かに怖がられる、馬鹿にされる時、少しだけ心が揺らぐ。
全て慣れているわけじゃないんだ。
ケインはクレイを見つめながらずびずびと鼻を鳴らした後、自分の持っていたハンカチで勢いよく鼻をかむ。
そして、顔を乱暴に拭って涙の跡を消すと、真面目な顔をしてクレイに深く礼をした。
「……少年、自分の今までの非礼を詫びさせてくれ。俺は、俺たちは今まで君の存在を勘違いしていた。君は魔王と等しい存在で、皆から憎まれるべき悪だと思っていた。だが、事実君は一人の少年で、人を傷つける能力など持っていない……いや、A級指名手配を倒したから持っているな?」
おい、かっこいいこと言っているような途中で素に戻らないでよ。
「お、おほん。とにかく、力がある以外は普通の少年だ。自分が力を付けられずに落ちこぼれのまま悩んでいた所を、まるで自分のことのように共に悩んでくれた。そして、行き倒れた人を助ける心優しさ。君は、憎まれるべき悪ではない。この村の中でも一際綺麗な心を持つ少年だ」
下げた頭を上げると、ケインはクレイに真面目な顔のまま向き合う。
「重ねて言おう。幼い君を傷つけるような数々の言動。君の心が許すならば、許してほしい」
クレイは、どうしたらいいかわからないようだった。
もちろん、ケインのことは許す気満々なんだけど、自分が謝られる側に回るのは珍しいからだ。
だけど、ちょっと考えてから小さく頷くと、クレイは手を差し出した。
「これからは仲良くしてくれるのであれば、許すよ」
クレイの控えめな照れた笑みを見ると、ケインは微笑んでクレイの手を掴んだ。
「改めまして、自分はケイン・カストラビ。この村のE級兵士の常駐兵だ。これからよろしく頼む」
「その固い態度やめてさっきまでの状態でやってくれ。……クレイ・ドルトムント。よろしく」
固い握手を交わす二人。
クレイの初めての純粋な友達だ。涙出てきた。泣けないけれど。
クジラさんも二人の様子にじーんと来ているように見える。
アルは相変わらずにこやかに微笑んでいる。この態度はずっとぶれない。
そっか、村での初めての友達、か。
村長みたいな人と違って、十歳年が違うけれど年が近いクレイの理解者。
ケインを初めに、村に人たちともどんどん仲良くなっていってくれたらいいな。
「それで、俺の見張りの件の話はどうしたんだ?」
あ、そうだ。すっかり忘れてた。
「あ、そうだ!すっかり忘れてた!」
君は忘れないでよケイン。わざわざそのためにここまで来たんだから。
「えっとよ。実はそのことについて、上司の駐在兵に聞いたんだよ。『魔王の封印の器の少年を見張っててもいいですか?』って。そしたら許可が出た」
やったじゃん!これでケインは隠れてトレーニングをできるね。
でも、許可が出た割にはケインは嬉しくなさそうだ。
何が不満なんだろう。
クレイもケインの不満を嗅ぎ取って問いかける。
「どうした?何か言いたそうだけど」
「いや、俺が村から離れている間に俺が担当するはずだった箇所で何か事件があったら後悔するからさ。それに強くなるためのトレーニングって名目だけど、やっていることはサボりだぜ?魔王の見張りと思って多少の危険が付きまとうと覚悟したはいいけど、蓋を開けてみりゃ普通の子供だし……。はーあ、自ら志願したとはいえやっちまったなーって」
うじうじと後悔するケイン。
ケインは怖がりでちょっとうるさいけれど、根は真面目なようだ。
まるで有給を使ったのにズル休みをしてしまった心情の社会人のような後悔をしている。
『上司が良いって言っているんだからいいじゃんね』
『まったくな。後悔しなくてもいいのに』
こっそりクレイとひそひそ交換。
「お言葉ですがケインくん。先ほどクレイくんに謝罪を申し上げていましたよね?」
「え、あ、はい。なんか俺、変なこと言ってたっすか……?」
突然さっきのやり取りを話題にあげるアルにビクつくケイン。
アルの年上オーラに思わず敬語モドキになっている。
「でしたらこの機会はクレイくんへの償いの機会です。見張るということは何もただクレイくんを見ているだけではないでしょう。クレイくんの一日の行いを報告書にまとめ、上司に報告する義務があるかと思われます。そして、心優しいクレイくんの何の変哲もない一日の行動を、嘘偽りなく上司に報告するということは村にクレイくんは危険人物ではないと知らせることに繋がります」
流石ごもっともスライムアルステム。
アルが喋ると大体そんな気がしてくるから流されてしまう。
流されやすいケインは妙に納得したようだ。
「なるほどな……。でも、それでも隙見てトレーニングするのはサボりみたいなもんだし、担当地区も他の奴に任せちまうし……」
「おや。自身に力をつけ、いずれ来る脅威に備えることは悪ではありません。ケインくんの身に着けた力は他者の命を救うことに繋がります。訓練をできることを誇りましょう。そして、ケインくんの担当地区が空いてしまうのは問題ですが、他の方が向かうのであれば問題はありません。事件が起きればその方が責任を持って対応いたします。自分がいないせいで事件が起きた時に対応できないのでは、と思考することは代理の方の責務能力、力量を疑うということです。それでも良ければ、後悔すると良いでしょう」
アルの力説に、ケインは胸を打たれている。
ねぇ、この二人圧倒的に相性が悪いよ。ある意味相性がいいけれど。
ケインはアルの言葉をすぐに鵜呑みにしてしまう。
ケインはもっと強い意志を持ちなよ。そんな簡単にアルに舵を取られていたらいつかアルのコピーになっちゃうよ。
でも、本人の気持ちはすっきりしたようだった。
うじうじした気持ちはもうどこにもなかった。
「よーし、わかった!アルステムさん、あんたがそんなに言うなら俺はやるぜ!さっさとトレーニングで力を付けて、この村を一人で守れるくらいには強くなってやんよ!」
ケインはにっかりと歯を見せて笑うと、腕まくりをする仕草を見せた。
さっきまでベッドの上でぶるぶる震えてたのに、こう見るとこの中ではケインは男らしい男だよね。
別にクジラさんがカッコ悪いわけじゃないけれど、ちょっと普段の態度がいい加減すぎるから。
「なら、今からクレイくんと一緒に修行するっすか?」
「え、いいんっすか?ぜひ!」
一通りのやり取りが終わった後、クジラさんが人差し指を上に向けてあっけらかんと提案した。
そうだね、クレイもこれから僕と好きな時に入れ替われるようになるため、心の修行をする必要があるんだ。
ついでにケインもクジラさんに見てもらおう。
「は?クジラ。修行ってなんだよ」
「修行は修行っす。クレイくんはまだ子供っすっけど、僕らがいなくなったらまた独りぼっちに戻っちゃうっす。だから、護身術は必要なんっすよ」
クレイは僕とクジラさんの会話の時に寝ていたから知らないのは仕方がない。
クレイの心の中にもやもやとした嫌な気持ちが浮かび上がる。
え、僕との修行はいいけどクジラさんの修行は嫌いなの?
わがままはダメだよクレイ。
『ほら、嫌がらないで修行しようよ。せっかく勇者並に強いクジラさんが見てくれるんだよ』
『それは別に嫌じゃない。むしろすごくうれしい、けど』
『けど?どうしたの?』
『……クジラ、冬が過ぎたら、また冒険に出ちゃうんだよな』
あら。あらあら。寂しいんだね。かわいい奴。
確かにこの心模様は嫌というより寂しい色だ。
クレイは最初こそ心が読めなかったクジラさんに苦手意識を抱いていたけれど、今では心が読めなくても傍にいてほしいと願うほどには一緒に居て楽しい存在になったんだ。
普段からクジラさんのいい加減な態度には呆れたりぶっきらぼうに相手しているようなことが多いけど、実際は離れて行ってほしくないんだね。素直じゃないなぁ。
ちなみに、僕の言葉がクジラさんに届いているってことは、クレイのその心の声も聞こえているよ。
クジラさんも満更じゃなさそうだ。
うん、じゃあ尚更だ。
クジラさんの短命の呪いを治すために、クレイがいつでも心を殺すことができるようにならないと。
僕が、魔女ヘサエイラを見つけてあげないと。
「ほい、じゃあついてくる人この指とーまれっす!」
クジラさんが人差し指を前に突き出す。
びっくりするくらい、誰も乗ってこなかった。
「……僕、嫌われてるんっすっかね」
「いえ、私はこの家に残り、留守番でもしようかと思いまして。空き巣にでも入られたら困ります」
確かにアルはもはや修行の必要が無いチートスライムだ。
低体力、低魔力量だったのもいつの間にか十分すぎるほどに底上げされている。
クジラァ!あんなにしかったのにまた『能力共有』やったんか!
やっていいことでも悪いことがあるんだよ!アルのためになってもならないことがあるんだよ!
「じゃあ、他の二人はどうしたんっすか?」
「いや、自分、そんな子供みたいなことできないっす」
「同じく」
冷めた気持ちで手を横に振るケイン。それに続くクレイ。
「んもー、ケインくんはともかく、クレイはまだ九歳っしょー?遊び心持ちましょうよー」
「やめ、やめろ!髭がじょりじょりする!」
クレイに抱き着いて頬擦りするクジラさんと、本気で嫌がるクレイ。
ケインはその様子を見て苦笑いを浮かべている。
「……この人は別に、敬わないでいいか……」
『うん、僕もそう思う』
ケインには聞こえないだろうけども、強い念で同調しておいた。
*
僕らはアルに見送られ、整備した森への道を歩き、いつもの湖の畔までやってきた。
いつの間にか紅葉した木々の葉もだいぶ落ち、冬へ移り変わる準備が進んでいる。
湖の水はいつも通り綺麗に澄み渡っていて、触れたら冷たそうだ。
そんな中、クレイとケインは地面に座らされ、クジラさんは二人の前で立ったままそれぞれの修行のメニューを考えていた。
「まず修行を始める前に、A級指名手配を無傷で倒した実力があるクレイくんとE級兵士のケインくんでは修行の内容が大きく違うっす。なんで、修行内容を交換しようだなんて思わないこと。いいっすね?」
「まあ、そりゃわかるけど一応聞いておく。なんで?」
ちゃんと質問をしてくれる、生徒としては満点の態度のクレイ。
「簡単っすよ。僕の教える修行内容は個人個人の実力によって一から組む特別なメニューっす。例えば、ケインくんがA級指名手配を無傷で倒せるレベルになったところで、今のクレイくんと同じ修行をしても同じ強さになれるとは限らないということ。それどころか、無茶をして体調を崩すかもしれないっす」
クレイとケインは大きく頷いた。
なーんて、クジラさんは言っているけれど、実際はクレイに教えるのはただの気絶の方法だ。
ケインが真似したところで強くはなれない。怖いと気絶する癖が、いつでも気絶できるようになるだけだ。
「なんで、まずケインくんの修行内容を教えるっす」
「おう!ばっちこい!」
ケインは拳を手のひらに叩きつけてやる気は十分だ。
むしろ、何の修行ができるかわくわくしている。
「じゃあ、ケインくん。君には……」
クジラさんはもったいぶって言葉を溜める。
ケインは期待に胸を震わせている。
そんなに溜めないであげてよ。
E級兵士の修行なんて、僕がクレイに教えた中で魂の修行を除いた筋トレくらいでしょ。
「この本を読んでもらうだけっす」
そういうと、クジラさんは自分の荷物の中から本を取り出してケインに手渡した。
本を読むだけか。なんだろう。スキルブックとかかな。
ケインは期待外れと言わんばかりに顔をしかめて本を眺め、パラパラとページをめくって中を見る。
「ウッ!!」
ケインは本の中身を見ると途端に体をこわばらせ本を落としてしまった。
そして、しばらくそのまま何とも言えない表情で固まっていたけれど、徐々に息を整えながら戻ってきた。
え、何?何が書いてあったの?
「どうっすか?心乱の書を目にした気分は」
「どうって、この本の文字を見た瞬間!なんか、感情が引っ掻き回されたようになっちまって!自分が悲しいのか嬉しいのか怒っているのかわかんなくなっちまった……なんだよこの本!」
平然とするクジラさんの横でケインは冷や汗だらっだら。恐ろしいものを見る顔で本をつっつく。
クジラさんはケインが落とした本を拾い上げると土埃を払い、再びケインに差し出す。
「こちらは心乱の書。読んだ者の心を乱す、傍迷惑な書物っす。しかし、今回のケインくんの修行ではこれを使うっす」
「これを?馬鹿いうなよ。頭が狂っちまう」
ケインは受け取りを拒否する。
クジラさんは本をぐいぐいとケインの顔に押し付ける。
「まあまあ、そういわず。これは修行なんで」
しばらく嫌そうにしていたけれど、ケインは観念して本を受け取ると中を見ないように両手で押さえた。
クジラさんはよしよしと顎に手を置いて頷くと、修行の内容について説明を始めた。
「心乱の書は対象を混乱させる厄介な書物。しかし、自分の魂の形を理解するのとコントロールできるようになるには必要不可欠な本っす。体の中に複数の魂が無い限りは、ね」
クジラさんは含みのある言い方をする。
僕とクレイのことを指しているんだろう。
クレイは僕に魂を触れられることで自分の魂を知覚したけれど、普通の人は習得するまで大変なんだなー。
って、ケインにも魂の修行するの?
確かに魂の動かし方を理解すれば格段に強くなれるけれど、クレイみたいな才能吸収スポンジとは違って、ケインは万年E級兵士。
もしかしたらすごい才能が眠っているかもしれないけれど、魂の動かし方はよっぽど強い人でもマスターしきっている人は少ない。極稀だ。
「ケインくんに最初にやってもらうことは自分の魂の形と位置を知ること。まずはその本を一瞬だけ読んで閉じる。これを繰り返して貰うっす。そして、本の力によって振り回された自分の心の中にある魂のことを探るっす。これが第一修行。コントロールはその後の課題っす」
「は?筋トレは?実技訓練は?魂って奴を知るだけで、他は何もしなくていいのか?」
「いやいや、余裕があれば自主練してください。もちろん、僕が相手になってもいいっすよー!」
半信半疑なケイン。ちょっぴり不満そうだ。
もっと本格的な少年漫画の修行みたいのを期待していたのかな?
わかるよ。その気持ち。
「ちなみに、この修行法を取っているのは僕くらいっす。他にも方法はあるっすっけど、これは中でも手っ取り早くて精神的に来る修行っす!」
満面の笑みで言い放つクジラさん。
鬼か。まあ上達が早いならいいか。
でも、クジラさんも天才肌だよね?その手っ取り早いっていうのはクジラさん基準ではなくて?一般レベル?大丈夫?
ケインは面倒くさそうに本を見つめる。
「ちなみに、心と魂を完璧に理解したものはこの世全ての魂を理解し、全ての魔法が使えるようになるなんて言われているくらいにはすごい修行っす。魔法だけではなく、物理攻撃も格段に強くなるっすよ。まだまだ第一レッスンも始まってないっすっけど、頑張りましょー!」
クジラさんの明るい声を聞いて、ケインは自分の両頬を力強く叩くと気合を入れた。
「ああ!しんどいけど力になるってんならやってやる!俺はやるぞ!」
本を掲げて吠えると、早速一ページ捲って中を見て、本を落として先ほどのようにフリーズするケイン。
うん、いいガッツだけど、無茶はしないでね。
そういえばクジラさんの解説を軽く聞き流していたけれど、心と魂を理解して全ての魔法が使えるようになった者って、なんか身近にいるような気がする。
一体何ステムなんだ。
一通りケインの修行を説明したクジラさんはクレイの方へとやってくる。
「さて、次はクレイくんっす」
「ああ、待ってた。俺は何をすればいい?」
クレイも少し修行に期待していたらしい。
姿勢を正してクジラさんに向き直る。
「そうっすね、クレイくんの修行はちょっとだけ危ないっすよ。下手をすれば、心が壊れるっす」
心が壊れる。
そう聞いてクレイは息を飲んで真剣に話を聞いた。
「じゃ、説明が難しいんで、実践してから説明するっす。あ、クレイくんは今は何もしなくていいっす」
するとクジラさんは優しくにっこりとクレイに微笑みかけた。
クレイも思わず優しい気持ちでほっこりしてしまう。
しかし、次の瞬間にはクレイの表情は一気に凍り付いた。
視点も定まらず、呼吸もままならない。全身の毛穴から汗が吹き出し、血の巡りも早くなっていくのがわかる。
クレイの助けを求める声が、恐怖で絞めあがった喉を通過して、言葉にもならずに消えていく。
「は、クレイ!?おい、大丈夫か!?」
思わずケインが駆け寄ってクレイを支える。
僕はクレイがそんな死の間際のような状況になっても慌てず、声をかけることもなく見守った。
今、クジラさんがクレイに行っているのは、クレイの心を強いプレッシャーで締め上げる行為。
自分の気配を操って、クレイの心だけを取り囲んで押しつぶしている。
おそらく、これでも手を抜いている。でなければ今頃クレイは一気に廃人になっている。
少しして、海深くに潜っていた人がようやく海面に顔を上げたようにクレイは強く息を吐いた。
大粒の涙をこぼし、胸を押さえて乱れた呼吸を整えようと大きく肩で呼吸する。
クジラさんがプレッシャーを止めたんだ。
「はい、お疲れ様。突然すみませんでした」
「な、俺に、何を」
「おい!何やったんだよ!」
「何って、修行のヒントっす」
ケインの様子には目もくれず、クレイに目線を合わせて詫びるクジラさん。クレイは先ほど感じた恐怖心を捨てられないまま怯える。
相変わらず視点は定まらず、唇は震え、うまく話すことができない。
「クレイくんには、今感じた恐怖を自分の中で増幅できるようになってもらうっす。クレイくんは魂の感情を未熟ですがコントロールできると思うんで、その要領でひたすら自分の魂を震えあがらせてくださいっす」
クレイは訳がわからないを通り越して、なんで自分がこんな目にあっているのかとまで感じている。
確かにこれは心が壊れる寸前だ。修行を始める前に壊してどうするんだ。
とにかく、クジラさんはケインがいるからここまでしか解説ができない。
ここからは少し、僕が補足しよう。
『クレイ、クジラさんはおそらくクレイがいつでも僕と入れ替われるようにする修行を考えてくれたんだと思う。クレイが好きなタイミングでクレイの魂を気絶させれば、いつでも僕と入れ替われるようになるから』
クレイは僕の言葉を認識すると、意識を集中して恐怖を抑えつける。
そして、ある程度落ち着かせると疲れた様子で僕に語り掛ける。
『……そうか、アギラを表に出すための修行か。今以上の恐怖を、自分でいつでも作れるようにしないといけないのか』
「修行の意味を理解したみたいっすね。これは僕も誰も手伝うことはできない、クレイくんの実力のみで行う修行になるっす。僕が手伝えることといえば今のような恐怖をヒントとして与えるくらいっす」
淡々と説明するクジラさんに、ケインはずかずかと近寄ると胸倉を掴んだ。
「お前!こいつはA級指名手配を倒せるとはいえまだガキだぞ!こんな、死にかけるくらいの恐怖を覚える修行なんて、する意味あんのか!」
「そうっすね。必要ないかもしれないっす」
「じゃあ、てめぇのやってることはクソだ!ガキをいたぶって遊んでんじゃねぇよ!」
ケインは、クレイに代わって怒りをクジラさんにぶつけている。
事情を何も知らないとはいえ、正論だ。
だけど、僕らはクジラさんを救うためにやらなきゃいけない。
そのためには、クレイに頑張ってもらわないといけない。
「いい、ケイン。この修行は俺のためになる。俺はこれをやり遂げたい」
クレイは何でもないように立ち上がると、クジラさんの胸倉を掴むケインの腕にそっと手を添えた。
ケインに手を放してもらおうとしているんだ。
だけど、ケインは手を離さない。
クジラさんのことを穴が開きそうな、火が付きそうなほど睨みつけている。
「ケイン、いいんだ。俺はこれがやりたい。やらないといけないんだ」
「お前のさっきの顔!」
ケインは乱暴にクジラさんの胸倉を掴んでいた手を振り払うと、クレイを指さした。
そして、怒りと苦しみが混ざっためちゃくちゃな感情のまま叫ぶ。
「お前のさっきの顔は!!十年前の俺そのものなんだよ!!魔王軍の侵略で滅ぼされた町で!唯一生き残って瓦礫の中ガタガタ震えてた俺に!!」
この場の空気が凍った。
ケインの怒りは、クレイを助けるための行為ではなかった。
昔の自分を救おうとしていただけだったんだ。
「おい、クジラのおっさん!お前は他人を怖がらせるって行為が何かわかっちゃいねぇ!肝試しだ修行だなんだって理由つけて、相手を恐怖させんのは一番のクソだ!!」
「……っすね。すいませんっす。僕が間違ってました」
クジラさんは何も否定することなく、真面目に引き下がった。
クジラさんだって、少し良心が欠如しているような面があるけれど、クレイの父親だ。
あんなことをして、心を痛めていないなんてことはない。
僕だってそうだ。クジラさんを救うための一環として必要な行為だとわかって黙認していた。
だけど、クレイが声を上げて助けを求めようとしたとき、胸が掴まれたように苦しかった。
全部、言い訳だ。
クジラさんの命を優先して、子供の心を弄んだ大人の汚い言い訳だ。
「いいか!死の恐怖ってのは!全身全霊の恐怖っていうのは誰も経験しちゃならねぇ!ましてやこんな小さなガキが知るべきじゃあねぇ!それを強要している大人も!受け入れて平然としている子供も!見ていて胸糞が悪いんだよ!!」
僕らを睨みつけて、散々吐き散らかすケイン。
ケインは怖がりだ。
だから、人一倍恐怖という感情のことを理解している。
この世でもっとも存在してはならない感情だとすら思っている。
それもこれも全部、十年前の記憶の中の自分が、恐怖を否定しているからだ。
ケインの人柄が理解できた。
彼は、この世に存在する過去の自分たちを救いたいんだ。
だから、自分がいるべき時にいなかった場所で事件が起きた時、後悔するなんて言っていた。
救えるはずの過去の自分を救えなかったら、また今のケインが生まれるからだ。
「……わかったか」
ケインは一通り怒鳴り散らすと、放り出していた本を拾ってその場に座り込んだ。
クジラさんは素の後ろめたい感情のまま立ち尽くして、クレイはどうしたらいいかわからないまま口を結んでいた。
「……クレイくんの心の修行は中止。僕と手合わせする修行に変更するっす」
「で、でも」
修行の中止を言い渡され、クジラさんに異議を申し立てようとするクレイをケインは睨んだ。
そして、また本を置いてずいずいとクレイに近づくと乱暴に頭を撫でた。
「ガキは笑顔が一番!笑え!」
ケインは自分は眉間にしわを寄せているのを棚に上げて、クレイに笑顔を強要してきた。
クレイは何も言わずに俯く。
「……だー!もう!いいか!?怖い時は泣け!死にそうな時は大声で助けを求めろ!できなけりゃ神にでも祈れ!そうすりゃ俺が助けに行く!」
そんな無茶な。
とにかく目の前の男は恐怖に悩まされる人を放ってはおけない主義のようだ。
クレイは少し考えた後、困りげな笑顔を浮かべた。
「俺より弱いのに、俺が怖がるような相手を倒せるのかよ」
「お、おう!倒す!倒せなくても倒してやる!お前が望むならそこのクジラのおっさんも今からぼこぼこにしてやっからよ!」
「え、僕っすか!?やめてくださいよ!もうしないっす、反省してるっす、後悔してるっす!」
クレイが笑顔を浮かべたことに安心したケインは、ふざけてその辺に落ちていた木の枝を持つと、クジラさんを追いかけまわし始めた。
クジラさんは慌てて逃げ惑う。
ケインはクジラさんを許しきれていない。
この騒ぎに乗じて捕まえられればクジラさんを本気でぼこぼこにする気があるくらいにはまだ怒っている。
それを、ここにいる全員がわかっている。
許されないことをやった。
クジラさんを救うことばかりに目が行って、二人の子供を苦しめた。
今ここにいるクレイと、過去のケイン。
僕は止められる立場に居たのに、クレイの心を傷つけることを選んだ。
どこかでクレイなら耐えきれると信じていた。
耐えきれるからと、人の心をむやみに傷つけるものじゃない。
そんなの、昔の魔王アギラディオスと同じだ。
また、僕は人を傷つけてしまった。
それも僕が散々守ると決めていた子供の心を。
人命を守るという言い訳で、犠牲にしようとした。
僕には、また罪が増えてしまった。




