憂鬱な朝と朝食
「美佐、もう学校に行く時間よ。早くしなさい、遅れるわよ!」
階下から母の呼ぶ声が聞こえる。
「なんだか気分が悪いの。今日は学校を休むことにするから」
美佐はベッドの上で布団に包まったままの姿勢で、階下の母親に言った。
「ちょっと、どうしたのよ? どこか体の調子でも悪いの? 病院にでも──」
「大丈夫。病院に行くほどじゃないから。多分、今日一日寝ていれば治ると思うから」
「それならいいけど……。昨日も夜遅くまで遊んでいたから、風邪でもひいたんじゃないの? いくら高校生になったからといっても、遊んでばかりいていいわけじゃないのよ。分かっているの?」
「分かってる。これからはもっと早く家に帰ってくるから。──それよりも、お母さんこそ、もう仕事に行く時間でしょ?」
「そうだけど……。美佐、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だから」
「そう、それならお母さん、仕事に行ってくるから。あなたはちゃんと静かに寝ているのよ。それから朝食は冷蔵庫に入れておくから、お腹が空いたらちゃんと食べること」
「はーい、分かりました」
しばらくして階下から玄関のドアの閉まる音が聞こえ、そして家の中は静かになった。すでに父と弟は先に家を出ている。これで家には美佐一人きりになった。
「はあーあ……」
美佐はもぞもぞと布団から顔を出して、大きくため息を付いた。とりあえず母にはズル休みを疑われずに済んだ。お腹は空いていないので、朝食を取る気にはならなかった。朝食よりももっと大事なことがあるのだ。それをなんとかしないとならない。
それは──昨夜『アイツ』に顔を見られていないかどうか、ということだった。
見られていなければ、何も心配することはない。でも、もしも見られていたとしたら、今ここでこうしていることじたい危険かもしれない。『アイツ』はこの家を突き止めて、やってくるかもしれないからだ。
「どうしよう……」
そうつぶやくしかない。
警察に話すことは昨夜から何度も考えたが、自分の見た話が信用されるとは到底思えなかった。警察だって『吸血鬼事件』の犯人が、まさか本物の吸血鬼だとは思っていないだろう。新聞にも、変質者の線で捜査していると書いてあった。それが妥当なところだ。現在、全警察官を総動員して懸命に犯人の吸血鬼を捜しているところです、なんてことはまずありえない。
「でも、昨夜見た『アイツ』は絶対に本物の吸血鬼よ。『アイツ』が犯人に違いないわ。だけど、こんなバカげた話を信用してくれる人なんていないだろうし……。だいたい、こんなことに詳しい人なんていない──あっ、もしかしたら、あの人たちなら……」
誰にともなくつぶやいていた美佐の脳裏に、美佐の通う高校に出来た、ある奇妙なクラブの名前が思い浮かんだ。
あの人たちなら、真剣にあたしの話を聞いてくれるかも知れない。たしか、怪奇な事件を専門に調査するとか言ってたし……。
『怪物探偵倶楽部』
それは今春、沼津第一高校に入学してきた六人組によって創部されたばかりの新しいクラブだった。もっとも、具体的にどのような活動をしているのか美佐は知らなかった。もしかしたら、一部校内で噂されているような、怪しげで危ないクラブかもしれない。でも、今は藁をも掴む思いで、あのクラブに助けを求めるしかなかった。
例え、友人に後ろ指を差されたとしても。例え、クラスメイトから冷たい視線を浴びたとしても。例え、美佐とはもう友人付き合いは出来ないわと親友に言われたとしても。
あれ? なんか、あたし、間違った選択をしているかも?
ふと、そんな思いにとらわれたが──。
ううん、間違ってないはず。だって、これ以外の道はないんだから。だいたい、吸血鬼のことなんて、誰に相談したらいいのよ? 子供電話相談室にでも問い合わせろっていうの?
『もしもし、あたし、昨日の夜に吸血鬼を見たんです』
『吸血鬼って、あの吸血鬼ですか?』
『そうです、あの吸血鬼です。それであたし、もしかしたらその吸血鬼に顔を見られたかもしれないんです。そうだとしたら、命を狙われているかもしれないんです。こういう場合は、どうしたらいいんでしょうか?』
『うん、あの……近くにお母さんはいるかしら? いたら電話を代わってもらえないかしら』
『ウソじゃないんです! 本当に吸血鬼を見たんです!』
『そうね、あなたは吸血鬼を見たのね。もしかして、その吸血鬼を見たのは、夢の中だったんじゃないかしら? 最近怖いことでもあって、それで夢の中で──』
やっぱり子供電話相談室じゃ、解決出来ないわ。もう、迷っている場合じゃない。あのクラブに助けてもらおう。
美佐はベッドから飛び降りると、机の引き出しを引っ掻き回し始めた。毎年春に行われる恒例のクラブ紹介のときに貰った名刺を、ここに入れておいたはずなのだ。あのときは話のネタになるからと思って名刺を貰ったのが、まさか、こうして実際に必要になるとは思いもしなかった。
雑多の小物と格闘すること数分──。
「あったーっ!」
美佐は引き出しの奥から、ヨレヨレに折れ曲がった一枚の名刺を発見した。
『怪しい事件、不可解な事件、その他現実では有りえない奇妙な事件でお困りのときは、当倶楽部にお電話、またはお越し下さい。我らの優秀な部員が誠心誠意、責任をもって調査、解決に導いてみせます。
調査費無料! サービス満点! アフターケアもばっちりお任せ!
おまけに部員は可愛い子が揃っています!
沼津第一高校一年五組 怪物探偵倶楽部部長 魔王堂アリス』
名刺にはそう記されており、裏側には電話番号と各種SNSの宛名が記入されていた。可愛いかどうかが調査にどのように関係してくるのか分からないが、とにかくここに連絡をするしかない。
美佐は壁に掛かった時計を見た。
「もう一時間目が始まっちゃっている頃か……。まあ、お昼休みにでも連絡すればいいか」
美佐は自分の部屋を出ると、階段に向かった。とりあえず解決への糸口が見付かったことで、いくらか不安が和らいだ。そうすると現金なもので、朝食を食べるだけの心の余裕が生まれたのだった。
「今日の朝食はなんだったんだろうな? あたしの好きなスクランブルエッグだと良いんだけどな」
さっきまで恐怖に震えていたのが嘘のように、軽快に階段を駆け下りる美佐だった。