一抹の不安
「──ねえ、アリスさん。これで本当に事件は解決したと考えてもいいんですよね?」
唐突に、隣に座っていたきららが質問を投げ掛けてきた。
「えっ? 急にどうしたの、きららさん?」
すっかり気が抜けていたアリスは、いきなり繰り出されたきららの質問に戸惑ってしまった。
「つまりですね──本当にあの優希とかいう人が、一連の事件の犯人だったということでいいんですよね?」
きららの声には若干の不安が混ざっていた。
「うん、そういうことだけど。──もしかして、きららさんは何か気になることでもあるの?」
アリスはきららの横顔を窺った。事件は解決したというのに、きららの顔はまだ曇り空のままである。
「気になるというか……ちょっと思うところがあって……」
「思うところというのは、どんなことなの?」
アリスは優しく訊き返した。
「あの……今でもまだ信じられないところがあるんです……」
「信じられない?」
「はい。わたしの友人たちが簡単にあの人の誘いにのったのが、まだ信じられないんです……」
「ああ、そういうことね」
合点がいったという風にアリスは頷いた。
「友人たちがあの人とネットで知り合ったというのはまだ理解出来るんです。でも知り合ったばかりの男の人に、わざわざ夜会いに行ったというのが、どうしても腑に落ちないんです……」
きららの言い分はもっともだった。しかし、アリスはきららの疑問に対しての的確な解答を持っていた。
「でもね、きららさん。彼は本物の吸血鬼なんだよ。そこを忘れないで」
「吸血鬼であることが、何か関係でもあるんですか?」
吸血鬼の素性を知らないきららが当然の質問をしてくる。
「もちろん大有りなのよ」
アリスは吸血鬼についての説明をきららに始めた。
「あのね、きららさん。吸血鬼というのは、高度な催眠術を操ることが出来るの。だから、きららさんの友人たちが簡単に男の誘いにはのらないと警戒していたとしても、例えば、彼と一瞬でも目が合って、そのときに催眠術を掛けられたら、それでもう抵抗出来なくなっちゃうの。しかも、吸血鬼が操る催眠術は凄く強力で、簡単には解けないものなの。それできららさんの友人たちも人気が少ない夜に誘い出されて、彼に襲われたんだと思うけど……。まあ、そのあたりの事情については、この後、あたしたちが彼から直接聞いて確かめてみるけどね」
「そうだったんですか……。吸血鬼って、そんなに怖い力を持っているんですね……」
きららが目を伏せて、何度も小さく首を振った。
「まあ、一般人のきららさんが吸血鬼の生態について知らないのは当然だと思うけどね」
「そういえば、アリスさんはなぜそんなに吸血鬼について詳しいんですか?」
きららが鋭いところを突いてきた。
「えっ、それは……その……」
アリスは返答に詰まってしまった。アリスにとっては、吸血鬼は非常に『身近な存在』なのである。しかし、ここでそのことを説明するわけにはいかない。
「ほら、こういう倶楽部を作ったから、古今東西のいろんな怪物とかについて、事前に勉強しておいたの……。それで吸血鬼についてもたまたま知ってただけのことだから……」
それらしい説明をするアリスの脳裏に、寝惚けた顔が浮かんできた。
「わあー、違う、違う!」
慌ててその顔を頭の外に追い払った。
「あの、アリスさん、どうかしたんですか? 急に大きな声を出したりして?」
「う、う、ううん……。なんでもないの……。ちょっと家で飼っている犬のことを思い出しただけだから……。気にしないで」
この場にいないことを良いことに、さきのことを飼い犬呼ばわりする、部員思いの部長なのであった。
「それよりも、きららさんは友人たちが彼の誘いにのったことが、そんなにも信じられなかったんだね」
アリスは脱線しかけた話を本線に戻した。
「はい。わたしはあの優希という人の顔を今夜初めて見ましたが、たしかに優しそうで格好良かったですよ。だけど、友人二人はそういう子ではないんです……。その、なんて説明したら良いのか……」
きららが分かりやすく言葉尻を濁した。
「あっ、言いにくいことだったら、無理に言う必要はないから。ほら、人それぞれに恋愛事情っていうものがあると思うからね」
まるで恋愛マスターのように語るアリスだが、もちろん、恋愛経験は皆無である。
「お気遣いありがとうございます。でも、そんな変な意味で言ったわけじゃないんです。──えーと、つまりですね。わたしたちが通う千本浜高校って女子高だから、二人も『そっち』のタイプというか……」
「ああ、男の子よりも女の子の方が好きということね!」
アリスはきららが言わんとしていることを理解した。
「ア、ア、アリスさん、そんな大きな声で……」
きららが慌てたようしてアリスの口を押さえようと両手を伸ばしてきた。
「あっ、ごめんごめん。でも、それって別におかしなことじゃないと、あたしは思うけどな」
さらりとアリスは言ってのけた。
「そ、そ、そうですか……? でも、世間ではまだそういうのを白い目で見る人がいるのが現実だし……。もしも、そのことが世間にでも知られたら、きっと二人の友人たちのことを口汚く言う人も出てくると思うし……」
きららが思い悩むのも分からないではなかった。人は自分と違うというだけで、平気で相手を攻撃するのだ。
「あたしはこう思っているよ。──世界にはいろんな価値観があるんだから、恋愛だっていろんな形があってもいいはずでしょ? むしろ、それを否定する方がよっぽどおかしいんじゃないかな?」
嘘偽りのない素直な気持ちをアリスは述べた。アリス自身、『普通の人間とは少し異なる』ので、そのあたりの事情については理解があるつもりだった。だからこそ、常日頃から何事に対しても差別や偏見を持たないようにしている。もっとも、きららが言う通り、世間がどう思うかはまた別の問題ではあるが……。
「つまり、きららさんの友人二人にはそういう事情があったから、きららさんは余計に彼の誘いにのったことについて疑問を感じていたんだね」
「はい、そうなんです。でも、こうしてアリスさんの話を聞けて、わたしもやっと納得出来ました。思い切ってアリスさんに打ち明けてみて良かったです」
きららの表情がやっと曇り空を脱した。
「──そういえばカミラさんとさきだけど、戻ってくるのがやけに遅いわね。缶紅茶を買ってくるだけなのに何しているのかしら? さきが足手まといになっていなければいいけど」
アリスは腕時計で時間を確認した。この後、遅くならないうちに、きららとカミラを家まで送り届けなくてはならないのだ。
「そうですね。たしかに少し遅いように感じますね。あっ、もしかして、あの二人──」
「大丈夫! さきに限ってそんなことは絶対にないから! そこだけは安心してもいいから! もしもさきが不届きをしたら、灰になるまでさきに『日光浴』をさせるから!」
アリスはきららが言い切る前に、光よりも早くすぐさま否定の言葉を発した。
「えっ、アリスさん、どうしたんですか? そんな慌てふためいた様子で──」
「あっ、うん、その、ほら……もしもカミラさんに何かあったらいけないと思って……」
アリスは見え見えの反応を示した。
「それなら大丈夫ですよ。だって、さきさんはそんなことする人には見えませんでしたから」
幸いにして、きららはアリスの態度に勘付くことなく、さらっと言った。これがもしも櫻子だったら、果たしてどんな反応を見せていたか……。
「わたしが言いたかったのは──二人とも何を買うか迷っていて遅くなっているのかなって思ったんです」
「なんだ、そうだったんだ。あたしが『先』走りし過ぎちゃったみたいね。『さき』だけに──」
アリスにまでほのかのくだらないダジャレが伝染してしまったらしい。きららが笑うべきかどうか迷っているといった、なんともいえない微妙な表情を浮かべる。
「──えーと、そうだった。カミラのこともまだ言ってませんでしたよね?」
きららが場の空気を読んで気を遣ったのか、話を切り替えた。
「カミラさんがどうかしたの?」
寒いダジャレの空気を一掃するべく、アリスはすぐにきららの話に乗った。
「実はカミラも恋愛指向はそういうタイプなんですよ。だから、さきさんが例えいきなりカミラに告白したとしても、絶対に断られると思いますよ」
「へえー、そうだったんだ。意外な感じがするかも。カミラさんって、カレシとか振り回していそうなイメージを勝手に想像していたんだけどね」
素直にアリスは驚いた。
「たしかにカミラは見た目は女王様キャラですからね。でも、そういうところが学校でも人気があるんです。今年の四月に交換留学生として千本浜高校に転校してきたんですが、その日のうちに学校イチの人気者になっちゃったんだから」
きららの話を聞いていると、自然と優希の状況と思い重ねてしまった。優希も校内では人気者だったのだ。もっとも、大半の生徒は優希の正体を知らなかったが──。
「とにかく上級生から下級生まで、みんなに好かれているんです」
「そんなに人気があるんじゃ、カミラさんを巡って争奪戦でも起きそうね」
「そうなんですよ。だから、友人二人も内心は焦っていたんですよ」
「えっ? どういうこと? その友人二人って、襲われた被害者のことだよね?」
「はい、そうです。友人二人もカミラのことが大好きだったんですよ」
「そう……だったんだ……」
きららの言葉を聞いた瞬間、なぜか頭の隅に妙な引っ掛かりを感じた。
被害者二人はカミラさんのことが好きだった……。そして、カミラさんの恋愛指向は女性に向けられていた……。これってたまたまだよね……? 偶然の一致ってやつだよね……? だって、そうじゃないとしたら……。
アリスは突然降って湧いたように生まれた一抹の不安を胸に抱いたまま、カミラとさきが戻ってくるのを待ち続けるのだった。




