夜の目撃者
なんなのよ、あいつ? いったい何者なのよ!
鈴原美佐はたった今自分の目で見た光景を疑った。それはありえない光景だったのだ。だが、美佐の精神がいくらそれを否定しても、美佐の脳裏と瞳には、その光景がしっかりと焼き付いていた。
黒い人影に喉元を咬み付かれている少女の姿が!
その光景を見た瞬間、美佐は走り出していた。逃げようとする意思よりも先に、気付いたら両足が動き出していたのだ。あるいは、人間に備わっている原始的な生存本能がそうさせたのかもしれない。
あれは……あたしの見間違いよ……。そう、見間違えただけよ……。
走りながら何度もそう自分に対して言い聞かせた。しかし、さきほど見た光景が鮮明に目蓋の裏に蘇ってきては、その度に言い知れぬ恐怖で体に震えが走り抜けていく。
ひょっとして、『アイツ』が『あの事件』の犯人なの?
美佐は今、沼津市内を騒がしている一連の怪奇な事件──通称『吸血鬼事件』のことを思い出した。
もしも『アイツ』が犯人だとしたら……これって凄くヤバいんじゃない? だってあたし、犯人を見ちゃったんだから! こういうのって、やっぱり警察に言えばいいのかな? でも警察も信じてくれるかな? 犯人は『吸血鬼』なんですって言っても……。
だけど、さっきの『アイツ』は間違いなく『吸血鬼』よ。だって口に牙があるなんて、人間ではありえないし……。それにあの尖った鋭い牙は、動物のものとは明らかに違う感じに見えたし……。
そのとき、頭の中を乱れ飛んでいた思考が、あるひとつの疑問に思い当たった。
あたし、『アイツ』に顔を見られていないよね……?
だ、だ、大丈夫よ……。だって周りは暗かったかし……。すぐに全速力で走って逃げてきたし……。
でも、もしも『アイツ』に顔を見られていたら……?
『顔を見られた以上は、このまま生かしておくわけにはいかない。悪いが死んでもらう。恨むのなら、その好奇心を恨みな』
美佐の脳裏に、サスペンス映画によくある悪役のセリフが思い浮かんだ。
ちょっと、これってマジでヤバい状況かも……。こんなのシャレになんないよ。どうしたらいいの? あたし、『吸血鬼』なんかに絶対に咬まれたくないからねっ!
美佐はひとりでは背負いきれないほどの恐怖と不安を胸に抱えながら、闇の中をただ家へと急ぐしかなかった。