赤い眼
のどかの悲鳴によって、ようやく部室内に平常時の落ち着きが戻った。
「のどか、分かったわよ。ダジャレはもうやめるから、そんなおっかない顔で睨まないで。──え~と、橋塚くんの容態について聞きたかったんでしょ」
ほのかが手にしていたファイルの中から用紙を一枚取り出して、それをのどかの方に差し出した。
「どうやら橋塚くんは軽い貧血を起こして倒れちゃたみたいね」
ほのかは用紙を指差しながら説明した。
「貧血か……。姉さん、それ以外で他に不審な点は何かなかった?」
さっと用紙に目をやったのどかが姉にさっそく質問をした。
「他には……えーと、そうね……そういえば、彼、目を覚ましたときに、おかしなことを言ってたけど」
「おかしなこと?」
「そう。四時間目から昼休みまでの間の記憶が、どうしても思い出せないって言ってたわよ。多分、貧血を起こしたときに、一時的に記憶が曖昧になっただけだと思うけど」
ほのかが養護教諭らしい説明を付け加えた。
「ちょっと待った。その時間っていったら、オレとさきがちょうど屋上であいつを見た時間だぜ!」
コウが興奮気味に声を張り上げた。
「あっ、それから、もうひとつ変なことを言ってたわね」
「えっ、姉さん、どんなことを言ってたの?」
「なんか、『赤い眼』を見たような覚えがあるとか、どうとか言ってたわよ」
ほのかがごく自然体のまま部室内に弾発を投下した。
「『赤い眼』!」
アリスの背筋に寒気が走り抜けた。この世に赤い眼をした人間などいない。カラコンでも入れていなければ、赤い眼をしている者はおのずと限られてくる。
すなわち──それは人間以外の異形の存在を指し示していることになる。
アリスは『身を持って』その事実を知っている。だからこそ、ほのかが語った『赤い眼』という単語に激しく動揺を覚えたのである。
「うーん、『赤い眼』ってことは、橋塚くんはウサギさんの夢でも見てたのかしら? 男子生徒にしては随分とメルヘンチックな夢よね。でも、うちの学校ではウサギは飼っていないはずだし……うーん、謎の言葉ね……」
ほのかの可愛らしい感想については、むろん、誰も聞いていなかった──。さき以外は……。
「ねえ、『赤い眼』ってどういうことなの? なんでここでいきなり『赤い眼』が出てくるのよ?」
まだ頭の中で情報が整理が出来ていない様子の櫻子が、誰にと言うわけでもなく疑問を呈した。
「おそらく、俊実くんと優希くんの間で何かがあったのは間違いないわね。それで困った優希くんが『赤い眼』を使って、俊実くんに催眠術を掛けて、彼の記憶を消すことにしたんだわ。催眠術を操るだけの腕があれば、記憶の操作なんてお手の物だからね」
腕組みをして難しい顔をしたのどかが的確な推理を披露した。
「つまり、オレとさきはまさにその現場を見たということか」
「この場合、そう考えるのが妥当でしょうね」
「でも、そうすると優希くんの正体っていったい……。普通の人間がそれほど高度な催眠術を使いこなせるとは思えないし……。『赤い眼』のことも含めて考えると、まさか優希くんが吸血──」
アリスは自分の口から出てくるつぶやきを止めることが出来ずにいた。
「ちょっと待って、アリス。実際に優希くんが催眠術を使って俊実くんの記憶をいじったのだとしても、まだ結論を出すのは時期尚早だわ。私たちが解明しなくてはいけないのは、優希くんの正体ではなくて、一連の吸血鬼事件の犯人のはずでしょ?」
のどかが先走るアリスを制した。
「それはそうだけど……」
「今は吸血鬼事件の方をしっかりと調べることが先決よ。仮にアリスの想像通り優希くんが催眠術を操る吸血鬼で、今回の事件に何らかの形で関わっているのだとすれば、事件を調べていく過程で必ず優希くんの存在が浮かび上がってくるはずだから。優希くんのことはそのときに考えても遅くはないと思うわ」
「のどかの言う通りだな。早急な決め付けは、かえって間違った方に目を向けることになりかねないからな」
京也がのどかの意見の支持に回った。
「仮に優希という生徒が本当に犯人だとしたら、正体を隠すことなく正々堂々と学校に転校してくるぐらい肝の据わったやつなんだぜ。そう簡単に尻尾を出すとは思えないぜ。それよりも吸血鬼事件の外堀を埋めていくほうが、案外、事件解決への近道になるかもしれないとおれは睨んでいるんだけどな」
「──うーん、二人の意見はもっともなんだけど……」
アリスの頭の中ではそれでもまだ優希の存在が離れなかった。
「まあ、アリス、ここは急がば回れで行くしかないんじゃないか」
行動派のコウまでもがのどかの支持に回った。
「──みんな、分かったわ。そこまで言うのならば、優希くんの正体については今は考えないことにするから。──でも、結局これでまた事件の調査は振り出しに戻ったっていうことでしょ? これから何をどう調べていけばいいのか、もう一度考え直さないとね……」
アリスは力なくつぶやいた。初めての調査案件なので気合を入れて張り切ってはいるのだが、如何せん、どうもここまではその気合が空回りしている感じだった。依頼人の鈴原美佐を助けられなかったことも心に残っていた。だからこそ、いち早くこの吸血事件を解決に導きたいという強い思いがあったのだ。
だが、京也の言う通り、急いては事を仕損じると考え直した。
「アリス、そう落ち込まないで。私にひとつだけ案があるんだけど──」
のどかの言葉を聞いて、アリスは俯けていた顔をがばっと上げた。こういうとき一番の頼りになるのが、倶楽部の頭脳を務めるのどかなのだ。
「のどか、何か名案でも浮かんだの?」
「犯人と被害者との接点について調べるのはどうかなって思ったの」
「犯人と被害者との接点……? それってどういうこと?」
「今まで襲われた被害者がどこの学校に通っていたかは覚えている?」
「たしか被害者は二人とも千本浜高校の生徒だったと思うけど」
京也がすかさず答えた。
「その通りよ。そのことで何か違和感はないかしら?」
のどかが五人の部員の顔を順番に見回した。約一名、眠そうな顔でダジャレを考えている不届き者がいたが、のどかはきれいに無視した。
「なるほど、そういうことか!」
再び京也が声を上げた。
「千本浜高校は女子高だ!」
「なんだよ。そんなの沼津に住んでいる高校生ならば、誰でも知っていることだろう。沼津市で一番可愛い子が揃っていることでも有名だからな」
コウが途端にニヤニヤとだらのしない笑みを浮かべた。
「へえー、あんたはそんなくだらないことまで知っているんだ」
櫻子がゾクリとするような氷の声を出した。
「あっ、いや、知っているというか、友達に聞いただけで、本当のところは全然知らないというか、つまり、その……痛っ!」
コウが思い切り顔を歪めた。どうやら長机の下で激しい男女のやり取りが交わされたらしい。
「ごめんね、京也。話を続けてくれる」
そ知らぬ顔で櫻子がさらっと話を促す。
「ああ、分かった」
やれやれという風な苦笑を浮かべつつ、京也が話を再開した。
「つまり、のどかが言いたいのはこういうことだろう。──被害者は二人とも女子高の生徒である。ということは、犯人はいったいどうやって被害者に近付いたのか? そこが問題になってくるわけだ」
「その言う通りよ。事件の舞台が女子高ならば、犯人の姿はかなり目立つはずでしょ? 逆紅一点なんだからね。しかも仮に優希が犯人だとしたら、あれだけの美貌なんだから、必ず誰かが目撃しているなり、何らかの噂話でも聞いてていいはずでしょ?」
のどかが補足説明をした。
「それは言えるわね。あのルックスならば、一度見たら絶対に忘れることはないだろうからね」
櫻子がのどかの説明に大きく頷いた。
「でも警察だってそのあたりの事情については、とっくに調べているんじゃないの? コウ、そのあたりの警察の捜査状況はどうなの?」
アリスはコウに解答を求めた。
「オヤジからの話だと、今のところ怪しい男の影は浮かんできていないらしいぜ。もちろん、優希らしき男の話も聞いてないしな」
コウはなぜか痛そうに右足の脛をさすりながら答えた。
「ほら、やっぱり──」
「大丈夫よ。どうせそんなことだろうと思っていたからね」
アリスの言葉の途中で、のどかが言葉を挟み込んできた。
「えっ、じゃあ、どうするの?」
「私たちは警察では調べきれないところを調べればいいのよ」
のどかは何やら自信ありげに言うのだった。