夜の待ち合わせ
季節は春。場所は沼津市の千本浜海岸。かの詩人、若山牧水も愛した風光明媚な観光名所である。時刻は午後八時過ぎ。空からは蒼い月光のスポットライトが、海岸に降り注いでいる。BGMは砂浜に打ち寄せる潮騒。そして──防波堤に立ち、愛しい人の到着を今や遅しと待ちわびるヒロインがひとり。
今のあたしって、めっちゃロマンティックモードまっしぐらだよね! あたしのためだけに用意された、特別な空間と瞬間だよ!
大谷佳奈はひとり悦にいった表情を浮かべて、まるでロマンス映画のワンシーンのような現在の状況を楽しんでいた。約束の時間はだいぶ過ぎているが、そんなことで佳奈の燃え上がるような気持ちが冷めることはなかった。これも惚れた者の弱みであろうか。
早く来ないかな、あたしの愛しいあの人。あたしはさっきからずっとここにいますよ。ここであなたが来るのを待っていますよ。
佳奈は頭上に輝く月を見ながら、心の中でつぶやいた。
そのとき、不意に今まで海岸を明るく照らし出していた月光が翳った。夜空に輝く満月が、まるで暗闇に追い立てられるようにしてまたたくまに雲間に消えていく。光がその支配地域を闇へとゆずった。
「えっ……」
小さな声が佳奈の口をついて出た。
同時に、海岸を一陣の冷たい風がさっと駆け抜けていった。
「ひゃっ!」
佳奈の背筋に、風とは違う何か冷たい感覚が走った。先ほどの幸福色から一転、月の光のように蒼白く染まった佳奈の顔。
た、た、ただの風じゃん……。な、な、なにをビクついているのよ……。もうすぐ、あの人が来るんだから……。
自分自身に向けた心の声も、消え入りそうなほどか細かった。
ど、ど、どうってことないわよ……。そ、そ、そうよ……暗い方が、逆に雰囲気があっていいし……。これで、あの人さえ来てくれたら……もう怖くなんか……ないから……。
強がる気持ちも、だが闇の中ではまったく役にたたなかった。言葉とは裏腹に、元気を無くした朝顔のように気持ちは萎んでいく。視線は俯き加減になり、所在無く地面を見つめるだけだ。
この場所から今すぐにでも離れて街灯のある明るい場所まで走ろうか、そんな風に佳奈が思っていると──。
「ゴメンね。待たせちゃったかな?」
静謐な声が佳奈の少し背後であがった。
やっと来てくれた! あの人だ!
佳奈は勢い良く振り返り、声の主を見つめた。間違いない。暗くて顔の表情はよく見えないが、あの人だった。いくら周囲が暗いといっても、愛しい人を見間違えるはずがない。
暗闇の恐怖の呪縛から解き放たれた佳奈は、あの人のもとに急いで駆け寄ろうとして──。
違うっ!
突然、そう思った。それは直感といってもよかった。だから、前に進む足がぴたりと止まってしまった。
「──どうしたの?」
あの人が訊いてきた。なぜか、どこか面白がっているような口調に聞こえた。
「…………」
愛しい人からの問い掛けに、しかし佳奈は返答することなく、そればかりか我知らず後ずさりをしていた。
ち、ち、違う……。ど、ど、どこか、おかしい……。あの人だけど……でも、絶対にあの人じゃない……。何かが……絶対に違う……。
二人の間に数瞬の沈黙が流れ、そして再び月が雲間からその姿を現わした。
月光があの人の全身を照らし出す。いつもと同じ、だが明らかにどこか異なるあの人の姿を──。
「──どうしたの?」
再度問うあの人の声に、今度こそ佳奈ははっきりと返事をした。絶叫という形で。
「きゃああああああああああああーーーーーーーっ!」
目の前に現実ではありえない光景が姿を見せ、でもそこに現実的な恐怖を感じて、佳奈は心の底から悲鳴を発したのだ。
佳奈が目にしたもの──それは月光を鈍く反射させた牙であった。鋭く尖った二本の牙が、あろうことか、あの人の口元から伸びていたのだ!
佳奈の悲鳴が夜の静寂を切り裂いて、千本浜海岸に響き渡っていった。