眩き恋の交差橋で
MBSラジオ短編賞向けに書き直しと、新規に書いた物語です。
わたし風野杏は、長い事出版卸の事務に携わって来た。きっかけは大学の時に付き合っていた彼氏に誘われたバイトがここだったから。彼氏とは途中で別れたけれど、中に書かれていることが読めなくても、表紙のカバーに触れるだけで良かったくらいに本が好きだった。そうして、在学中のアルバイトはずっと卸作業を繰り返していたら、小さな老舗の会社だけど社員として働かないかと声をかけられた。
アルバイトが高じて、就活をすることなく内定というより就職が決まったわたし。働き始めてからの年数はハッキリと覚えていないけれど、この仕事に懸ける想いは社員の中でも強かったと自負できる。けれど、もう何もかもが疲れた。出版社のように原稿を書くでもなく、校正をするでもなくすでに書物として刷られた姿を毎日のように扱うだけの日々を延々と繰り返す毎日にほとほと嫌気がさしていた。
事務はもちろんのこと、黙って机のPC画面とにらめっこをする日々を送り続けるかと思えば、営業もするし書庫の荷上げ荷降ろし作業もする。学生バイトたちの手も借りながら大事な書を扱う毎日。仕事は嫌いではないけれど、思えば始めたきっかけが彼氏の誘いから始まっただけに、もう一度この仕事で好きな人と出会って付き合えたら、どんなにやる気が出せるのかなんてことを思い始めていた。
それというのも、本当に小さな老舗の会社で若者と呼ばれるのは学生バイトだけ。二十代だけど、もうすぐでアラサーに突入しかかっているわたしをときめかせてくれる人なんて、会社には存在していなかった。
「風野さーん、コレってどこの棚でしたっけ?」
「それ、3階の階段のとこ」
「はーい、了解です」
ウチの会社は老舗ならではとも言うべき作り。周りのビル群に囲まれた中の一角に、昔から佇んでいる5階建てのビルだ。出版社の大元はまさに、目の前にそびえ立っている。そこだけの書を扱っているわけじゃ無いけれど、ほとんどを扱っていた。
「風野さん、ここの社長って講宝社辞めて、会社立ち上げたんですよね?」
「そう聞いてるよ。それがどうかしたの?」
「いえ、社長には文句言えませんけど、そこにいた定年退職者まで連れて来るのはどうなのかな、と」
「あー、自慢話のこと? 言わせとけばいいよ。それが楽しみなんだと思うし」
かつては大元の出版社で編集長やら管理長やらと、長がつく人たちがこぞって移って来た。そこでの仕事は出来なくなっても、参考書などの書物を運んだり縛ったりするだけなら出来るというわけだ。
バイトの子たちには、相当な自慢と高圧な態度で接していると聞いていた。本当に偉い人はそんなことをしないものだけど、そこそこ偉かった彼らは、現場で仕事をする場所で偉そうに振る舞いたいのだろう。
上からは愚痴を聞かされ、バイトの子たちからは苦情を言われる毎日。これの繰り返しだった。小さな会社の中にあって、好きな人がいるかといえばいるわけもなく、それどころじゃない日々を過ごしていた。
刷られたばかりの書物を書店に運ぶかと思えば、大量に返品されてきた在庫の山も管理しなければならない日々。仕事って何だろう、そう思うようになっていた。
「風野さんって、独身ですか?」
27歳独身のわたし。大卒からそのまま就職してかれこれ5年以上はこの仕事をしている。恋人もいないし、好きな人もいない。下手をすると彼氏と別れてから、一度も恋をしていないんじゃないのだろうか。
「そうだけど?」
「お付き合いとかしたくないんですか?」
「いればしたいけどね。まぁその前に恋をしたいし、しないと始まらないでしょ」
「あ、そうですよねー。頑張ってくださいね!」
何だろう、この喪失感。学生のバイトの子に慰められてるわたしって何? そんなことを思いながらも、いつものように終電近くまで残業をしていた。強制じゃないけれど残業をする、しなくては次の日に仕事を残すことになってしまう。きっちりと終わらせる。それがわたしの唯一の誇り。そうすると、帰り道と朝の通勤時の通り道は時間がほぼ同じで通る道も変わり映えが無くて、行き交う通勤者や学生くらいにしか出会わないのも事実。
好きも何も恋ですらも出会わない。これはきっとわたしだけの悩みじゃないはず。その思いからか、せめてもの抵抗を思い付いて、普段とは違う道を通ってコンビニにも寄り道して、いつもの光景から逃れようという努力をするようになった。わたしの家と会社に行くまでの道には色んなルートが存在している。中でも遠回りになってしまうことを理由に避けて来たルートが交差橋。交差橋は、私鉄の橋上に民鉄が走り、さらにその上の橋を自分たちが歩く、交差の場所。
わたしは普段からここを通らなかった。何故なら必然的に遠くなるから。それに何気に人通りが激しいことの理由として、鉄道ファンの人がよく訪れるスポットでもあった。それもあってか、何年も歩いて来ているのに、ここは滅多に通ることが無かった。
それが本当にたまたま、気分を変えての翌日に通っただけのことだった。朝の日射しを、ビル群の隙間から浴び続けながら、自分の手で日射しを避けながら目を細めていた時だった。
とにかく朝の光は残業明けには辛いものでしかなくて、でも朝の光だけが原因じゃなかった。向こう側から歩いて来た男性から何故か、光のようなものが発せられていた。あの光は何だったのだろうか。首の下辺りから光ってたから、恐らくはネックレスの類だとは思う。
驚いたのは光だけじゃなかった。思わず眩しすぎて、体を大きく仰け反るといったリアクション芸人並の動きを披露してしまったわたしに、どこの誰か分からない男性にクスっと笑われてしまったこと。
「わわっ!?」
今考えると、朝からはしゃぎすぎ。そう思われても仕方がないくらいにリアクションを取ってしまった。そんなに眩しいわけがないはずなのに。きっと朝陽と男性が身に着けていた何かのアクセサリーか何かが重なって輝きを増していたに違いないんだ。
とてもじゃないけれど、会社の誰かにこんなことを言えるはずもなくて。それでも遠いと分かっていても、いつもより早く家を出て交差橋を通るようになっていた。そこを謎多き男性がまた通るとは限らないのに、何か期待したかのように通るようになっていた。
わたしは毎朝のようにそこを通るようになった。その度に朝陽に重なって、薄紅色の光がわたしの視界を遮っていた。さすがに見知らぬ通りすがりの男性に聞くわけには行かない。でもあの光はわたしを魅了し続けているのは確かだった。
「風野さん、最近早いですよね! さすが社員さんは気合いが違う」
「関係ないでしょう。あ、えっと、ちょっと聞きたいんですけど、誰か薄紅色の光に詳しい子はいます?」
「え? あ、棚掃除してる子がアクセサリー好きなので知っているかもしれないですね。呼んできますよ」
その光は何なのかなんて知った所でどうなるわけでもないけれど、それでもやっぱり気になっていた。
「薄紅色の光ですか? それって、どこから光ってるんです?」
「えと、首の下。だからアクセサリーの何かだと思う」
「宝石ですね。ローズクォーツってやつです。ピンク色のやつですよ。希少ですけど、着けてる人いるんですね」
「宝石? もう一つ聞きたいんですけど、この近くに宝石店とかってありましたっけ?」
手がかりは得られた。でもそれだけではそこにたどり着けないってことくらいは分かってしまう。交差橋ですれ違うだけの関係じゃ、決して恋にはならないのだから。
「あそこじゃないですか? ほら、交差橋過ぎた辺りにありますよ。目立たないけど」
そういえばそんな小さな店があったような気がした。自分の会社も小さいけれど、あの宝石店も決して大きくは無かった。
「そっか、ありがとうね」
「あ、いえ~」
もしかしたらそこにいて、お高い宝石を売っている男性なのかもしれない。宝石なんか買えないし、彼氏もいないのに、わたし一人で入る様な店じゃないかもしれない。けれど、何となくそこにいそうな予感がしていた。単に眩しいだけで気になったわけじゃないけれど、だけどリアクションをした見知らぬ男性が、クスっと笑ってくれた。ただそれだけの想いなのだから。
わたしは見ず知らずの人をストーカーするつもりはない。だから堂々とお店に入って宝石を眺めに行くことにした。そこにいる人かどうかも確かめるために。
色んな意味でドキドキしながら宝石店に入った。とてもじゃないけれど、ガラスケースの中を見るような高貴な身分では無いと私自身が認めている。わたしの動きを怪しく思ったのか、店員らしき人から声がかかった。
「何か、お探しでございますか?」
「あ、あの……こちらに、ローズクォーツは?」
「申し訳ございません。取り扱っておりません。なにぶん、希少な物ですので……ですが、所属のデザイナーが身に着けておりますので、彼のモノでよろしければ拝見なさいますか?」
「お、お願いします!」
「かしこまりました。奥におりますので、お呼びいたします」
まさかの大当たり。な、何を話せばいいのかな。ううん、勘違いするなわたし。宝石を眺めに来ただけなんだ。決してプライベートな話が出来ると思うな。
「お待たせいたしました。お客様、わたくしはジュエリーデザイナーをしております、氷上珠樹と申します。こちらのローズクォーツですが……」
「ひ、氷上様ですね。ま、眩しいですね」
ちょっと、何言っちゃってるのわたし。絶対怪しい人なんですけど? これはもしかしなくても追い出されてしまうくらいにおかしい発言。
「あっ、もしかしてこの前にお見かけした時にいらっしゃった、朝の芸人さんですか?」
「え? ち、ちちち……違います! わたし、あ、いえ、普通に会社員なんです。すみません、勘違いさせて……」
「そうなんですね。そんなに眩しかったのですか?」
「はい、それはもう。氷上様のその胸元におつけしているそのローズクォーツと朝陽が……あっ」
「いやっ、ははっ! ありがとうございます」
ああ、この似つかわしくないお店に来たわたしなんかのために、目の前の彼、氷上さんは無邪気な子供らしい表情を、顔一面に溢れさせてくれている。そんなのを見せられたら、思わず好きになってしまいそうになる。
「あのあの、すみません。わたしには……じゃなくて、自分には手が出せない代物だと思います。でも、その眩しくも魅力ある宝石に出会えてすごく嬉しいです。お見せいただきまして本当に、ありがとうございます! で、では、失礼致します!」
「いいえ、こちらこそ。あ、お客様のお名前……」
「あ、わたくしこういう者でして……で、では、これで」
カタカタと手を震わせながら、まるでジャンルの違う職種の名刺を渡してしまうなんて想像も予想も出来なくて。でもせめてもの思い出は出来た、そして出会えたような気がした。
宝石店だなんてどう考えても、わたしには似つかわしくない場所だ。一度くらいはなんて思いながら行っただけに、名刺を頂いたのは幸運なことではあったけれど、だからといってそこから恋がトントン拍子に始まるかというとそうとは限らないのが現実。
まずは出会えたことに感謝しながら、仕事も自分磨きも頑張らないといけない。そしてこの日を境に、笑顔も見せずにしていた事務の仕事も、笑顔を見せるようにして取り組むようになった。少しの変化は、普段から変わり映えの無い人をも動かすということなのだろうか。笑顔を見せるようになってから二カ月くらい経った頃、意外な方の意外な声かけがわたしの恋をスタートさせた。
「風野さん。区切りがついたらで構わないけど、社長の所に顔を出してくれないかな?」
「え? あ、分かりました。丁度、今さっきつきましたので今から向かいます」
「うん、よろしく」
何の話だろうなんて、不安も期待も持たずに社長の部屋に入ると、彼の笑顔がわたしを迎えてくれていた。表情を見る限りでは、悪い話では無さそうだった。老舗の出版卸で長く社長を務めているこの人は、滅多に社員の前に姿を現わさない。全体数の少ない会社の中にあって、月曜日の朝礼だけ顔を合わせる程度の方だった。それがどうして急にわたしを呼びだすのだろうか。
「そこに座ってくれるかな」
「はい、失礼します」
「最近何かいいことあったかな? あなたにはいつも真面目に取り組んで頂いているけど、口数も少なくて他の人とも積極的に話をすることは無かったよね。それがここの所、あなたの笑顔で仕事もはかどりやすくなっていると聞いているし、人当たりも良くなったと聞いている。何か心に変化があったのかなと気になってね」
「い、いえ。ですけど、今まで変えようとしなかった自分を変えたいなって思うようになったんです。変えなければ、中々変わって行かないのも日常だと思いまして、ですから他の方が気付かれたのは、わたくしの些細な変化をポジティブに見て頂いている結果だと思われます」
社長に呼ばれたのはわたしの変わり様の理由を知りたいという、何の不思議なことでもない気に掛けに寄るものだった。意外な事が起きたのは、この話を終えた後に切り出された相談事だった。
社長によると、近々同窓の会に出席するらしく、着ていく服は何とかなったものの、どうにかして目立ちたいということを悩んでいるのだという。男性が何十年ぶりに参加する昔馴染みの場へ行くのに、目立つことをしたいというのは意外だった。少なくとも、年配の男性はわたしのイメージでは、控え目で当たり障りのない言動をするものだとばかり思っていた。だけれど、わたしのことを長く見て来た社長がまさか、わたしの些細な変化に自分を奮い立たせていたなんて、喜んでいいことなのか戸惑ってしまった。
「そこで、女性の風野さんならどこかそうした関係に知り合いでもいないのかなと聞いてみたんだよ。どうかな? 何か目立てそうな装飾店の知り合いはいないかな?」
わたしのいる会社には、わたし以外に女性の社員がいない。いるのは学生アルバイトの女性だけ。それだけに、社長が頼りに出来るのはわたししかいない事情があっての相談だったに違いなかった。
正直言えば、確かにわたしは女性だけれど、そもそも派手なアクセサリーを着けるでもなく事務の仕事をしている限りは、ナチュラルメイクしかしていないのが実状だったりする。そんなわたしにそんな知り合いなんているはずも無い。そう思っていたけれど、名刺のことを思い出して思わず声を発してしまった。
「――あ」
「うん? 心当たりがありそうかな? もし名刺か何かあれば私に見せてくれないかな」
交差橋で出会った宝石店の男性、氷上さんの名刺がこの時の為に使うことになるとは思いもよらなかった。実のところ、名刺は頂いたもののそこからお店に行くことも無く、連絡先を知ることも無かった。名刺に書かれていた連絡先はお店のものであったし、手が出せない宝石店に電話をする理由がわたしには無かった。それがまさか、社長の私用の為に連絡をすることになるだなんて予想も出来なかった。
「ほう、この近くの宝石店だね。それでは、風野さんに頼んでいいかな? 好みなどは問わない。そもそも、着けたことも無いからね。先方には、私の年代と立場などを伝えるだけで構わない。予算も問わない。さすがに、数百万とかは勘弁してもらいたいがね。どうだろう、連絡を取って事を進めてくれないかな」
「わ、分かりました。わたくしが頂いた名刺も、この時の為だったかもしれません。連絡を取ってみます。そして、装飾を作って頂けるようにお話を通します。それでよろしいでしょうか?」
「うむ、よろしく」
本当に人生って何から変わるか分からないものだなあ、なんてしみじみ思ってしまう。長く務めて来た仕事と変わり映えの無かった平凡な日常。その均衡が崩れたのは、遠回りではあるけれど通ることの無かった交差橋を歩いたことから始まった。残業明けの日射しの眩しい道で、女性らしからぬリアクションを取ってしまったことから何かが動き出した。これはきっと、わたし自身が自分を変えようとした時から動き出した、恋のチャンスなのかもしれない。
社長の声かけで機会を得られたわたしは、残業の無かったこの日に連絡をしてみた。電話口に出たのは、幸運なことに、氷上さんだった。すぐに詳細を伝えると近いうちにお店に寄って下さいと言われたので、すぐに承諾をした。一枚の名刺がこんなことを起こさせるなんて、本当に分からないことだった。
「お待ちしていました。それでは、具体的なお話をお伺い致しますので奥の部屋へどうぞ」
奥の部屋に通されたわたし。別にこれは不思議なことでも無くて、所謂商談相手としての対応だと思うし、この先もお得意様になる可能性もあることへの期待だと思う。ここにさすがに、わたし一人だけの思惑だったり、想いだったりは氷上さんだって思ってもいないことだろう。
「なるほど、同窓の会に出席されることで身に着けたいのですね。分かりました。それでしたら、店頭の物では無く、オーダー扱いで作らせて頂きたいのですがご確認頂いてもよろしいですか?」
「あ、はい。えと、予算が限られていますのでその範囲内であれば、特に形態については問わないとの承諾を得ています。もし氷上さまのオーダーメイドが、その限りで納まるのでしたらそれで進めて頂いて構いません」
「承知いたしました。それでは、範囲内で進めさせていただきます。この度は、当店をご指定頂きまして誠にありがとうございます。名刺を渡して以降にご連絡を頂くことが無かったものですから、心配をしておりました」
「えっ?」
名刺を頂いたからといって高価な宝石店の方に連絡をするとか、それはわたしにはハードルが高すぎた。だから一度も連絡することも無く、今まで淡々と月日が流れて行ってしまったのだけれど。恐らく、氷上さんのこの発言もそうした意味で言ったに違いなくて、疑問符を浮かべつつもその後に言葉を繋げることが出来なかった。
「あの道は最近、通っていないのですか?」
「あ、交差橋のところですよね。そ、そうですね、通ってはいるのですが、時間は固定でもないので……」
「そうなんですね。いえ、私ももちろん、いつも通っているわけではないのですが、朝の出勤時にまたお見かけ出来たらいいなと思っていたものですから」
それはもしかしなくても、リアクションを取ってしまったわたしのことが気になっていたということなのだろうか。少なくとも彼の言葉と表情を見る限りでは、照れるだとか何かの好意を示していないのが見て取れた。これは恋とかじゃなくて、交差橋で時々出会える知り合いがいたらいいな。そんな程度の意味だと感じた。これを恋に当てはめるのはおこがましいし、無理やりすぎる。
「あの、えと……」
上手く言えないもどかしさが自分の中にあった。せっかくの機会なのに、自分できっかけすら作れないなんて、しっかりして欲しい。
「風野さんは、変わられましたか?」
「と言いますと?」
「数か月前の朝にお見かけした時よりも、今の方が素敵な感じになられたものですから」
「そんなことは。でもそれはきっと……」
クスっと微笑む氷上さんにそれ以上何も言えなかった。密かに想っていることを伝えるなんて、そんなことが出来るはずもなくて、この場は結局装飾のことについての相談と、朝の出来事を懐かしむように話しただけで終わった。
相手が独身者とも限らない上に、そういったことも聞き出せるわけも無く、社長の依頼事の為に何度か連絡を取って、話をしたくらいだった。何かが難しい。相手を想うのは簡単なのだけれど、その想いを伝えるのがこんなにも難しいことだなんて思わなかった。
それでも、自分磨きを止めて良い理由にはならない。ほんの少しの変化にも気付いてくれたことは、無駄では無かったんだと思えたから。社長にお願いされた装飾品は、氷上さんのオーダーメイド。これにはさすがに日数を要した。けれども、差し迫る予定の日時には当然だけど間に合って、その時の立ち会いには社長も宝石店に足を運んだ。仕事のある日では無く、休日を利用しての付き添いだった。
「うん、思った以上に綺麗な色を使用しているものだね。これであれば、目立つことが出来そうだ」
「恐れ入ります」
「ところで、あなたはお独りかな? いや、突然失礼を申してすまない。その繊細さと細かさであれば、世の女性がほうって置かないだろうと思っただけでして。申し訳ない」
「いえ、そんなことはございません。確かに光り輝く宝石を扱っていると、見た目の印象と細かさでそう思われがちなのでございますが、私の様に石から削って装飾を作り出すデザイナーは、没頭する時間と期間が圧倒的に長いものですから、中々そうした出会いと機会には恵まれておりません」
「そうでしたか。失礼致しました。では、私は先に失礼致します。今回のことを機会として、今後もお世話になるかもしれませんので、ここにいる風野をよろしくお願いします」
黙って立っていたわたしには何のことか分からなかったけれど、社長の言葉にはわたしのことが含まれたいた。だから失礼と思いながらも、あんな関係の無いことまで聞いたのだろうか。年配の社長の方が口も達者ではあるけれど、そんなことまで聞くだなんて思ってなかった。
「こちらこそ、お気遣いいただきありがとうございます。今後とも何かの機会にはご注文をいただければ幸いです。ありがとうございました」
「じゃあ、風野くん。私は社に戻るけど、あなたはここでゆっくりしていて構わないよ」
「は、はい」
まさかの展開。社長には恋とだとか、そういう関係のある話なんて一言もしたことがないのに、どうしていきなりあんなことを言い出されてしまったのだろうか。わたしの個人的な頑張りが、そんな感じに見られてしまったとでもいうのかな。そんな個人的なことまでを開示してはいないけれど、学生アルバイトたちとの会話とかがどこからか洩れて、耳に入っていたのかもしれない。もしくは、気まぐれでお世話的な何かをわたしにしてくれたということとも取れる。何にしても、その機会を与えてくれたのには感謝しないと。
「あの」
「風野さんは、今日は仕事お休みなのですね。それなのに来て頂いて申し訳ありません」
「いえ、こういうことって滅多にあるものじゃないですし、嫌でもないですから大丈夫です」
「それは良かったです」
目の前にいる彼、氷上さんは気のせいか、嬉しそうにしている。社長のオーダーはすでに終えていて、わたしがここに通う理由も無くなってしまったというのに。平日に来た時に感じていたことだけれど、宝石店を訪れるお客さんはあまり多くは無いのかなというのが正直な所だった。その辺りを聞いて失礼にならないのかな。もう来る理由も無ければ、機会も得られそうにないので気になることを全部聞いてみることにした。
「氷上さん。失礼を承知でお聞きしたいのですけれど、普段は来店されるお客さんってあまりいないのですか? わたしのように、こうして直接会って話をされる方はいるものなのでしょうか?」
「いえいえ、おりますよ。ですが、どちらかというと今回の風野さんのように、企業の個人様からのオーダーが多いですね。知っての通り、ショーケースに飾られている商品はそのどれもが、高額なものですからその辺のコンビニのように、気軽に訪れるものでもないのですよ。もしかして、その辺りを気にされて来てくれなかったのですか? 私は普段は奥で作業をしていることの方が多いですし、風野さんが来店していたとしても、気付かないことの方が多いかもしれないですね」
「そ、そうなのですね。か、買わなくても来ていいものなのですか?」
「もちろんです。石……いえ、宝石というものは、見られてこその価値があるものです。見られなければそれはただの石です。お店に来られた方が必ずしも、購入されるわけでもありませんし眺められて、そのままお帰りになる方もいますので、どうぞ風野さんも気軽に来て頂ければ嬉しいですね」
「う、嬉しいですか?」
「はい。そしてもし来られたら、私を呼んで頂ければすぐにでも駆けつけます」
「それはどうして――」
社交辞令なのだろうと思いながら、氷上さんの話を黙って聞き流していた。流してはいけないけれど、過度に期待なんてしては失礼になるはずだから。
普段から輝きのある宝石に携わってる方の言葉を真面目に受け止めていたら、本気に想ってしまいそうになるし、恋が芽生えてしまいそうになるから、それはさすがに釣り合わない気がする。
「石が自分と風野さんを導いてくれたような、そんな予感がしてならないのです。ご存じかは分かりませんが、石にも花のように言葉が込められています。私があの時に身に着けていたローズクォーツには、そうした意味が含まれていたからなのだと今は思えます」
石言葉ということなのかな。密かに調べていたけれど、男性が恋を意味する石を着けていたのはそういう意図があったのかなとは勝手に思っていた。でも、氷上さんは仕事が宝石デザイナーだったからそれに関しては違うのかなとも感じていた。それがまさか、今になってそのことの意味を打ち明けられるだなんて、それって期待の言葉として聞いていいのかな。
「自分を好きになった上で、人に好きになってもらいたい。でしたよね?」
「はい、ですから私……僕は、自分の恋を高めてから、お声がけをしようと思っていました。その意味とは別に、風野さんも交差橋で出会われてから輝きを高められたように思えました。きっとそれは、自分だけが感じて思っていたことではなかったんだなと、勝手に嬉しくなってしまいました」
「え、あ……そ、それで合っています。えと、またお会いしてもいい……のですか?」
「お待ちしています。少しずつ、お互いに進んでいきたいのが、僕の望みです」
「繊細なのですね。あの、よ、よろしくお願いします」
「こちらこそ。じゃ、じゃあ、こっちの名刺を風野さんに」
二枚目の名刺って何だろう。そう思っていたけれど、その意味は全く違っていてそこには彼個人の連絡先が書かれていた。こうして直に会っているのに、言葉では無く名刺という形で伝えて来るだなんて本当に繊細な人だった。
名刺を頂いて、そのままお店の中に居続けることも無く素直にお店を後にした。休日の交差橋は、行き交う人もまばらで、特に何の変化も見られない風景ではあったけれど、もう一度彼から貰った名刺を見てみると、裏側の白地に小さな文字でメッセージが書かれていた。
「交差橋で出会った時からずっと――」最後の方は薄くて見えなかったけれど、わたしと想いが一緒だったのかな。そうならいいな。恋の芽生えときっかけはどこから始まるのか、それは分からなかったこと。
きっかけはリアクションだったけれど、そしてこんな機会は無いかもしれないけど、わたしは久しぶりに恋をした。あの眩しくて魅力ある宝石と彼の様に、わたしももっと輝きを増していこう。その恋を掴むために。
了