あたしたち、親友なんてもんじゃないよね?
梅雨前線は過ぎ去り、本格的に夏の暑さがやってこようとしていた。私はSという親友を筆頭に数人の友達に囲まれ、それなりの中学生活を楽しんでいた。明るく元気な子を絵に描いたようなSは、時々思いもよらない行動をすることはあれど、引っ込み思案な私にとってありがたい存在だった。都会ではなかったが地区に団地が多い事もあり、クラスメイトは少なくなかった。平凡だけど、心安らぐ日々だった。
夏休みに入る数日前のことだ。私は部活が終わった後、一人教室に残って問題集とにらめっこしていた。この学校では夏休み1週間前にすべての宿題が配られる。学校で勉強する習慣がある今の内に少しでも片づけてしまえば楽だと思ったのだ。8月の終わりにはSたちと海に行く計画を立てている。その時になって宿題に心を支配されるのは嫌だった。
数字と向き合い、空欄を埋め、牛歩ではあるもののページがちょっとずつ埋まっていく。元々勉強は嫌いじゃない。教室には紙とシャーペンがこすれる音だけが響き、気分の乗ってきた私にはそれも心地よかった。早く終わらせてしまおう。そうしたら夏休みがもっと楽しくなる。脳内で流れるお気に入りのマーチと、小指の付け根から手首までの一線が真っ黒になった左手と共に、私は目の前の問題を楽しんでいた。
だから、背後に立つ彼女に気づけなかったのかもしれない。
蛞蝓が纏わりついたようなぬるりとした感覚が私の首を襲った。生温く、それでいて不気味で現実感があった。私は咄嗟に机と椅子を巻き込んで、前のめりに倒れた。木材がぶつかり合う鈍い音がして、机の上の物がばらばらと落ちる。いつもならしまったと思うのだが、この時ばかりはそんな余裕はなかった。
体を起こし恐る恐る振り返ると、Sが立っていた。いつもの明るさの代わりに歪んだ表情を連れ、こっちに向かって手を振るように両掌を顔の横に上げていた。さっきの感覚はSが首に手を掛けていたせいだということに気づき、腰から首筋まで冷たいものがすうっと走る。
一体、どうして。つかみどころのない子ではあったが、こんなおぞましいことをされた覚えはないし、しているのを見た事もない。Sとは保育園からずっと一緒にいた。何か変わったことがあれば私が一番に気づいたはずだ。突然のことに身を縮めながら首を守るように両手で覆うと、Sは棘を含ませた舌であはははっと言った。
ばれちゃった。軽やかにその場で一回転する彼女を前に、私は数歩後ずさる。それでもふわりと舞ったスカートの裾と私の足は今にも触れそうだった。転がった机と椅子が邪魔だったが、今視線を外すのはまずいと本能が訴える。現状何もわからないが、目の前の女はこれまでとは別人だと、そう思った方がいいことだけは確かだった。
なんでこんなことするの。やっとのことで絞り出した声は震えていた。日直がきちんと仕事をしてくれたおかげで、教室の窓は全て鍵がかかっている。両方のドアは半分ほど開いているものの、教室の真ん中に私が座っていたせいで、他の机をよけて出口まで走って逃げるのはかなり厳しい。この状況で叫んだとして、ほとんど誰も残っていない校舎で誰が気づいてくれるというのか。つまるところ、自分でなんとかする以外の選択肢はないのだ。
ひきつったように笑っていた彼女の口角がゆっくりと下がっていく。何も映さない濁った瞳の横で、物を包み込む象徴はたやすく人を傷つける兵器へと変貌を遂げる。爪の痕が付きそうなほど全ての指が握りこまれた拳は一体誰に向けたものなのか、嫌でも考えてしまう自分が怖かった。
私は中腰がつらくなり、足を肩幅に開いてまっすぐ立ち直した。Sは何も言わない。ただ気道を潰しにかかる圧迫感だけが教室を支配していた。夕暮れのてっぺんは烏羽色に占拠され、次第にその勢力は下方へと下がっていく。どれほどの時間が経っただろう。もうお互いの姿も良く見えなくなってしまったとき、最初に動いたのは彼女の方だった。
ねえ。あたしのことすき?
Sは微かに見える口元をほころばせ、首を傾げた。毒々しさがさっぱり抜けた、いつもの明るい彼女の声だった。
うん、すきだよ。親友だもん。
私はほっとした。正気に戻ってくれたのだと思った。小さい時からずっとSと一緒だったから、今更疑うなんてことはしたくなかったのだ。彼女が今何を考えているかはわからないけど、この気持ちは変わらない。私は大きく頭を縦に振る。
それがいけなかった。
頷いて下を向いた瞬間、首の両側から息ができないほどの力が加わった。Sが私の手の上から首を絞めているのだ。振りほどこうと必死で内側から手を動かすが、元から力のない私ではソフトボール部エースの彼女に太刀打ちできない。自分の身を守ろうとした行動がかえって動きを封じる枷となってしまうなんて、と自分自身の甘さを滑稽だと罵った。太い血管が抑えつけられ、血液が首元で滞る。時折自身の呻き声が勝手に出るだけで、普通の発声どころか呼吸さえ封じられてしまった。
苦しい。視界がせばまり、手足にしびれが走る。Sはわざとらしい笑みを顔にはりつけ、金切声を出しながら、狂ったように首を絞め続けている。「死」という単語が脳裏をよぎった。黒い布が眼球を覆い、目の前が真っ暗になる。
あたしもすきだよ。ずっと一緒にいようね…
吐息の混ざった甘い声がうっすら聞こえたのを最後に、私の意識は闇に落ちた。