5、五円玉
短編の長さでしたが、これで終了です。
見に来て頂いてありがとうございます。
普段の名「ヒョードル」ではなく、「きんぐ」と変えてますが、これは僕の携帯に入っている父親の登録名です。
父親に感謝を込めて。
何故雄太を出しに使おうと思ったのか、わたしにははっきりと分からない。しかし、あの未来ある真っ直ぐで不器用な男は、もしかしたらわたしの鉄仮面を剥いでくれるのかも知れないと感じたからだ。
今までホストは嫌という程見てきた。三つ揃いをアルマーニやらヴェルサーチでしっかり固め、女性の様な肌を惜し気もなく披露してきた優男達。クロムハーツは見飽きたし、二、三年で様変りする流行りの髪型は逆に滑稽に思えた。
しかし好き嫌いは別にして、彼らは皆一様に自身に気概を漲らせていた。同じ水商売とは言え、わたしとは真逆の人間達だった。綺麗な言葉や上等な格好ですら泥臭いのである。泥水を啜ってきた過去を踏み台にしてあの煌びやかなシャンデリアに近い場所に立ち、限られた時間の中にだけ幸せを求める女達に眩しいぐらいの輝きと幻を提供する。そしてそれはシンデレラの様に時間が来ればすぐに現実に戻され、余韻が消えないうちに夏虫の様に再び光に向かって飛んでいく。麻薬と言っても良いぐらいだ。
雄太はまだ淡い蛍火だ。太陽のようなシャンデリアの下ではその輝きは意味を持たない。しかし、暗闇の中にいる人間にとっては二つとない松明になる。地面を照らさなくても、飛ぶ先を追う事はできる。きっとそれは心休まる場所に導いてくれるのだと思う。雄太はそんな男なのだ。
「万里さんごめんなさい。こっちの方よく知らなくて」
待ち合わせの喫茶店に息急き切って入ってきた雄太は、わたしの姿を見るなりそう謝った。
「こちらこそ急にごめんなさい。どうせ時間あるんでしょう、なんて失礼よね」
「そんな。俺嬉しかったよ。また万里さんに会えると思ったらそんな事全然気にしないよ」
眉は力無くハの字に下がっているが、少しだけ見えた目尻の皺がわたしの心を軽くした。
「あんた、それ本心で言ってる?」
「もちろん。自然にすらすら言えればいいんだけどね」
わたしは今日雄太を誘ってみて正解だと思った。
「マスター、ブレンドをもう一つ頂ける?」
「砂糖とミルクもください」
「あんた味覚も子供なのね」
雄太は口を半開きにしながらレトロな造りの店内を見ていた。まるでお上りさんのようだ。初めて歌舞伎町に足を踏み入れた時も今と同じ顔をしていたのだろう。
「万里さん、今日はどうしたんスか。デート……じゃなさそうだし」
「大きな病院、電車から見えた?あそこにじじいが入院しているの」
「じじいって……お父さんの事だろ?なんか棘があるなぁ」
雄太は笑っているがそれは作り物だ。実の親をそんな風に呼ぶ人間を目の前にして、いい気分になる者などいないだろう。それはわたしも同じだった。
「光……いえ、雄太を男と見込んであなたに頼みたいの。一緒に病院に行ってくれない?」
雄太はしばらく目を瞑った。うーんうーんとしきりに呟いているが、果たして深思してくれているのだろうか。まさか、寝ているのか。
雄太の言葉が杞憂を消し去ってくれた。
「いいですよ。理由は聞きません。こないだのお礼だ。行こう」
出されたコーヒーもそこそこに、わたし達は病院に向かった。
春の風は吹いていない。それでも少し寒く感じたわたしは、雄太の手を握り歩いた。時折握り返す雄太の手が暖かく感じたのは、前に見た鈍色の指輪を嵌めていないせいではないだろう。
病室に向かうエレベーターの中でも手は握られたままだった。少し汗ばんだ掌も、目を泳がせている雄太の赤らんだ顔も愛しいと思った。永らく馳せていなかった感情は、数年ぶりに解放された堰のようにわたしの頭と胸を揺さぶり、鉄砲水と化したそれは瞬く間にわたしの鼓動を早く波打たせている。
じじいと呼び続けた父親にとっては邂逅だろう。それを考えると今の胸の高鳴りは吊り橋のそれだと思うのだが、雄太のあどけない横顔を見る度に申し訳ない気持ちも上乗せされる。出しに使っているのだから。
「ここね」
『武藤 一雄』と書かれたプレートが目的の病室の入り口に貼ってある。
そのプレートを前にわたしは足が動かなくなってしまった。何を言えばよいのか。何故今頃のこのこと来てるんだ。おそらく冷罵されることはないだろう。だからこそどんな顔をして会えばいいものか分からなかった。
立ち竦んでいると暖かく優しい手が強く背中を押した。雄太を見ると、初めて会った日の真っ直ぐな瞳を前に向けている。行きなよ、と瞳が訴えていた。
ヒールの音を携えて奥に行くと、初老の男性が寝ていた。傍らには同じ年の頃に見える女性がカーテンから溢れる斜陽に包まれながら座っていた。
「来てくれると思ってたわ。万里」
「遅くなってごめんなさい」
「今寝たの。気持ち良さそうにお昼寝しているわ」
母の清美は静かに微笑みながら呟いた。
わたしは父を見た。記憶よりも白髪がずいぶん多くなっており、皺も幾分深くなっている。父は痩せていた。そしてそれは母も同じだった。
「あと一時間もすれば手術になるわ。少し歩きましょう」
「うん」
わたしと雄太は母に続いた。
入院病棟の裏側は綺麗な曲線で描かれた遊歩道が長く伸び、その脇をカトレアとチューリップの花群が無機質な鈍色のアスファルトに色を添えていた。
「そちらの方は?」
はっ、と雄太は身構え、恭しく自己紹介をした。この不器用そうで木訥な青年を母はどう思うのだろう。
「俺、いや僕は大山雄太って申します。万里さんとは……」
「友達。最近知り合ったの」
「そ、そうなんです」
母は雄太を見て優しく笑っていた。
「そうですか。いつも娘がお世話になっております」
少し頭を下げた母は白髪が多かった。それを見たわたしは、込み上げるものを必死に抑え、無理くり口の端を上げ目を細めた。
「老けたね」
「そうね。あなたが家を出てから気が気じゃなかったから。でも元気そうで安心したわ。電話じゃあなたあまり話さなかったから」
「……ごめん。今日は一人で来るのが怖かったから、友達にお願いしたの」
一瞬雄太に目をやった母は、再び優しく笑みを浮かべ歩き出した。こんなに小さな背中だったろうか。
「雄太さん。コロッケはお好き?」
ふいに母が聞いてきた。父は今でもコロッケを食べているのだろうか、気になってしまう。
「はい。大好きです。岩手のお婆がよく作ってくれましたから。万里さんにもこないだ作ってもらいました」
「そう。それは良かった。万里、まだ作れるのね」
「ええ。体が覚えていたもの」
「あの人ね」
母の声が少し震えているような気がしたが、後ろ姿は気丈な背中のままだ。
「あなたが出て行ってからコロッケ食べなくなったのよ」
「何で?」
「……昔のコロッケって一つ五円だったの知ってる?」
母は振り向き、笑顔変わらず唇を震わせながら尋ねてきた。
「あの人……お父さんね、ご実家が裕福ではなかったの。弟さんが三人もいたし、お義父さんは早くに亡くなったから、父親代わりをあの人がしていたの」
初耳だった。過去を話さない父はいつも安穏に生きていたのだと思っていた。
「横須賀の田舎に住んでたあの人はね、いつも同級生を羨ましく思ってたんだって。移動販売のコロッケ屋さんに集まる同級生は皆お小遣いでコロッケをたくさん買ってたそう。でもお金に余裕のないあの人はいつも兄弟肩を寄せて店を横目に帰っていたのよ」
「……そうだったの」
雄太は食い入るように母の顔を見ていた。岩手の雫石を思い出しているのか。
「一度だけ話してくれた事があったわ。あの人は弟さん達の修学旅行代もアルバイトをして稼いでいたらしいのだけど、どうしてもコロッケが食べたくて、弟さん達にあげる筈だったお小遣いから五円を取ったんだって」
母は涙を浮かべ続けていた。
「だけどコロッケ屋さんに行く途中そのお金を落としてしまったらしくて。日が暮れるまで探したそうよ」
わたしの横から鼻を啜る音が聞こえた。
「それを泣きながらお義母さんに報告したら、優しく抱きしめられたって。頭を撫でながら、ごめんね、ごめんね、ってお義母さん泣きながら謝ってたって」
隣が見れなくなった。母の顔も見れない。景色が歪んで何も見れない。息も出来なくなっている。横から聞こえていた鼻を啜る音は大きくなっていた。
母も鼻を詰まらせながら必死にわたし達に伝えようとしている。聞き流してはいけない、そう思った。
「それがあってから、月に一度あの人の家でコロッケを作るようになったらしいの。お義母さんのパート代が入った次の日曜日。それが武藤家の、月にたった一度だけの贅沢なおやつだったのよ。もちろん挽き肉無しのね」
わたしは震える全身に力を入れ聞いた。
「何故作らなくなったの?わたしが家を出たから?」
「本心は分からないけど。あの人ぽつりと言ったわ。コロッケ、好きじゃなかったのかな、って」
その言葉を聞いて、わたしは人目も憚らず声を上げて泣いた。赤ん坊がその意思を伝えるように、外で転んだ子供のようにわたしは泣いた。頭が痛くなるほど泣き叫んだ。目からも鼻からもいろんなものを出しながらわたしは泣いた。
なんと不器用な父親なのだろう。なんと馬鹿みたいに真っ直ぐな男なのだろう。なんと澄み切った人間なのだろう。なんと屈託のない想いを持った人なのだろう。
父は……あの人は正真正銘の親馬鹿なのだ。買い与える物ではない。学校や習い事でもない。コロッケを買うために走ったあの人は輝かしい程の笑顔をしていたのだろう。そして無くしてしまった五円玉が教えてくれた、月に一度の贅沢と、泣いた顔を包んで撫でてくれた優しい母の暖かい手。かけがえのない惻隠の情をコロッケと共にずっと示してくれていたのだ。
それに気付いた今、もう三十を目前に控える歳になっている。
何故あの時、「どうしてコロッケが好きなの?」と聞かなかったのだろうか。たった一つの会話なのに、それすら言わなかったわたしはどれ程拗ねていたのだろう。
「ねぇお母さん……」
しばらく呼んでいなかったこの言葉がやけに自然に感じる。
「また、コロッケ……食べてくれるかな」
母は何も言わず唇を強く噛みながら何度も何度も頷いた。
横の雄太はひどい顔だ。またにきびが出来ている。鼻水ぐらい拭いて欲しいものだ。
「雄太。ごめん。今日お店行けないや。その代わりコロッケ作ってあげる」
雄太も何も言わずただ頷いている。
「あなたからはちゃんと五円貰ったから、幾らでも作るわよ」
母とわたしと雄太は、カトレアとチューリップで彩られた遊歩道を再び歩き出した。
わたしの前には曲がりくねった道が続いている。後ろを振り返ると、鈍色のアスファルトが敷かれているが、両脇は色鮮やかな花群が静かに揺れていた。下だけ見ていたらきっと気付かないだろう。
わたしは不器用な男の手をそっと握った。改めて見ると、やはり指輪はしていない。まだ汚れを知らない白く細い指は、春の匂いよりも暖かく感じた。
色褪せた五円玉が入った財布はポーチにしまってある。無くさないようにしよう、とわたしは思った。
了
お読み頂きありがとうございました。
今から半世紀以上前、団塊世代が誕生した時代はコロッケ一つ五円の時代でした。父親の昔話で知りました。
惻隠の情とは、他者を心からおもんばかる情の意味で用いられる孟子の言葉ですが、その最たる親子の愛情として今回使いました。『同情心』として使われる事が多く定義が難しいですが、そのように捉えているんだと思ってください。