4、着信
出会ったばかりの女を自宅に泊めてから一週間が経った。しかし、結局万里さんは店に来なかった。大人の女性からすれば、ただの戯れに過ぎないのかも知れない。だが、俺からして見れば夢のような一日だった。恥を承知で裸踊りをし、少し鋭さの目立つ外見からは想像できないぐらい豪快に笑ってくれた。余りの嬉しさに断ってしまったが、それでも店に来てくれると言った。
何を話したかは覚えていない。実家の事は話しただろう。故郷である岩手の雫石は素晴らしい所だから、いつもついつい述懐してしまう。
おそらくつまらない話だった筈だ。その証拠に万里さんはたまに欠伸をしていた。その度に万里さんに話を振ったが、「あんたの話をしなさいよ」とだけ言っていた。結局、俺一人で管を巻いている形になってしまった。
家に来ると聞いた時は驚いた。まだ会って間もない男の家に来るなんて、よっぽどの阿婆擦れか新手の美人局か、と思ったが、なんちゃなかった。ただのお節介だった。いや、お節介と言うには多少棘を感じたが、それでも嬉しい言葉を幾つも貰った。傷が幾つか入った細いジーンズを躊躇わずに脱いだ時は一瞬構えてしまったが。
「あんたなりに真っ直ぐやりなさい」
万里さんはそう言った。「笑わせる前の顔を忘れて欲しくない」とも言った。
だから、笑顔は忘れなくても、へらへらするのだけは辞めようと思った。正直、万里さんを笑わせようと思った時は締め日の恐怖に追われていたのだが、「とびきり笑わせてくれたら」の言葉が俺の小さく弱々しいホスト魂に火を点け、盛岡駅で見送ってくれた学友達の顔を甦らせてくれた。
雫石にいた頃は、何をしても周りの同級生は笑ってくれていたが、もしかしたら、笑われていただけなのかも知れない。それを考えたら顔から火が吹きそうなのだが、それを教えてくれた万里さんには感謝しようと思う。もちろん、今まで食べた中で一等美味かったコロッケもそうだ。挽き肉が入っていない珍しいコロッケだったが、数年前に亡くなったお婆が作るコロッケとそっくりで美味かった。
草木が逞しく天に伸びた大地が山裾に繋がり、見事なまでに連なっている杉の林道が風に踊る。春になれば石を割った江戸彼岸桜の花弁が北上川に舞う、絵に描いたような美しい土地だ。遠くは四方を山に囲まれ、川と草木が手を取り合うような優しい郷。それが故郷の印象だった。そんな雫石で食べていたお婆のコロッケが思い出されて仕方ない。
万里という女は、一見冷たく尖っているように思えるが、もしかしたら情に厚く、義理堅い女なのかも知れない。でなければあんなに美味い、雫石のような優しいコロッケが作れる筈がない。そう思うとミステリアスな女に思え、四六時中万里さんの事を考えてしまう。恋、と言ってしまってもいいのだろうか。いくら底辺ホストだからと言っても、職業柄、その感情すら武器にしなくてはいけない。あの日、万里さんが履いていた紫色の下着を見た時の感想は決して嘘ではない。素直に、綺麗だ、と思った。
営電もせずに家で倦怠をしていると、普段滅多に鳴らないスマートフォンが鳴き出した。ディスプレイには『武藤 万里』と出ている。まだお天道様が真上に座っている時分に何だろうと思い、出てみる事にした。雄太、でいいのか迷ったが、番号は店内で交換している。俺は既に名前負けをしている源氏名を名乗った。
「はい。光です」
「万里だけど」
「どうしたの?少しだけ電話期待して待ってました」
「ありがとう。雄太と光、どちらに電話をしていいか迷ってしまって」
「万里さん意味分からないよ。どうしたのさ。話、聞きますよ」
万里さんはたまに明後日を見る癖がある。今も、遠くて手の届かないどこかを見ているのか。電源が落ちてしまったかと思うほどな長い沈黙の後、万里さんは切り出した。
「光さ。今日お店行ってあげるから、昼間少しだけ付き合って頂戴。どうせ時間あるんでしょう?」
俺はその言葉に少し胸を穿われた気がした。確かに光と万里さんは言った。
「はい。まあ時間はたっぷりあるけど……」
「じゃあすぐ来て」
「今スか?」
「あんた笹塚でしょ?京王線ですぐだから調布まで来て」
とだけ言い、切れた。
俺は迷わずに一着しかない黒いシングルブレストを手に取り家を出た。