3、繋がり
光……雄太にコロッケを作って食べさせたが、わたし自身何も手を付けずに雄太の部屋を出たわけだから、当然と言うべきか、腹が減った。
あれほど一心不乱にコロッケを頬張るのを見た事は……無かったとは言えない。懐かしくもあり疎ましい過去。忘れたくても忘れられない昨日のような幼い日。逃げるように出た、決して逃げない家。母親と二人で笑いながら見た、コロッケを美味そうに頬張る父親。雄太が嚥下するように食らったコロッケは、一口毎に記憶の引き出しを一段づつ開けていくようだった。だから堪らず雄太の部屋を出た。
わたしはポーチからスマートフォンを取り出した。家を飛び出した後に買った携帯電話には、自宅の電話番号を最初に登録した。その後、人間関係を精査するために機種変更を数回行ったが、自宅の番号だけは忘れずに登録した。一度もダイヤルした事は無かったが、それでも自宅番号だけは消さなかった。登録していなくても覚えているが、繋がりを絶ちたくないと思う最後の証であり、悔恨の表れでもあるかも知れない。
幾年ぶりだろう。わたしは自宅に電話をした。この時ばかりは繋がってほしい、切にそう願った。
「武藤です」
ああ、変わっていない。横で蒸かしたじゃがいもの皮剥きをしていた時と同じ声だ。決して怒ることのない、優しさのみが支配する柔らかい声だ。
「もしもし、わたし」
一瞬だけ間が空いた。
「万里……なの?」
その柔らかい声を聞いた途端、わたしは涙が込み上げてくるのを感じた。何故わたしだと分かるのか。家を飛び出た頃なんかはあまり話さなかったのに。どうして知らない番号なのにわたしだと分かるのか。少しは詐欺に警戒してよと思う。色んな事を言いたいのに、出てくるのは涙と鼻水だけで、息すら満足にできない。
わたしは雄太にもらった五円玉を握り締めていた。
「うん」
これが限界だった。母が何を言ったのか覚えていない。わたしが何を話したのか、そもそも話せていたのかすら覚えていない。元気なの?ご飯食べてるの?風邪は引いていない?そんな事ばかり聞く。どこで何をしているかなど聞いてこなかった。ひたすらわたしの身を案じているだけだった。しかし、父が脳梗塞一歩手前で片目が見えなくなり、来週手術だと聞かされた時は驚いた。
「回復するかは分からないけど、他の血管もあるし、手術することにしたの」
わたしは何を言えばよいか分からず、つい十余年前に戻ってしまった。嘆かわしい事この上ない。
「意味ないんじゃないの?」
言った後で後悔した。なんと馬鹿なのだろう。いい加減大人になって、元気だよ、の一言すら言えない自分を恥じた。
泣き声を母に聞かれないようにするので精一杯だ。息を殺すのがこれほどまでに辛いこととは知らなかった。もしかしたら母は気付いているかも知れない。
「調布駅にある大きな大学病院。分かるわね?来週金曜日に手術だから」
わたしは返事をせずにスマートフォンをポーチにしまった。
まさか死ぬなんて事はないだろう。高を括らなくてもそれぐらいは分かる。しかし大病には変わりない。疎ましく思っていても、弱った姿など想像だに出来なかった。逆に今のわたしを見たら両親は何と言うのだろうか。夜の埃を全身に浴びたような汚れまみれの身体だ。大いに嘆くに違いない。生きていくための狡猾な手段なのだから仕方ないが、その武器は将来が短い。肌の張りなど昔に比べたら無いに等しいのだから。
それでも腹は減る。久しぶりにコロッケを自分で食べてみようとわたしは思った。
涙は乾いていた。