2、告白
割れるような頭の痛みでわたしは目を覚ました。暗い。体内時計が正確ならば昼間だろう。確かに電気は消した筈だ。眩しいままだと恥ずかしいから、と言われ、カーテンを閉めきったところまでは覚えている。
電気を消した張本人は隣で鼾をかいていた。無造作に遊ばせた茶髪は枕に埋もれ、白い両肩は毛布からはみ出ている。
なんだこいつは、と思った。しかし、この男が光というホストで、約束した通りラストまでわたしが店にいた事は覚えている。しきりに故郷の自慢をしたかと思えば、東京で一旗揚げようと息巻いて来たはいいものの、何をしてよいか分からず、人を笑わせる事が取り柄だからとホストクラブで働きだした経緯を話し、泣いた。本当に忙しい男だと思った。
しかし、わたしの家に呼んだのは覚えていない。そうだ。確か、寮は嫌でルームシェアも願い下げだからと親の仕送りを頼りに安アパートを借りたと言っていた。そして話の流れで光の安アパートに上がり、そのままカビ臭い布団に潜り込んだのだった。どうせセックスの一つでもすればすぐ寝るだろうと思ったが、光は電気を消した後にすぐに寝てしまった。
拍子抜けしたわたしもそのまま寝てしまったようだ。
とりあえず水を飲みたいと思い、洗い物で溢れた台所に行くと、乾いたうめき声が静まり返った木造の一間に響いた。頭が痛い。
「あれ、万里さん。おはよう」
「あら、おはよう」
「もう……起きたの?」
「お水をちょうだい」
「……はい」
光に目をやると、まだ起きてはいなかった。口だけ動かしたのだろう。わたしは頭痛以上に喉の渇きが酷かった。コップいっぱいに浸した鉄管ビールを強引に胃に流し込み、苛ついた食道を落ち着かせる。
「……ふう」
一息付き、台所を改めて見た。食べ残しがこびり付いた洗い物やプラスチック容器が所狭しと乱雑に散在している。わたしは寝ている光を振り返ったが、一張羅であろう黒いシングルブレストとネクタイがハンガーに吊るされている以外は、衣服が床に脱いだまま放置されていた。
「あ、そうか」
わたしが今まで寝ていた布団の横には、到底光には履けないだろう細身のクラッシュデニムが置かれている。光とやるんだろうな、と思いそそくさと脱いだはいいものの、当の光は据え膳に箸を付けずに寝てしまったのだ。些か女のプライドに傷が付いたような気がしたが、あの不思議な踊りと歌を思い出したわたしは、つい笑ってしまった。
「あ、万里さん。もしかして腹減ってます?すみません、あんまり食べ物無くて……」
死んだように寝ていた光から言葉が飛んできた。どうやら起きたらしい。目を擦り、爆発した茶髪を天に衝き上げながら起きた光の上半身は痩せており、病的な程白かった。
「減ってる。だけどあんたこそご飯食べてるの?死にそうよ」
「あんまり食べてない。っていうか食えない。だからサプリ」
子犬ではない。これじゃあまるで保健所に保護された野良犬だとわたしは思った。確かに、馬鹿みたいに毎日飲んで、潰れては吐いて、そしてまた飲んで、の繰り返しだったら食欲がわかないのも当然だろう。仕方ないが、何か買ってきてやろうとわたしはポーチを探した。
「何食べたい?買ってくるわ」
「いらない。気持ち悪い……」
「あんたね。昨日殆どわたしが隣にいてそんなに飲まなかったでしょう?二日酔いじゃあないわね」
「ううん。違うんだよ万里さん。朝は大抵こうなんだ」
このまま会話を終わらせればまた光は寝てしまうだろう。そう思ったわたしは意地でも食事を摂らせることにした。今日は確か休みの筈だ。休肝日に栄養を摂れば多少は元気が出るだろう。
「あんた男でしょ。たらふく飯食って、嫌っていうほど営電して、死ぬほど笑かして、しこたま飲んで、それから言い訳しなさい」
「何それ。万里さん、岩手の母さんみたい。もしかして母性本能ってやつ?」
光は開いていない目を更に細めて笑った。新しいにきびが頬に一つ出来ていた。
「昨日あんたに気概を見させてもらったから。それにわたしのパンツを見た罰よ。食べなさい」
「万里さん。綺麗です。とっても」
突然の告白は慣れていたが、それでもわたしは嬉しかった。今まで何百人と裸を見せ、綺麗だの美しいだのかわいいだのという芝居じみた台詞は裸を見せた数だけ貰った。しかし、 衒いなく真っ正直に何の見返りも期待しないその言葉が嬉しく思った。出来るのであれば、まだ清明さを失っていないその心のまま生きて欲しかった。
「ありがとう。本当に嬉しいわ。だから何か食べよ?あんた本当に死にそうだから。ばば……お母さんも心配するでしょう」
光はいよいよ目を閉じ腕を組んで薄い布団の上に座している。まさか寝ていないだろうな、と見詰めていると、思い出したかのように目を開けた。
「じゃあ、何か作って」
「わたしが?」
「うん。万里さんの手料理」
「本当に?」
「うん。手料理食べたくなりました」
困ったことになった。わたしは手料理なんざ作ったことはない。いや、あるのだがこれだけは作りたくはなかった。実家を飛び出した理由が両親への蓄積した反発なのだから、今更ぶり返したくはないのだ。
「……うーん。わたし料理一つしかできないし。まだできるか分からないからなぁ。やっぱり買いに行くか、外で食べましょうよ」
「嫌だ。じゃあその一つでいい」
ここまでくるともはや母子である。断案したわたしは腹を括った。
「……コロッケでいい?」
「うん。俺、コロッケ大好きっス」
わたしはクラッシュデニムを履き、財布を片手に外に出た。新妻はこういう気分なのかな、と我ながら驚くほど清爽な気分になった。
木の芽時を告げる春塵が優しく瞳を叩き、紅紫色の椿が東風に揺らいでいた。
わたしは幼い頃からコロッケを母親と一緒に作っていた。月に一度最後の週の日曜日の昼過ぎ、決まってこの日は母親とコロッケを作っていた。理由は分からないが、父親のお楽しみだと聞かされていた。
小さい頃は両親を疎ましく思ってはいなかったと思う。人並みに懐いていた筈だ。中学生になってから変わった。わたしが一方的に変わったのだ。思春期特有の背伸びを拗らせ、両親を避けるようになった。まだこの頃は良かった。それ以降両親はわたしに何かと更に優しくなり、わたしの憮然とした脛齧りを甘んじて受け入れた。たまに口を利けば物をねだり、一週間で辞めたピアノ教室も二つ返事で快諾した。居間には値段を聞くのも憚れるほどの一等良さそうな竪型ピアノが今でも埃を被っているだろう。
そして高校も学費の高い私立を希望した。意味はなかった。ただ、困らせてやろう、ぐらいにしか考えていなかったと思う。偏差値はそれほど高くはないが、一般的には聞えの良い、歴史ある女子高だ。それも「万里が望むのなら」と一切の異見は無かった。
中学生まではコロッケを一緒に作っていた。わたしはコロッケが好きではなかった。白米には合わないし、洒落ている印象もない。あれば食べるぐらいだ。
父親は毎月最終の日曜日、昼食を食べた後「おやつだ」と言い美味そうにコロッケを食べていたが、一つだけ注文があった。それは「挽き肉を入れるな」というものだ。理由は聞いていない。だから、わたしの中ではコロッケは挽き肉無しなのだ。
そんな挽き肉無しのコロッケを光は美味そうに頬張っている。箸など使わず、熱いのだろうか、しきりに体を揺らしながらコロッケを口にしていた。急いで食べているものだから、嚥下しているようだ。コロッケは逃げないよ、と言ってやりたい。
「おいしい?」
返事はないが、その食いっぷりが返事だと思って良いだろう。たまに親指を立てるが、すぐにコロッケに戻る。一心不乱、という言葉がこれほど当てはまる光景はないのではないかと思った。
「でも良かった。作り方を覚えていて」
案外忘れていないものだ。蒸かしたじゃがいもの皮剥きや、玉葱のみじん切りは体が覚えていた。その筈、十年近く毎月コロッケを作っていたのだ。忘れようにも忘れられない。
「食った!うまかった!」
大きめのコロッケを四つも完食した光は、満足げに宙を仰いだ。
「そう。良かった。言い忘れた事は?」
「ああ、ごめんなさい。ご馳走さまでした」
「いいえ。お粗末さまでした」
そんなやり取りのあと、口の周りに衣と油の髭を作っている光は、わたしを見詰めていた。まさか惚れたとでも言うのか。
「ねぇ万里さん。一つ聞いていいかな」
「何。いいけど」
「万里さんて、いいとこの子だった?」
「何でよ。あんたそういうの分かるの?」
「ううん。何となくだけど。勘です」
確かに高校は有名女子高だし、疎ましかったが大事に育てられた事実は消えない。しかし、経済的裕福度は決して高くはなかった筈である。いや、むしろ低かったのではないか。わたしに対してはあれこれ買い与えていたが、両親自体は質素で慎ましい生活を送っていた気がする。父親は聞いたこともないような三流企業の課長職止まりだし、母親も近所のスーパーでパートに出ていた。余った惣菜を持って帰ってきては夕食の一品にこっそり加えていたのを何度か目撃したことがある。
「残念。貧乏じゃないけど、いいとこなんかじゃないわ。じじいが不甲斐なくてね」
「そうっスか。いや、たまに先生みたいな事を言うからさ」
また例えが清々しい。これが好感を持たせるのか。
「あんたが他のホストと違って初いからよ。まだ染まってないから、わたしを笑わせる前の顔を忘れて欲しくないの」
「笑わせる前の顔?」
「あんたホストやってくなら色んな女とこれから話す事になる。おそらく色恋も含めて。その女達に教わりなさい。そして自分を見失わないで」
「……万里さん、何かあったんだね」
「わたし、高校卒業して家出たの。お金の作り方分からなくて、自分を売ったわ。身体も心も。両親への反発もこめてね。だからあんたには真っ直ぐな気持ちを持ってもらいたいのよ」
自分で言葉にしたらやけに心が軽くなったような気がした。この目の前にいる男は余りにも不器用なのだ。小手先の繕いだけでなく、生き方が不器用なのだ。だから自分を投影してしまい、ありのままを吐露してしまった。
たかだか裸踊り一回であるが、久方ぶりの呵々大笑だったために心が動いたのか。
「なんか難しいや。頑張れってことかな」
「いつか分かる日が来るわ。別にホストを批判するつもりはないから、あんたなりに真っ直ぐやりなさい」
「ありがとう。万里さん」
あっ、と言い、光は薄い長財布を手に取り、中を物色し始めた。油で光った手で黒い財布を扱うところが初いところの一つだ。またもや頬が緩む。
「万里さんごめん。今財布にお金ないや。コロッケ代払いたいのに」
「要らないわよ。わたし物乞いに見える?」
まさか、と言った光は硬貨を一枚渡してきた。垢だらけで酷く変色した五円玉だった。
「じゃあ再会を約束して五円だけ渡すよ。これなら受けとれるだろ?」
今日日五円玉に掛詞を使う人間などいるのか。実は光という男、なかなかの才子なのではないかと思った。おそらく考えて行動をしていないのだろうが、それ自体が才能であると本人は死ぬまで気付かないだろう。
「ふふ。ありがとう。じゃあ頂くわ。あなた、名前は?」
光は初めて赤ら顔をしてみせた。
「恥ずかしいな。……俺、雄太って言います」
目を合わさずに言うところが可愛らしい。すぐに本名を言うなど、ナンバーホストはまずしないだろう。
「良い名前ね。まあ頑張りなさい。わたしは帰るけど、気が向いたらまた”ニューブロンズ“に行くから」
何か言いたげな顔をした雄太を置き去りにして、わたしは狭くカビ臭い暖かな部屋を出た。
春塵は止んでおり、椿は踊っていない。外の乾いた空気は部屋よりも少し寒く感じた。
※営電……店に来てくれるように客に電話をすること