1、出会い
―――コロッケはおやつの王様だな、とよく言っていた父親の一雄が入院した。脳梗塞だった。いや、正確に言うと、脳梗塞を引き起こしてしまいそうなほど弱った血管がいよいよ死んでしまい、片目が見えなくなったのだ。
一週間後に行われる予定の手術を控え、一縷の望みにしがみ付き、文字通り藁にもすがる思いで視神経の手術の決意を聞いた母親の清美に対してわたしは、「意味ないんじゃないの」と投げやりな文句を電話口に向かって捨て吐いた。
わたしは別段両親の事は好きでも何でもなかった。齢四十でようやくわたしを授かった両親は、まるで古伊万里を扱うかのように、まるで蒲公英の綿毛が飛ばされないように、震える両手で包まれながら大事に育てられた。中学を過ぎた頃からそれが疎ましくて仕方がなかった。事実、わたしの名前は万里だ。たまに陶芸を嗜む父の事である。有田焼に託つけたのかは分からないが、おそらくそうだろう。
だから高校を卒業すると同時に家を出た。顔色を伺うような両親のいる一戸建ては、庭の芝生が綺麗に苅られていようが、派手過ぎない調度品が居間を飾ろうが、一人で過ごす自室に物が溢れようが、とにかくそこが嫌いで息が詰まった。
高校は都内でも有名な女子高で、中には有名な女優の娘や大企業の娘だという子もたくさんいたが、どうにも馴染めなかった。大人が前にいれば「パパママ」と呼び仲良しを猛烈にアピールし、偉い人間が来れば「父は母は」と教養を醸し出すふりをする。そのくせ仲間内では「おやじばばあ」と野鄙な言葉を教室中に撒き散らしている。ならば正々堂々と大人の前でもそう言えよ、と内心では小馬鹿にしていた。
だからラインメンバーであっても、莫逆の友などいなかった。いなかったが、教室では何故か周りに人がいた。特別勉強が出来るわけでも器量が良いわけでもないのに。
「万里は男みたいでかっこいいじゃん」
大概こう言われた。見てくれではない。おそらく誰にでも見せる尖った硝子片のような言動を見てそう言うのだろう。
「おい、武藤。お前はいい加減に言葉使いを直せ。ご両親が泣くぞ」
担任の先生も生活指導の教頭も体育科の猿人類も皆口を揃えたが、終ぞ直らなかった。いや、直してやるもんか、と反駁すらしていた。
「嫌です。ばばあもおやじも泣きませんから」
こんな台詞を何回も繰り返していたある日の授業中、授業参観の件で担任と言い合った。高校生にもなって授業参観とはうちの学校は何を考えているのだろう。授業参観の前後は担任は非常にピリピリしていた。担任の名前……何だっただろう。忘れた。
「いいか。明日はご父兄がいらっしゃるから、恥じないよう予習してくるように。いいか、武藤」
この名指しは当然だろう。なにせ校内一口の悪い生徒なのだから。両親に対してだけだが。
「はい。分かりました。じじいとばばあ二人来ると思いますが、頑張ります」
「だから武藤!その言い方をやめろと言っているんだ!」
「申し訳ありません、先生。以後じじいとばばあに関しては口を直します」
「おい!意味分かって言ってるのか!」
「はい。じじいとばばあですよね?分かってます」
「あとで生活指導室に来なさい」
教室からクスクスと忍び笑いが聞こえた。このやりとりの最中ではしょっちゅうだ。「はい」と静かに座れば担任のため息が笑い声に重なるが、終わりのない押し問答になるのは火を見るよりも明らかなのだろう。結局折れるのは大人だった。
「ねえねえ万里。今日も笑わせてくれたね。少しスカッとした」
「万里は家でもそうなの?」
直後の休み時間はこの件が永遠に繰り返されるわけだが、「別に」や「話さないし」とだけ答えていた。鉄仮面とでも思われていたのだろうか。厚顔無恥な同級生よりかはいくらかマシだと思う。
それに加え「武藤」という名字が男らしさに輪を掛けていたのだと思う。嫌いではないし、好きでもない名字。ただ、両親と同じ名前だというだけで自ら忌避の対象にしていたことは事実だ。
そんな好奇の目で見られていた事はあってもいじめなどは無かった。勉強は一通りそれなりの成績を残していたし、その言動以外は至って普通の少女だった。
「ねえねえ。お姉さん、遊んでかない?」
決して輝くことのない鈍色の空のような青春時代を振り返りながら歌舞伎町を歩いていると、高そうな黒いシングルブレストを着た下品な男に声を掛けられた。
「何あんた。ホスト?」
よく見るとまだ幼く見える顔にはにきびの痕が残っており、薄く塗られたファンデーションの上からでもよく分かる。しかし、綺麗に作られた笑顔なのだが、その瞳の奥からは焦眉の急が窺えた。
「俺?そうだよ。ここ。ほら、先週テレビで特集組まれてたホストクラブ。楽しいよ。遊んでいってよ」
「あんた……痛ホス?」
鎌をかけてみた。安く見られたものだ。こんな時わたしは侮蔑の念を籠めて笑っているのだろう。
「違うって。……まあ半分合ってるけど、ねえ!いいだろ?楽しいぜ?初回だから一セット三でいいよ」
綺麗に伸ばした白く細い三本の指には光沢の無い指輪が幾つか付いている。先程まで回顧していた鈍色の空のような色をしており、傍目に見ても上等ではないことが分かる。
わたしはイライラしてきた。ホストなら金を言うより先に笑わせてみろと思う。
「あんたとなんかただでも行かないわ。とびきり笑わせてくれたら諭吉何枚でも出すけど」
すると男の笑顔は本来持つべき矜持を携えたそれに変わり、一切の笑みを捨てていた。素の顔に戻ったと表現した方がいいのかも知れない。こっちの方がよっぽど良い顔をしているのに、勿体ない。
「じゃあお姉さんを笑わせるよ。雫石一の笑わせ屋と言われてたんスよ、俺」
「さっさとやってよ。このまま男漁りに行っちゃうわよ?」
「オーケーオーケー」
男は寒空の下、上等そうな黒いシングルブレストと、真っ白いシャツを脱ぎ、突然踊り出した。いつの間にか抜き取られていた細いネクタイは男の頭上で円を描いている。
「俺の瞳は超青い!君の気持ちはもう淡い!恋の風船!破裂寸前!高鳴る胸は重なる腕輪!呟く口唇煌めくキス汁!」
男は腰を振りながらネクタイをぐるぐる回し、大声で歌い出した。馬鹿らしい。下らないし、ある意味本当の痛ホスだ。ああ、恥ずかしい。同業も水商売風の女も皆こっちを見てる。本当に馬鹿らしい。ああ、何か笑えてきた。それにしてもキス汁とはなんだろう。韻を踏むにしてももっとマシな言葉があるだろう。それを考えたら更に笑えてきた。
「ちょっともうやめてよ。ねえってば。もう」
男の腕を掴んだ時にはわたしは完全に笑っていた。涙を流しそうにすらなっている。男は力なくネクタイを頭上で垂らし、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしている。この怪訝そうな顔を半裸でするのはやめてくれ。ずるい。笑ってしまうだろう。反則だ。
「ちょっと。やめてよその顔。何でキョトン顔するのよ。しかも裸。よく見たら乳首から毛が生えてるじゃない!」
もう無理だった。毛を見た途端に息が出来なくなるほど呼吸困難になってしまった。目からは涙が止めどなく流れている。ああ可笑しい。お腹がねじ切れそうだ。
うずくまって笑いが治まるのを待っていると、男が落ち着いたトーンで話してきた。これが地声か。さっき声を掛けてきた時よりよっぽど艶のある声じゃないか。勿体ない。
「お姉さん……大丈夫?笑ってくれてありがとう。だけど俺嬉しかったから、お店いいよ。また今度声掛けさせて」
言い終わった男はシャツを着込み、ネクタイを巻こうとしていた。左右のバランスが完全に間違っており、きっとそのまま絞めればえらいことになりそうだ。何をやっても絵にならない男もいるんだな、とわたしは再び口を震わせた。
「ちょっとごめんなさい。ふぅ。深呼吸」
横隔膜は正常だろう。大丈夫だ。
「わたし約束は守るわよ。確かに笑わせてもらったから、お店行くわ」
「お姉さん、無理しなくていいよ。今日締めだからどうせ怒られるし」
なるほど。だから声を掛けてきた時に、僅かに焦眉を感じたのか。だったら……。
「いえ、行くわ。どうせわたしがいなかったらヘルプで潰れるだけでしょう?」
「……本当?本当に来てくれるの?」
今度は捨てられた子犬が通りすがりの人間を発見したかのような顔をしている。忙しい男だな。
「行きましょ」
子犬は乱れた前髪を手櫛で撫で付け、スモールチップがだらしなく伸びたネクタイを一歩ごと揺らせながら尋ねてきた。
「俺、光って言います。二十一歳。お姉さん名前は?」
わたしは咄嗟に偽名を使おうかと思ったが、末代にまで語り継がれるような恥を偲んで一笑を獲得したこの男に嘘は付けないと思い、洗いざらい話すことにした。触れられたくないところは端折るが。
小汚いビルの角に“ニューブロンズ”と書かれたネオンパネルが光っていた。地下に続く階段は急だったのだが、そっと光が手を差し出してくれたおかげで踏み外さずに済んだ。幾つかの鈍色をした冷たい指輪がわたしの右手から熱を奪っていく感じがする。
「わたし万里。二十七歳。水や風は一通りしたわ。今日は少し寒いからパパを探しに来たの」
へぇ、万里さんかっこいいね、と言った光にエスコートされ、店内に入った。
何故ホストクラブのシャンデリアはいつ来ても時代遅れと感じてしまうのだろう。きらびやかな硝子細工はバブル絶頂期の遺産だと思う。きっとここに来る女達は、日本全土を煌めかした儚い時代の名残りよりも輝いて見える男の顔を見に来ているのだろう。
「高いお酒は飲まないわ。細くてごめんなさいね。その代わりオーラス……じゃないか。ラストまでいるわ。場内入れてあげる」
席に通されたわたしは座るなり光にそう言った。
まだ宵の口だというのに流石は締め日だ。店内で騒いでいる太客達の妬みや苛立ちが次々と黒服に突き刺さっていた。煽りだろうか、ナンバー風の男達は女の耳元で何かを呟いている。あれが愛の囁きなら笑って流すのだが、そんな気は毛頭ない彼らは、金の成る耳に魔法の言葉を呟いているに過ぎない。
「ゴールド入りました!」
どこかのテーブルから揚々とした声が上がった。皆が一斉に振り向くが、先ほど魔法の言葉を呟いていた男達はしっとりと女の手を握り出していた。更に顔を近付け、首に巻き付けた細い腕で女の髪を撫で始めている。女達も分厚い化粧に隠れた下心を瞳に宿らせながら、所在を探す空いた手で男の太腿を擦っている。なんとも分かりやすい雄と雌なのだろう。
「いいなあ」
意図せず呟いた光には大した稼ぎにはならないだろうが、たまには人助けをしようと思うことにした。だってこの子はまだ知らないんだと思う。
「あんたね。初回から場内指名入れてやんのに、シカトする気?帰るわよ?」
「ああ、ごめんなさい」
慌ててかぶりを振る光は本当に子犬のようだ。わたしは初めてこの男にわたしのようになって欲しくないと思った。
※痛ホス……何をやっても駄目なホストや、ナルシスト、オラオラが極度に酷いホスト。
※場内指名……新規で入店した時に付いたホストを、延長した際に指名すること。最初は色んなホストが代わる代わる席に来るみたいです。