20.筧さんの講義 【1】
先生は、作品を書いている時は別だが、基本的に早寝早起きの人である。
今日も九時半前後には早々と眠ってしまった。
私は転がっていてもなかなか寝付けなかったので、一人で風呂に入りに行った。
温泉ではないものの、矢張り大浴場は気持ちが良いものだ。
どうせする事もないので長風呂してしまい、のぼせた頭でフラフラとロビーの辺りをうろついていた。
「おお、いたいた。僕の予知法も捨てたもんじゃないなあ」
フロントの脇の窓際に、ちょっとした待合のような場所がある。
そこのソファに座っていた男が私を確認して立ち上がった。
「ああ、筧さん」
ちょっと驚いたが、すぐにわかった。そういえば、お姉さんがここに泊まっているとか言っていたのを思い出した。
「おお、風呂上りかい? なかなか色っぽいじゃないか」
「な、なんですかそれはっ!」
私は思わず後ずさりながら言った。いきなり意外な切り口で語りかけられたのでびっくりしたのだ。
「いやあ。ごめんごめん。褒めたつもりだったんだけど。難しいもんだなあ」
快活に笑う筧さんが、私の警戒心を解こうとしている風に見えてちょっと怪しく見える。
『あ、いつもか』
そういえば、筧さんはいつも笑ってる人だった、と私が思い出していると、
「これ返すよ。忘れる所だった」
筧さんは、私の貸した『異生凋明天』を差し出しながら言った。
「あ。ああー、ありがとうございます!」
私は正直に言って、貸した事を忘れていたので筧さんが持ってきてくれなかったら、後で非常に困った立場に陥るところだった。
なので素直にお礼を言った。
「どうでした? 読みました?」
「うん。面白かったよ。興味深かったっていうか」
「心理学的にですか?」
私が言うと、筧さんはなお一層顔を綻ばせ、声を上げて笑った。
「なかなか面白い事を言うなあ、君は」
「だ、だってそういう意味でしょう? 興味深いって言い方は!」
「いやいや、本当に面白かったよ。おかしな言葉使いしてごめんね」
筧さんは立ち上がりながら言った。
「え? もう帰るんですか?」
「うん。それ返しに来ただけだからね」
私はここで、ハタと気がついた。
「っていうかどこに帰るんですか? ここに泊まってるんじゃ?」
筧さんはうーん、と唸りながら少し困った顔をした。
「ちょっとね。河原の方に」
「河原って、え? 前話した場所ですか? こんな夜中に?」
「うん」
筧さんは相変わらずニコニコしている。
「ちょっと! 筧さん! もしかしてあそこで寝るんじゃないでしょうね?! 行けませんよ河原なんかでキャンプしたら! 危ないんですよ増水したりして!」
「あー、いや、それは大丈夫。僕そういうのわかるから結構」
筧さんの笑顔が段々苦笑に変化していく。あまり触れられたくないようだった。
「それにしたって、ここに部屋とってるんでしょう? 何でわざわざ好きこのんであんな所で寝るんですか?」
「寝ないよ。ずっと起きてる」
「えっ?」
あまりに事も無げに言うので、私は少し混乱してしまった。
「えー、つまり、夜はあそこで起きてて、昼間はこの旅館で寝てるんですか?」
「寝てるっていうか、ゴロゴロしてるんだ。あんまりあそこで番してると神経張り詰めちゃうからね」
「ああ、旅館の部屋で休憩してるって感じなんですか? それにしたってよくわかんないですけど」
そうだなあ、と言いながら筧さんは少しの間、口を閉じた。
「本当は、別に外で休んだっていいんだけど。変な浮浪者がいるとか噂になったら嫌だからね。今時は気使うよ結構」
筧さんは、小さく嘆息する。
「外って、そりゃあ天気のいい日はいいでしょうけど、雨風はどうするんですか?」
「僕、わりとそういうの平気なんだ」
何というか、本当にあっけらかんと平気そうにいうので、こっちも普通に聞いてしまう。
『変な人だし、あんまり関わらないほうがいいのかな』
私は段々と頭の中で筧さんと距離をとりはじめた。
先生の相手をずっとしていて感覚が少し麻痺していたようで、筧さんとも普通に話していたが、これ以上あまりお近づきにならない方がいいのかもしれない。
『でも悪い人ってわけでもなさそうだし』
偏見で他人を見るのはよくない気がする。私の中の中途半端な人の良さみたいなものが働き、もう少しだけ話してみる気になった。
「河原って夫婦岩あるとこですよね?」
「あー、うん」
筧さんの頷くのを確認して、私は言葉を進めた。
「あの岩ってなんなんですか? 私あんまり詳しくないんですけど、昔の人は大きい石とか木みたいなものを、拝んだりしてたって聞いた事あるんです。そういう感じのものなんですかね?」
先生が仕事の合間にそんな事を喋っていた気がする。
「似てるけどちょっと違うかな。あれはもっと限定的に使うものだからなあ」
筧さんは、一時沈黙して考えをまとめているようだった。
「あれはねえ、天神地祇、天の神様と地の神様を祀るものなんだ。下に水もあるしちょうどいい感じになってるよ」
「一緒にお祭りしちゃっていいんですか?」
「なんで?」
筧さんは面白そうに問い返してきた。
「ええっと、人づてに聞いたんですけど、それって天津神とか国津神ってやつですよね?」
「それでそれで? そうだと何がまずいと思うの? もうちょっと続けて」
筧さんは口笛でも吹きそうな程楽しげに言った。いつもの笑顔よりもぐっと感情が篭っている表情だ。
「なんかこう、そういう違う種類の神様だと仲悪いのかと思って」
「どうしてそう思うの?」
『うっ……なんか今日の筧さんは性格が悪い』
こう、畳み掛けるようにつっこまれると困ってしまう。
「なんかこう、神様ってケンカばっかりしてるようなイメージがあってその」
私は頭の中をこねくりまわしながら、言葉を紡いだ。
「ええーっと、天津神ってのが、大陸から渡ってきた人達が信仰してた神様で、国津神ってのが元から日本にいた人達が信じてた神様で……。えーっと、征服した人達とされた人達のものだからやっぱ仲悪くなるんじゃないですか?」
「それだとどうして仲が悪くなるの? 祀ってた人間同士が仲悪いと、神様も仲悪くなる? 一緒に祀っちゃいけないのかなあ?」
「それは……」
私は何とも言いようがなく、黙ってしまった。筧さんはしばらく見ていたが、やがて大笑いしながら口を開いた。
「いやあ、少し意地の悪い言い方だった。ごめんごめん」
筧さんは一頻り笑った後、気を入れた顔で正面から私に向き直った。
「でも君、そういうとこはちょっとよくないなあ。考えが硬すぎるよ。大雑把に捉えすぎるっていうか。読んだものでも人から聞いた事でも、自分で咀嚼したり吟味する過程は必要と思うねえ」
「はい」
私は筧さんが、物書きの先輩としてアドバイスしてくれていると思ったので真面目に耳を傾けた。
(後日、全然そういう事ではなかったとわかるのだが、今はそこにはこれ以上触れない。)
「よし、今日はその辺について教えてあげよう」
筧さんは言いながら、嬉しそうに両手を摺り合わせた。
「何というかまあ、基本的に神様関係やらの事は人間には計りがたい事なんだ。それでもごくごくたまーにわかる人間もいるんだけども、その人もそれを他の人間に説明出来ない。だから喩え話や、卑近な事に換言して話したりする。これが世界中に、数え切れない程様々な種類の神話というものがある理由だ」
「ははあ……わかりやすくするためにそういう形式にしたわけですか」
先生が自らの作品について(極めて熱心に)語っていた時、似たような事を言っていた気がする。
曰く先生の書く小説というのは、他人にもわかるように書いた結果、先生の頭の中に本来あったものとは別のカタチになっているのだそうだ。
「そう。でもわかりやすくなる、っていうのは既に別のものになってるって事だ。これは常にそうなんだよ」
『あっ、また先生と同じこと言ってる』
どうも筧さんが言う事と、先生が言う事は似ている事が多い。
カタチは違えど変人同士、何か似通ってくるところがあるのだろうか。
「さっき君も言ってたけど神様同士がケンカしてる話しが多いのは、それを祀ってる人間同士が戦ってたからだ。上代においての歴史というのは、だいたい精神的体験と実際の経験がごっちゃになってる」
「どうしてでしょうか? 実際の事だけ書くほうが簡単そうなのに」
「二つは等価のものだから」
筧さんは間髪いれずに言った。
「喩え話というのは、似ているもの同士で行うので成立する。ところで人は何事かを説明したり、伝えたい時にはほとんど無意識の内に対立の形式を選ぶ事が多い」
「あ、ああ、聞いた事ありますよ、なんか色々対決させたりしてこう、お話しを盛り上げたりするんですよね」
そういうような事を何かの本で読んだか大学で習ったような気がするので、相槌で言ってみたのだが、筧さんは渋い顔で首を振った。
「違う違う違うってば。そんなに硬く狭く考えないで。もっとゆるゆるでいいんだ。ええーっと、言い方が悪いか。そんなに真面目に考えないで」
私はよくわからないが、はあ、と返事をしておいた。
「そんなに直接ブッつかるようなのでなくてもいいんだよ。例えばそうだな、厳しさと優しさ、形式と奔放。一見正反対のものでも実際はそうでもない。でも便宜上は対立しているように表される事が多いだろう?」
筧さんは聞いている私を見て、ちんぷんかんぷんらしい、と分かったらしく、困った顔になった。




