12.邂逅・先生編
「ハッハッハ。ごめんごめん」
筧さんは可笑しそうに肩を揺らした。この人はこの人で、また先生とは違った意味でタチの悪そうな人である。
「まあ、頭の片隅にでも置いといてくれたらいいよ」
筧さんはこう言って話しを締め括った。言い方からして、矢張り全くの冗談というわけでもなさそうだ。
『あんまり気にしないようにしよう』
私はひとまず、筧さんの言った事は脇へ置いておく事にした。どうも簡単に答えの出る問題ではなさそうだ。
「あなたは何をしているの? 大声出して」
「わっ!」
呆けていたところだったので、いきなり声をかけられて驚いた。
先生である。筧さんと話し込んでいる間に近づいていたようだ。
「あ、あの、先生。いえ、ちょっと。この人、筧さんていうんですけど」
「どうも、こんにちは」
私が言い終わるか終わらないかのウチに先生は、軽く会釈して筧さんに言った。
「こんにちは」
筧さんも愛想よく笑顔で挨拶を返す。どんな人間にでもニコニコ顔が、この人の基本のようである。
「あの、聞いて驚かないでくださいよ」
「私は滅多な事では驚きません」
先生は眉一つ動かさずに言い放った。
「これ、あの先生の貸してくれた本あるじゃないですか」
私は例の『菱花像』の表紙を先生に向けた。
「早く読みなさいよ」
先生は少し苛ついた調子で言ったが、私はかまわず先を続けた。
「この本書いたのって、この人なんですよ。筧さんって方で」
先生がすっと顔を向けると、筧さんは笑顔で会釈した。
「あなたね。常識で考えなさい。この本出版されたのってもう二十年くらい前なのよ」
先生は真剣な面持ちで私に諭した。無理もない。
「いえ、そう思うのもしょうがないと思うんですけども……。ねえ、筧さん。若作りだってよく言われるんですよね?」
「うん」
筧さんは気持ち良く肯定してくれた。
「本当に、あなたがこの本の著者なんですか?」
「そうですよ」
筧さんは変わらないエビス顔で、先生の問いに答える。
「あの、申し訳ないんですけど、冗談みたいに聞こえるから真顔で言って貰えますか?」
私は、小声で筧さんに頼んだ。
「大丈夫だよ」
私が頼んだにも関わらず、筧さんはちょっと楽しそうに返した。
「ちょっと」
先生は私の腕を引っ張って離れた場所へ連れて行った。
「何? 本当にそうなの?」
「そ、そうってどういうことです?」
「だから、あの人が菱花像書いたの? って訊いてるの」
「そう言ってるじゃないですか」
それを聞くと先生は、私の手から菱花像を引ったくり、ツカツカと筧さんに歩み寄った。
「すいません」
「はい」
先生は筧さんに菱花像を示し、
「あの、不躾ですけど、これを書かれたのはあなたである、というのは本当なんですか?」
と言った。
「本当ですよ」
やっぱり筧さんは気さくに答える。
「あの、失礼ですけど、それは嘘ではないですよね?」
「嘘じゃありませんよ」
堪えきれなくなったようで、筧さんは忍び笑いを洩らしながら答えた。
「質問があるんですけどいいですか」
「ええ。どうぞ」
先生はいつになく慎重な態度で、菱花像の表紙を指差しながら話しを続ける。
「この『遍々道人』というペンネームは、どういう意味でつけたのでしょうか?」
「ああそれ」
筧さんは、懐かしそうな声を上げた。
「当時の友達がつけたんです。僕はその、故あって常に日本中を旅してこういう事して回ってるんですけど」
筧さんは、足元の石塔群を示すように手をかざしながら言った。
「だいたい全国のどんな道でも通った事あるから、そういう名前にしようとか、そんな話しじゃなかったかな、多分」
「っ!」
私は肩が抜けそうな程の力で、後ろへ引っ張られた。勿論先生である。
そのまま、再び離れた場所へ連れて行かれた。
「あの、こんな何回も行ったり来たりしてたら変に思われ……」
「あれは本物だわ!」
先生は私の両肩をがっしり掴んで、揺さぶりながら言った。
「な、何が決め手になったんですか?」
やっと信じてくれたのは嬉しいが、態度を変えた理由は気になった。
「あのペンネームの由来よ!」
先生は興奮して、また私を身体をガクガクと揺らせた。
「私はずっとあのペンネームには疑問を感じてたの。内容との違和感があると思って」
「はあ」
私は返事をしながらも、実は先生の感覚をよく理解してはいなかった。
私としては、著者名と内容にそれほど落差を感じなかったからだ。
「他人が決めたペンネームだったのね。それで納得だわ」
先生はウンウンと頷きながら、感極まっている。余程嬉しかったのだろう。
「なるほどねえ、言われてみれば何かしらあの姿には気品を感じるわ。香気というか」
先生は、ちらっと、背後の筧さんを見ながら言った。私も思わずつられてしまう。
「全国を旅しながら文章を書いてるなんてのも雰囲気あるじゃないの。山頭火というかランボーというか。怒りのアフガンじゃないわよ」
先生は溌剌とした笑顔でまくし立てている。段々と自分のイメージと実物を重ねてきているのであろう。
比例して興奮の度合いも高まっていた。
「どちらかというと『無能の人』に近いような……」
私は筧さんに聞こえないように小声で言った。売っているわけではないが、河原で石を配置している、という情景と合わせてそう感ぜられたのである。
「なにそれ?」
先生はまことに快活な調子で問うてきた。マンガは詳しくないのだろう。
「いやまあ、その」
私は言葉に窮し、口を濁した。余計な事を言ってしまったものだ。
しかし運のいい事に、先生の私に対しての興味はそれほど持続しなかった。
「あの、すいません。質問があるのですけど、これはどういう意図があって書かれたものなのでしょうか?」
先生は、菱花像を筧さんに示しながら言った。
『ファンでもそうでなくても、疑問点はそんなに変わらないな』
私がそう思っていると、筧さんは益々相好を崩しながら、
「ああ、あのね。それはそのまま書いたものなんです」
と、即答した。
先生は言葉に詰まったようで、目をしばたかせながら黙っている。
心の中で筧さんの答えを反芻して、意味を探っているようであった。
「そのまま、と言いますと」
先生は考え考えしながらようやっと口を開いた。
「心中で浮かんだそのままを、加工せずに書かれたという事でしょうか?」
筧さんは、可笑しそうに目尻を下げた。そのまましっかりと先生を見つめ、観察しているように見える。
「いえ、そのまま。私が見たそのままを書いたんですよ。あれは」
先生の顔から表情が消え、黙り込んでしまった。なかなか見られない光景ではある。
『筧さんもわからない言い方する人だからなあ』
私にも、先生の気持ちは分かる気がした。多少の緊迫感を孕みながら、対面は続く。
「見たと言ってもこう、ああいうものが実際に見えた、というわけではないんでしょう?」
先生は真剣な面持ちで重ねて訊ねた。
「いえ、実際見えて、それをそのまま書いたんです。だから深い意味はありません」
先生は私の首に腕を回し、反対側の肩を掴んだ。結構な力である。
「い、痛い痛い痛い。先生痛いです」
そのまま一回転して二人で後ろを向いた。筧さんに背中を見せる形だ。
「……変な人?」
先生は私を押さえつけるようにしながら、ぼそぼそと耳元で囁いた。
「変な人です」
私は即座に応じた。
先生は、開いた掌で人差し指を額に当てた。その姿勢ですっくと背を伸ばす。
じっと顔を見てみると、眼を閉じているように見えた。
同じ姿勢でふらふらと歩を進めた。
やがてバチャバチャと水音が聞こえ始める。
「あれ、いいの? 入水してるみたいに見えるけど」
筧さんは笑い声を上げるのを堪えているようだった。が、顔は笑っている。
「多分大丈夫……だと思います」
今、下手に先生に近づくと危なそうなので、私はそう言っておいた。
まあ、おそらく完全に正気を失っているという事はないだろう。
「遅くなりました。すいません」
「あ、ああ」
何となく私が返事らしきものをしてしまったが、私に向けられた声ではなかった。
「いいよ、別に」
筧さんが拘らない様子で返答している。
私達の間で一悶着あった間に、誰か河原に降りてきていたようだ。
目鼻立ちの通った、すっきりした感じの男の人が天幕の外に立っていた。
この人が、筧さんの言っていた友達のようだった。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは」
私が声をかけると、その人も返してくれた。
筧さん同様愛想の良い人だったが、少し印象が違う。もうちょっとメリハリの効いている感じだった。
「この方は?」
その人は、私から筧さんに視線を移しながら訊ねた。
「え? ああっと、地元の人じゃありませんよね? 観光ですか?」
筧さんは、今更改まって私に向って質問してくる。
「はい、そうです」
私達のやりとりを聞いて、後から来た男の人が妙な顔をした。
「観光? こんな何もない場所にですか?」
私は思わず苦笑してしまう。
「何もないって。いいんですか? 観光協会の人がそんな事言って」
男の人は、益々わからなくなったような調子で、
「観光協会?」
と鸚鵡返しに言った。
「筧さんがそんな事を言ったんですか?」
今度は筧さんに訊ねている。どうも筧さんもこの人も観光協会の人ではなかったようだ。
「ううん。言ってないよ。僕は日本中を旅して回ってこういう事やってる、って言ったんだ」
筧さんは再度周りの石塔を掌で示した。
「あ、すいません。その、そういうの冗談だと思ってて」
私は慌てて言い繕った。どうも筧さんは、たまには本当の事も言っているらしい。
「ああ、気にしないでください。この人変な人ですから」
男の人は、私に微笑みながら言った。
「ひゃあっ!」
私は、会話の流れを断ち切って頓狂な声を上げてしまった。首筋から肩にかけて、何か冷たい物が当たったのだ。
「ぎゃあー!」
振り返って二度驚いた。
水を滴らせた先生が後ろに立っていたのだ。私の肩に手を置いている。
どうも頭から水を被ったようで、体中がさめざめとしていた。
顔は隠れて良く見えず、髪の毛のおばけのようになっている。
「帰るわよ」
「はいっ!」
先生が強く、有無を言わせない調子で言ったので、私は思わず反射的に返事をしていた。
「あのっ! 色々ありがとうございました!」
私は慌ててさっさと帰路を辿る先生について行きながら、筧さんと男の人にペコリと頭を下げた。
筧さんはニコニコしながらこっちに手を振ってくれたが、友達の人は、既に何事か筧さんに向って喋り始めていた。
その口調に、何か苦いものが混じっている気がしたのを強く憶えている。
さて、ここから物語は一種の転調を迎えるわけであるが、一つ困った事がある。
読んで貰えればわかる通り、この話しは私が見たり聞いたりした事を記したものだ。
筧さんではないが、そのままである。全く手を入れていない。
ここまでは。
しかしそれでは、私が体験していない事が書けない。
かと言って、このまま私と先生の行動だけを追っていても具合が悪い。
おそらく読者にブツ切りのような印象を与えてしまうだろう。
物事には表と裏がある。この話しで言えば、私の直接見聞した部分が表。 それ以外が裏だ。
他の出来事ではどうか知らないが、この事件に関してだけ言えばおそらく裏の分量の方が遥かに多い。
よって甚だ不恰好、尚且つ不完全ではあるが、挿話的にある情景を差し挟む事にしよう。
これは全てが終わったのち、筧さんその他の人から私が聞いたものである。
言わばこの先の一章節は、私が他人から得た情報と憶測を元に、再構成した小説と思っていただければよい。
以後、こうした形式の文章が挿入される場合は、特に断りのない限り同様のものと思って貰って差支えない。
ちなみに、河原に来た筧さんの友達は、阿日留道彦さんという。
私も後から知った事だ。




