《序章》五
先王には一人、心底心を奪われた女が居た。それは儚げな一本桜のような美しい女。まさしく、村人の手によって死した女であった。
恐妻であった先王の正室は側室の存在を認めず、正室の前では小胆であった先王は、この女を側室に迎える事は叶わなかった。
それでも、恋い焦がれた女を手放したくなかった先王は、密かに女のもとへ通った。それを知っていたのはたった一人の側近だけであった。
女は先王を愛したわけではなかったが、その都度贈呈される品々を当てにしていた貧しい家族の為にその身を捧げた。
そんな事が長く続くはずもなく、やがて気づいた正室によって、女は山麓の村へと流罪にされた。
それからは既に語ったとおりであるので、それ以上に語ることはない。
さて、それを知っていた側近の思い出した事とは、まさにその密事であり、人の目を引く桜色の髪は見紛うことは無いと強く思うのである。その娘はまさに先王の隠し子だと堅く信じた。おそらく、王都を去ってから産まれたのであろうと。丁度齢もその辺りだ。
その事実を周囲に伝え、人々は神より示された天啓に違いないと口々に語った。その証拠に、白兎の薬は村を疫病から救ったのだ。
何よりも直系の血の繋がりを重んじ、加えて王妹殿下の即位を懸念した側近らの満場一致にて、ここに新王が即位した。
しかし、それを快く思わなかった王妹殿下は、先王の崩御は一本桜の女の呪いだと言い、千罪佳人と呼ばれたその娘をなんとか蹴落とす事だけを考えるようになるのだった。
王に即位した千罪佳人と呼ばれた娘は、母を亡くした日から、犬と虎と兎の前以外では滅多に笑わなくなっていた。そんな新王の放つ悲しくも冷たい眼差しに、人々の間でも様々な噂が流れ始める。
やはり母の呪いで先王は崩御なされたのではないか?
化け物の子である千罪佳人は、まさにそれこそが狙いであったのではないか?
もしや、その為に母をも手に掛けたのではなかろうか?
嗚呼……空 恐ろしい娘だ。
嗚呼……それでも尚、美しい。
瑞獣ですら虜にしてしまう魔性である。
その神秘的とも言える美しさと、携える獣達。そしてその罪深さ。皆、恐れながらも心を奪われ、新王を畏怖と敬意と蔑視に近い思いを込めて、【千罪姫】(センザイキ)と呼ぶようになる。
それは敬称であったのか、蔑称であったのか。まだ若い娘であったので、敢えて姫と付けたのだが、新王に対する呼び名としては、やはり蔑称であったのだろうと考えられる。
さても、さても、神の思惑に脱帽するばかりであるが、ここで完成というわけでもないようだ。
既に語られていることであるが、神は一本桜の女を傷つけた人々を憎み、直接的な死因の要因であると決めつけた千罪姫を憎んでいる。よもや憎んだ我が子に王位を与え、人々からの憎しみや恐怖や好奇を更に浴びせ、その心を痛めつけるだけが思惑ではなかろう。それだけであれば、薬師の兎を与えずとも、天啓にて娘の存在を明かせばよいだろう。ただ、それは天啓と呼ぶにはその意を遥かに僭越している。
神は狂気に囚われ、禁忌を繰り返す。それこそも、思惑のひとつであると言うように。
王位に付いた千罪姫は母を亡くした際の悲しみや怒りを決して忘れることはなかったが、やはり復讐というのは毛頭持ち合わせておらず、王位を利用して私欲に走ることもなかった。ただそれでも怒りと悲しみは深く浸透し、憎む心との葛藤を続けてはいたのだ。
千罪姫は先王の妹君やそれに組みする一派から、反感と反発を一手に受けた。どれだけ卑劣な事をされても、千罪姫が制裁を下す事はなかった。山小屋にいた頃は母に護られた自分の命を、易々と他人にくれてやるわけにはいかぬと必死であったが、今はその頃とは持ち得る権限が違う。それを重々理解していた千罪姫は、迂闊な行動はとれないと思っていた。その些細な行動ひとつで、簡単に人の人生を狂わせてしまう重みを感じていた。