《序章》一
とある女が化け物の生贄として差し出された。
暗く冷たい山の洞窟の中で、女は泣きも怒りも、ましてや笑いもせず、ただ祈り続けた。ただひとつの存在を信じて。
それについては、まずこの女について語らなければならないだろう。
まず、女はとても美しかった。積もり始めた雪ような、白く透き通る肌。控えめな唇は紅を必要としない鮮やかな色を湛え、優しげな大きな瞳は不思議と緋色を帯びている。それに影を落とすように長い睫毛が添えられていた。何よりも人々を魅了したのは、桜色の長い髪だ。それは、どれだけ厳しい寒さの冬でも、狂い咲く一本の儚げな桜のようだった。
女は王都にほど近い山麓の村に住んでいた。村の中でも、集落の中心より少し離れたところにひっそりと。あまり多くを語らず、非常に真面目に畑仕事に勤しんだ。
そんな女に、村中の男達が惹かれたのは言うまでもない。それは若い青年のみに限らず、妻帯者に至っても同様に。当然、それを村の女達は快く思わなかった。
それでも女は慎ましくも平穏に暮らしていた。女は生来温和な性格で、その上人と関わることを極力避けていたので、争い事の火種となる事も巻き込まれる事も無かったのだ。勿論、女は男を誑かすような事をしなかったし、その容姿を何かに利用することも無く、時には顔に泥を付けても気にせずに真面目に働いた。
しかし、そんな平和な生活も長くは続かなかった。連日の日照りで不作に見舞われたのだ。女は毎日天の神に雨乞いをした。それはそれは、とても熱心に。
一方、村人の間では、山に住む化け物の仕業ではないかと騒がれていた。その村では昔から、山に恐ろしい魔物が住んでいると伝わっていた。その化け物は女や子供を好むとされ、飢饉や災害の際には決まって村の女を一人、贄として山の洞窟に閉じ込めた。そして、今度の干ばつに関しても村人達は同様に生贄を捧げるつもりであった。
村の女達は言った。
「あの狂い咲きの女がやって来てから、徐々に雨が降る日が少なくなった。」と。
男達も、よもやあの女のせいではあるまいと思いながらも、己の妻や子供を奪われるのを恐れてそれに賛同した。
こうして、女は謂われのない責を負うこととなり、生贄としてこの暗く冷たい洞窟に閉じ込められた。
洞窟内は酷く寒く、じめじめと不快な湿気が漂う。これまでに贄として差し出された女や子供の遺体が朽ち、骨となって転がっていた。きっと、ここで待っていれば誰かが迎えに来てくれると信じたのだろう。或いは、何とか外に出ようと試みたのか。
唯一の出入り口は塞がれていた。女は奥に進むことにした。確かに、これまで生贄を捧げると、不思議と次第に村の悪状況は緩和された。それを聞いた女はその話を信じたのだ。
女に与えられたのは数日分の食糧と、数本の蝋燭、それに火打ち石のみであった。心許ない細い火で灯りを取り、そろそろと洞窟の奥へ進んだ。その先に何かがあると、ただ信じた。世話になった村を救いたいと、心から思った。
最奥には湧き水が溜まった湖があったが、それ以外に変わったところはなく、勿論出口らしきものも見当たらなかった。
その湖は光の射し込まない暗い洞窟の中で、何故だか柔らかい光を纏っていた。その色は淡く瞬く翡翠のようだった。水そのものが発光しているのか、その底に何かが潜んでいるのか、はたまた女が気づかないだけで何処かから光が漏れているのかは定かではなかった。ただ、女は神秘のその場所で祈った。
神に救いを求めた。
ただただ、信心深く。
ただただ、祈った。