四
どうにも寝つけないのは、きっとあんな場面に居合わせてしまったからだ。
その前後、朔夜と雪葉がどんな話をしていたのかまでは知らない。
朔夜は追いかけてきてくれた。でもどんな顔をして会えばいいのか、見てしまったそのことをどうやって訊いたらいいのか。そもそも尋ねていいことなのか。
それすらもよく分からなくて、結局会えなかった。障子越しに答えただけだ。
『……何か御用だったのではありませんか?』
『大丈夫よ。たいしたことじゃないから。……また次でいいわ』
本当は何も考えられなくて、質問しようとした陰陽術の書物のことも頭から飛んでいた。
蘭は脳内から離れない光景を追い払おうと、二、三度寝返りをうつ。
朔夜が蘭の守り役につくようになってから、主従関係が明確になるにつれ、どこか遠くなっていく彼の優しさに一喜一憂して。
でも、やっぱり昔とは違う。撫でてくれるあの手が好きで、温かな声が好きなだけなのに。
柊の邸に泊まった夜、朔夜が言っていた言葉が脳裏をよぎる。
『私は――男ですよ。あなたももう、十七の女性だ』
そう、何もないはずがない。雪葉のことは別にしたって、朔夜だって男だ。他に女性がいるかもしれない。彼にとって大切な人が他にいるかもしれない。
でも、でも、黒水晶のようなあの瞳が、自分以外のだれかを見ていると思うと耐えられない。重く大きな岩がのしかかってきたような、嫌な感情。あの手がないのかと、あの声が聞けないのかと思うと寂しくて、悲しい。
それと一緒に名前も知らないだれかに向けるこの感情が、肥大して心細くなる。
幾度か瞬きをすると、視界が滲んだ。泣くまいと目をこする。ふと大好きな笛の音が聞こえ、ぴくりと身体が反応した。
静かな空気に澄み渡るようなこの音は、きっと朔夜が吹いているはずだ。なによりこの曲調は彼がよく奏でているもの。間違うはずがない。
起きあがるとそばに置いてある小袖を羽織り、そっと障子を開ける。
今日は少し雲があるが、足元に困るほどではない。月明かりが池と松の木を照らし、風が吹くと朔夜の癖のない髪が揺れる。
人気がなく静かな空気が、笛の音を鮮やかに響かせた。
本当にどんな顔をすればいいのか、なんて声をかけていいか分からない。でも少しだけ、彼のそばにいたかった。
いつでも庭へおりられるようにと用意してある草履を履き、朔夜のそばへ歩み寄る。
蘭は木へもたれるようにして座った。木を挟んだ反対側に、朔夜がいる。
いつもどおり隣へ座ればいいのに、それができなかった。
――そうよ、あんなの。きっと事故よ。だって、そうでなきゃ姉上だって結婚、してるんだから。
事故だという自信も確信も確証もない。けれどそうでも思わなければ、ここにいられる気がしない。名前も知らないだれかに抱いてしまった感情を、制御しきれる自信もないから。
自身を抱えるようにして両腕の衣をぎゅっと握る。
そんなことを考えながら、笛の音を聴いているうちに曲が終わった。
数呼吸ほど沈黙がおりる。風と木の葉の揺れる音だけが聞こえ、やけに静かに思えた。
「風邪、ひきますよ」
「ちょうど寝ようとしたら、笛の音が聞こえたのよ。だから……」
あとが続かなかった。今までならこんな時、どうしていただろう。
「先日に続いてあんなことの後でも、聴きたいと仰ってくださるのですか」
「……分かんない。でも、笛の音は好き」
それは本当だ。朔夜が吹いた笛の音色に曇りはなかった。いつもの、初めて聴いて以来、蘭が好きなあの音色だ。
顔を向ければ朔夜もこちらを向いていて、視線が重なる。
「雪葉姫との一件は私の本意ではありません。たとえ何があろうと、私はこの城からも、蘭のそばも離れるつもりはありません。ですが、見てしまわれた以上、お話しなければなりません」
朔夜は雪葉に蘭の守り役をやめて、嫁ぎ先の城へ来いと言われていると告げた。それを断って、押し問答しているうちの事故だと説明した。
なんであれ、彼がことの発端ではない。蘭はその事実にほっとした。知らずに深く息を吐いていた。
「……心配かけてしまいましたか、蘭。もっと早く話すべきだったのかもしれませんね」
朔夜は蘭の頭に手を伸ばそうとしたが、すぐにその手を戻した。それに蘭も気づく。
行き場をなくした手を一度ぎゅっと握ると、朔夜は再び笛を奏で始めた。以前なら撫でてくれただろうが、朔夜はそれをしなかった。
羽令が亡くなって、周囲が変わろうとしている。だから自分も変わらなければならないのだと思う。辛くないといえば嘘になるし、悲しく寂しい。いくらそう思っても、心の奥深くに押しこめなければならない時が近づいている。
悲しくて寂しくて、変わらないままそばにいてほしいと願っても、私はこの国の姫だから。
毅然と、強くなければ、水樹にまで心配かけてしまう。
いっそ、姫でなければ。国主の娘に生まれなければ、もっと正直に――。
ふと人影が屋根のうえから飛び降り、駆け寄ってくる。目を丸くしつつも、よく見るとそれは知った顔だ。
「やあ、蘭姫。まだ起きていたのかい?」
顔がはっきり見えてくるにつれ、蘭は片手で拳を握りふるふると震える。
考えを邪魔されたのもそうだが、もう少し、もう少し空気を読んだ登場の仕方ができないのか。つい数刻前には、少しだけ彼に対して違う見方ができたような気がしていたが、それも気のせいだったようだ。それが悲しくもあり、やはりなと思う諦めの両方が混ざり、蘭としては複雑な気持ちだ。
その声の主がそばまで来たかと思うと、勢いよく立ちあがり襟元をつかみ、がくがく揺らした。
「だからあんたは……毎回毎回、もうちょっとまともに入って来れないの!」
「この時間にまともな道を通っても、入れてくれないだろう」
「当たり前でしょ! 門も何も閉まってるわよ!」
当の柊はさして気にもせず、あははと笑う。
そこへ朔夜は嘆息して、立ち上がった。
「御用件は? ……と、訊くほうが間違ってるような気がしますね」
「さすがは朔夜。ようやく分かってきたようだね!」
朔夜の声に視線を向け、柊はうむうむと頷いた。
「……いえ、なんとなくでしかないのですが」
「何わけ分かんない話してるの! 用がないなら、さっさと帰りなさいよ!」
門のほうを指差して喚く蘭の肩に、朔夜はなだめるように手を置いた。
「蘭姫、皆が起きてしまいますよ」
朔夜の言葉に蘭は周囲を幾度か見回した。
だれも起きてこない様子にほっとして、再び柊へと向き直る。
「で、本当に何しにきたのよ?」
「用なんてないよ。本当に。君の様子を見にきただけさ」
「どういう風の吹きまわし? えらく素直じゃない」
柊のほうから訪ねてきた時は、神出鬼没に毎回といっていいほど恥ずかしい台詞と行動つきだ。
なのに今日は両方ともなく、真面目な様子の柊をちらりと見返した。
「心外だな、蘭姫。君に対して嘘を言ったことはないよ。……心配なだけさ」
「……なんか、今日はいつもに増して気持ち悪いわね」
柊は肩を落とし、頭をニ、三度振ると蘭の頭を数度撫でる。
「それだけ言えれば大丈夫そうだね。そんな格好じゃ風邪ひくよ。もうお休み」
「どうしたの? 大雨か大雪? 明日、槍でも降るの?」
蘭は幾度か瞬きをして、朔夜を見やると背を押された。
「降りませんよ。なんであれ、柊殿の仰るとおりです。今宵はお休みください」
「分かったわよ。……おやすみ、二人とも」
蘭は自室へと戻っていった。季節柄、閉めきるのは暑いため、几帳の向こうへと姿が見えなくなる。
数十の鼓動を数えるうちに、ふわりと風が吹いた。葉を揺らし、空を見上げれば雲が流れている。
柊は蘭の部屋を見たまま、息を吐いた。柊のほうが少し前方にいるため、朔夜の顔を見ることはできない。
「君がいれば心配はないようだね」
「なんのことでしょうか?」
「もちろん、蘭姫のことさ。あんな顔、初めて見たよ」
そう、初めてだった。あんな、弱く泣きそうな顔を見たのは。
泣き顔なら何度だって見ている。それとは違うのだ。人恋しさを含んだ、心細げな、隣にいてほしいのにそうと言えずにいるような泣き顔。
暗視の術をかけているとはいえ、遠目だったから違うかもしれない。惚れた欲目かもしれない。
でもあんな顔は、本当に見たことない。
「……どこからご覧になっていたのですか?」
「蘭姫が部屋を出てくるあたりから。……逢瀬はばれないようにしないとねぇ」
これにはさすがの朔夜も呆れ、嘆息したが続いた言葉に視線をそむけた。
配下の忍から報告はあった。ここ最近、朔夜との関係に迷っていた節もあるようだし、今は落ち着いても後々大事に至らなければいいのだが。
――とか思ってたら、完全にいい人だよねぇ。
本当に彼女を好きで幸せを願うなら、許婚として男としてこの一件では、朔夜を殴り倒すくらいの権利はあると思っている。だからといってそれを実行しては、悲しむのは蘭なのだ。泣き顔は見たくないし、そんな思いをさせたいわけでもない。
柊は振り返る。
「姫自身は気づいていないのか、それともあえて我慢しているのかは分からないけど。他のだれでもない、君がいいと言ってるんだから。もう少し考えてあげてもいいんじゃないかい?」
本当は自分の出る幕などないと始めから知っていた。
でも彼女のそばにいたいと思ったのも本当で。
なんの欲も映さず、ただ心のままの彼女の笑顔が、こうも自分の心を縛るなんて最初は思いもしなかったけど。
許婚の話がある前から、ずっと見ていた。だから縁談の話を聞いた時は、純粋に嬉しかった。
朔夜にはぴしゃりと返される。
「あなたには関係のないことです」
確かにそうだ。二人の関係に口を出す筋合いではない。ある一線を除いては。けれどそれを口にしたら、きっと壊れる。彼女との関係も、朔夜との関係も。
「ああ、そうだね。言い過ぎたよ、忘れてくれ」
柊は片手を振り、闇の中へと消えていった。
蘭はのろのろと瞼を開けると、見知った天井が目につく。
周囲は暗く、まだ闇も深い。気づけば汗をかいている。まとわりつくような、冷たく嫌な汗だ。寝返りをうつが、どうにも気持ち悪くてたまらない。
どうしてか落ち着かない。ついさっきまで落ちていた微睡は逃げ、心がざわつく。それでもどうにか寝つこうと試みるが、幾度か寝返りをうつ。それも徒労に終わると察すると諦めた。
蘭は起きあがり夜着から抜けでる。
夜風にでも当たろう。外の空気を吸えば、また気分も変わるだろう。
夏の夜空、月と星が庭を照らして、水面が時折光る。冬は寒くて見られないが、これからは松の下まで行って夜空を見ることもできる。
そんな光景を想像しながら、そっと障子を開ける。
――あれ?こんな暗かったっけ?
頭に描いたものと違う景色が障子の向こうに広がっていた。
闇だ。言葉どおりの深く暗い闇。何も見えず、何も聞こえない。足元すらも覚束ないような、重い闇。
「……今日って新月だったっけ……?」
床につく前、確か朔夜が庭で笛を吹いていて、それを聴きに庭へ出ただから空も見ているはずなのに、どうにも思い出せない。
「蘭……蘭……」
蘭は聞こえた声に、顔をあげる。
それは聞こえるはずのない声だ。今はもういないはずの声。
目が合った。蒼白の顔色で、単を着ている。膝をつき、肩で息をして苦しそうだ。白髪の混じりで、よろよろと手を伸ばす動作はとても戦国の英雄とは思えない。
「……父上! 父上!」
思わず蘭は駆け寄った。父の手を握り支えると、蒼白の顔色がなお分かる。
「蘭……私の娘」
「はいっ……父上」
涙目で羽令の背をさする。
心の奥底で警鐘がなった気がした。これは違うと。
けど目の前の状況がそれを霧散させた。無視などできるわけがない。
「……蘭、近……に……き……が……」
続きは音にならず、羽令は吐血し、そのまま倒れこんだ。
咄嗟に父を支えようと、位置を変える。
「父上! 父上! 嫌です! 置いて、いかないでください……っ!」
闇のなかのはずなのに、血の赤がやけに鮮明だ。濃く紅いそれは、花弁を散らしたようで。
抱きかかえるようにして、羽令を揺するが応答はない。
羽令の衣についた血が、蘭の片手にもついた。
視界が滲んで、身体中が震える。頭のなかが真っ白で、ただ目の前の状況が信じられない。
涙がいくつも落ち、衣に染みを作った。
『――会いたいとは思わないか?』
耳元で囁かれる。
羽令でも、朔夜や柊でもない声。なんの迷いもなく、心のなかに響いてきた。
『もう一度、会いたいだろう? その暮らしから逃れたいのだろう?』
声が出ない。
会いたくないわけがない。会えるのなら、何度だって。
なのに、声が出ない。
ふいに後方から蘭の首に手が回される。冷たい手だ。指が蘭の顔の輪郭をなぞった。
『おまえの願いはなんだ? 望みはなんだ? それを叶えてやろう』
願い、望み。それは。
羽令ともうひとり、顔が浮かんだ。けれど見てしまったあの光景が頭をよぎる。あれは事故だ、本人もそう言ったではないか。気にすることはない。
だから、もしも、この生活から逃れられるなら。
知らないはずのその声は、甘やかな囁きに聞こえた。全てを忘れ、その囁きに身を委ねてしまったなら。
再び他に人の気配はしないはずなのに、またもうひとつ、別の声が聞こえた。
深い悲しみと甘い囁きを含んだ夢。けれど最後に聞こえた声、あれは。
「……――蘭っ! 蘭っ!」
蘭は朔夜の声で重い瞼を開けた。目の前にいるのは、狼に似た大きな獣。白銀の毛に赤い目をした獣が片足で蘭を押さえ、鋭利な爪を向けている。
夜の闇の中、無感情な獲物を見るような赤い瞳と目が合い、蘭は声すら出せずにいた。
「……っっ!」
「さすがは術士といったところか……」
獣は首だけを後方へ向け、廊下から駆けつけた朔夜見やる。
「おまえは……九尾の、狐か」
蘭から獣の顔や前足しか見えないため分からないが、九尾の狐という名は聞いたことがある。九つの尾を持つ狐。
ぽつりと呟いた朔夜に、九尾はじっと見据える。
「なるほど……ここにいたか」
「何のことだ?」
「知らぬか……よい、ならば今は去るとしよう」
九尾が言い終えると同時に風が吹きこんだ。その風に目を開けていられず、蘭は反射的に目を閉じる。積み上げている書物がめくれ、ぱらぱらと音を立てている。次第に風が止み、目を開ければ九尾の姿は消えていた。
駆け寄る足音に蘭はゆっくりと顔を向ける。
朔夜が青ざめた顔色で、こちらを見るとそばで膝をつく。
「……蘭、大丈夫ですか?」
重い頭でどうにか頷くと、それを最後に蘭の意識は暗転した。
蘭が蛞蝓のような妖に捕まれたあの痣は、餌の印となっていた。先ほど朔夜が確認すれば、一寸ほどしかなかった幅も倍に広がっている。なんらかのきっかけで呪詛が発動したのだろう。それと一緒に、痣も広がったと思って間違いない。
「あれは九尾の狐。九つの尾をもち、人を喰らう妖」
「また面倒なのが出てきたものだね」
「なんらかの仕掛けで他の者を眠らせたまま、蘭姫を襲うつもりだったのでしょう。おそらく、目撃された妖も九尾の手下かと」
「幸い、術士だった朔夜には効かなかったというわけか。姫が狙われるとなれば、黙ってるわけにもいかないだろう。また城内が荒れるかな」
「……ある伝説を耳にしたことがあります」
九尾の狐。
いまだ鬼との戦が続いていたころ。今はなき宮中に宮仕えすることとなった女性がいた。名を玉藻前といった。その美しさから寵愛され、契りを交わす。その後、当時の天皇が次第に病に伏せるようになり、陰陽術士が診ると玉藻前によることが判明。術士により正体を明かされた玉藻前は、九尾の狐の姿で宮中を脱走。行方をくらませた。
その後、行方を追いどうにか追い詰めたものの、相応の戦力を失った。倒された九尾の狐は巨大な毒石に変化。近づく村人や動物の命を奪っていった。そうしてその毒石を人々は"殺生石"と呼ぶようになる。長く人々から恐れられていたが、ある高僧により、石は破壊され欠片が全土へ飛散したとも言われていた。
「灰老の都に近い海岸。毒石があったとされる場所は、浅瀬です」
「よく知ってるね。戦が終わって十一年とはいえ、隣国だった言い伝えや伝説って、変事でもない限り詳細には流れてこないものだけど」
気が遠くなるような昔、戦国となるころより更に以前、宮廷が存在し天皇家があった。歴史の変遷とともに天皇家もなくなり、宮廷の面影も消えた。陰陽術士も本来は宮仕えの職務だ。そうと知るのも、今では数少ない。
「以前、あちらにいたこともありましたので。都のそばの山奥で、九尾の狐を祭る社があったそうです」
もちろん、黒基に来る前、蘭に拾われる前のことだ。
無論、後世に伝わるなかで脚色され、伝説どおりの一件が現実に存在したわけではないだろう。そうはいってもこの手の伝説はあながち馬鹿にもできない。でなければ、実際に九尾の狐が目の前に現れた説明がつかなくなる。
もっとも人の力が及ばない妖の世界では、説明のつかないことのほうが多いのだが。
「なるほどね……知らなくても無理はないか。今は併合されたとはいえ、一昔前まで隣国だったならなおさらだ。……で、君はどうするつもりだい?」
「蘭姫が妖につけられた痣は餌の印。あれがある以上、必ず行動するはずです。その出方を待つほかないかと」
なにせ九尾の居場所が判明していない以上、他に手はない。
黒基にも九尾に関する伝説や言い伝えは存在する。社や祭壇が荒らされると、報告が来るようにはなっているがそれもない。ひとつひとつ確認することも可能だが、できるなら術士が向かったほうがいい。そして残念ながら、そうするほど術士の数は多くないのだ。
「他に手段はないか。ここまで大事となれば……君にばかり任せるのも悪いね。ここの結界は私がやろう」
柊は思案するように片手を顎にあてたが、すぐに言葉を続けた。
「そうですか、ではお願いします」
「朔夜……はっきり言うね」
「やると言ったのはあなたです。術士としての仕事において、そこまで遠慮する理由はありません」
朔夜にとって、柊は仕事の依頼人であっても、従うべき主でも上司でもないのだ。
陰陽術士が正式に職務として存在しない以上、術士としての上下関係も存在しない。
「それもそうだ。私と君はそんな仲でもないしね。灰老といえば、父が元は灰老が所有していた書物をいくつか持っているはずだけど、見てみるかい?」
「それは助かります。ぜひ拝見させてください」
「じゃあ、父に言っておくよ」
頷いた柊を見て、朔夜はさらに続けた。
妖気に慣れない身体ではどんな呪詛であれ辛いはずだ。餌の印としてつけられた痣は、邪気を放ち身体中を蝕む。だからそれを少しでも軽くするために。
「……もうひとつ、蘭姫に黙っていてください」
早朝、柊は蘭と水樹の居住区を囲む結界を張っていた。本当は二の丸全体を囲みたいが、そうすると今よりさらに、不特定多数の人間が行き来することとなる。出入りする人間が多ければ、妖が紛れこむ可能性も増えるのだ。それは避けねばならない。
朝ともなれば多少過ごしやすくなるが、日が当たる場所はじりじりと焼けるような気さえする。大広間と居住区を繋ぐ廊下のそばで、拍手の音が辺りに響く。その反響も聞こえなくなるまで、柊は微動だにしない。鼓動を十数数え、ようやく息を吐いた。
周囲に人の気配はない。もう四半刻もしないうちに侍女たちの行き来が始まるだろう。
蘭が起きてくるにはまだ早い。彼女が起きれば、用意した勾玉の首飾りも渡しておかなければ。
「……父上、珍しいですね。二の丸へいらっしゃるなんて」
ふいに視線を感じて振り返ると、その先にいたのは柊の父、華氷だ。
華氷は前国主、羽令とともに戦国時代を生き抜いた武将である。華氷の祖父の代から黒基に仕え、羽令と歳もそんなに離れていないため、乳兄弟として育ち華氷は側近のひとりとなっていた。
白髪混じりで髭を生やし、その歳から眦がさがり、ところどころ皺が刻まれている壮年の男性。淡い色の素襖を着て、かくしゃくとした動作は年齢を感じさせないほどだ。
父といっても華氷は育ての親。朔夜も蘭もそれは知っている。戦国最後の戦となった黒基と灰老の戦いの後だったため拾われて、もう十年近いだろう。今は書類や形式上だけのことではあるが、正式に養子となっている。
「仕事の都合でこの時間になってしまったが……姫さまのご様子をね。今ならおまえもいるだろうと思ったんだが……少し早かったかな。まだ起きておられないだろう」
「何かあるなら蘭姫にはこの後、私からお伝えしますよ」
「皆を黙らせるのに、今すぐの危険がないことさえ分かればそれでいい。おまえも落ち着いているようだし、老体に鞭打って盾になってくるさ」
「何度も言ってますが、もう十年充分働けるでしょう」
確かに今すぐ命の危険があるわけではない。
妖に襲われたことを知っているのは、華氷を含め古参の家臣のなかでも限られている。それでも聡い者は何かおかしいと問い詰めてくるだろう。
妖の正確な正体については華氷にのみ告げてある。いくら知っている人数が少なくとも、中途半端に知らせては余計な混乱を招くだけだ。
「ええ、今のところは。ああ、そうだ。朔夜が灰老関連の書物を見たいと言ってるのですが」
「そうか、分かった。準備しておこう。私の仕事の都合で申しわけないが、明日でいいかね?」
「分かりました。伝えておきます。……父上」
華氷は頷き来た道を戻ろうと振り返ったが、再び柊に呼ばれ立ち止まる。
以前から思っていたことがある。けれどいつ訊いたらいいのかも分からなくて。今なら人もいない。だれも聞いていない。羽令が亡くなって周囲が変わろうとしている今、逆にいい機会かと思う自分もいるのだ。
「ん? どうした?」
「……私と朔夜は、何か関係があるんでしょうか?」
「思い出したことでもあるのかい?」
「いえ……そうではありませんが」
華氷から視線をそらし、首を横に振る。彼に霊力はなく、陰陽術は扱えない。華氷には解らないだろう。
似ているのだ。自分の霊力と朔夜の霊力は。それを柊に告げたのは、なかでも親しくしている雑鬼たちだ。彼らは昔ほど数多くはないが、消えてしまったわけではない。
雑鬼たちには、朔夜に言わないでくれと頼んだ。明確な理由があったわけではない。術士としての勘だ。それに先日尋ねれば、血縁者は亡くなったと言っていた。
人間より敏感な妖が"似ている"言うのだから間違いないだろう。もっとも似ているかどうか、自分ではよく解らない。当然、朔夜も解らないはずだ。となれば、そこまで気にすることでもないのかもしれないが、朔夜と同じ現場に立つことをどうしてか避けてしまった。
黒基に来る前を思い出したくないわけじゃない。けれど、今の関係が壊れることも怖い。いつかは変わっていくものなのに。
別に妖から言われたことを隠そうとは思っていない。思っていないが、あえて言うことでもないとも思う。確信をつかむのは簡単だ。朔夜に問えばいい。だけど彼の様子を見るにつけ、どうしても訊きづらくて一年が過ぎてしまった。
気づけば頭をぽんぽんっと撫でられ、柊は顔をあげる。
「急ぐことはない。無理に思い出すこともない。ここまで来て拾い子だからと、だれも君を追い出したりしないさ」
――ああ、やはり勝てない。肝心なことは言っていないのに。
いつからか、血の繋がっていない義理の父であるはずなのに、自分の前に立っていた。
黒基に来て間もないころは、素性の知れない子だからと蔑む輩もいた。当時はそれに反発もしたが、華氷がすべて言いくるめ、様々なことを教えてくれた。
血が繋がっていなくとも、共に過ごした時間さえあれば、家族になれるのだ。
「姫さまが起きてこられるころだろう。もう行きなさい」
華氷は肩に手をかけ、柊の身体ごと向きを変えるとぽんっと背を押す。
それに深く頷いて、柊は蘭の部屋へと向かった。
なかったはずの結界が二の丸に張られている。手下の妖を通して見ている光景だが、確かに結界がある。
九尾は目を細めた。
この結界、覚えがある。この霊力は確かに、かの国の術士のものだ。
忘れるはずもない。人の身では大昔であっても、我らには昨日のことのように思い出される。
もう一歩のところで邪魔をした黒髪の術士とは少し違う。だが二人の霊力は覚えがある。
いや、正確には似ているのだ。どれほど憎んでもたらない術士の霊力に。
封じられるよりも以前、意識だけの存在であったころ。各地に散らばった我が祖先の身体に集まった様々な怨念が、かの国でひとつとなった。そうして、今の身体が形作られたのだ。
再び人の世に紛れ、餌を探し贄を求めた。そこに現れたのが、亡き国の術士。
奴はその昔、大樹の根元に我を封じ、社を建てた
だが、もしそうであるなら、二人は――。
「……それはそれで面白い」
ならば、妹を殺せと懇願したあの女に告げるという手もある。だがそれでは、面白くないだろう。人の世に興味はないが、この事実がどんな事態を招くのかは見てみたい。
憎んでも憎みきれないほどの相手が目前に迫っているのだ。逃す理由はどこにもない。
――余興にはなる。ならばいま少し、高みの見物をしていよう。