参
あれから数日が経った。柊の邸で一晩休んだあと、蘭は城へ戻った。あとから聞けば、朔夜が柊の邸まで蘭を運び、城には"用があって三の丸へ行ったが、遅くなったので柊の邸で休む"と蘭からの伝言として伝えたそうだ。
どうやらこっそり抜け出したことはばれていない。少々だるさが残っていたが、顔色も戻っていたため侍女たちからも特に何も言われなかった。
とはいえ体調が悪いことは変わらないので走り回らず、形見の整理をゆっくりやって一日を終えた。幸いその日は古参の家臣から小言をもらうでもなく、侍女から叱られることもなく済んだ。
もっとも"形見の整理に勤しむ娘"の図を想像すれば、そうそう邪魔をする者もいない。
朔夜や柊にいたっては、今回のことで少しはおとなしくなるかと期待していたようだが、そんなことはない。確かに恐かった。恐かったが、それで外へ出ることまで怖れていては何もできない、というのが蘭の言い分だ。それを姫君らしくないと言われればそうかもしれないが、これが自分だ。姫君らしくないのは他のことですでに承知している。だったらせめて、これしきのことで閉じこもっているよりは、普段どおり気にしないほうが侍女や家臣たちも安心するのではないか。
そう考えた結果だが、それでもやはり気になることはある。
あの妖はなんだったのか、見鬼のない自分にどうして見えたのか。さすがに今回は訊いてみたが、朔夜はただの悪戯だろうと笑った。だが明らかに、何か隠しているような気がしてならない。でもそれは陰陽術士の仕事だろうから、どれだけ尋ねてもきっと朔夜は話そうとしないだろう。
そうとなればもちろん蘭は打掛姿のはずがなく、小袖を着て髪を首の後ろでまとめたいつもの下げ髪だ。
今は朝餉を食べ終え、蘭と朔夜は水樹の部屋へ来ていた。陽射しが眩しく、蝉の声が聞こえる。
朔夜は部屋へ入らず、障子のそば、縁側で控えている。翌日から朔夜に変化はない。あの夜見たのは夢だったのかとさえ思うほど、彼は変わっていない。それがもどかしくて、でもどうしていいかもよく分からない。だからせめて、人のいるところでは普段どおり接しようと思うが、うまくできている自信はない。
水樹は数瞬、紫と藤色の組紐を見つめ、後ろで髪を梳いてくれる蘭へ顔を向けようとした。
「これ、朔夜が買ってくれたの?」
「前向いてて。ええ、ちゃんとお礼言わなきゃね」
だがすぐに正面へ直される。
蘭は褥の上で上体を起こしている水樹の髪を梳いているのだ。蘭の手首には妖につかまれた時にできた痣が、今も消えておらず白い布を巻いている。
朔夜がくれた組紐を早く渡したかったが、形見の整理や許婚の一件。さらには国主の席が空いている以上、決裁ができない案件が少なからずある。今のところ代理として、叔父が可能な範囲は決裁してくれている。どうしても国主の署名、つまりは現時点で跡取りとなる蘭か水樹の署名が必要なものもあり、少しずつだが蘭が背負う雑務は増えているのが現状だ。
そうこうしているうちに、水樹に組紐を渡すのが今日になってしまった。
今日は水樹の体調も良さそうだ。顔色も悪くない。
「うん。朔夜、ありがとう」
水樹は視線だけ動かし、礼を述べると朔夜が軽く会釈した。
「ところで姉上、少し調べ物があってどうしても必要な書物があるんですが」
「あ、父上の書物で何かいるものがあるの?」
「これなんです」
蘭は水樹の横へ移動する。
すると水樹はあらかじめ用意していたのか、書物の題を書いた料紙を蘭へ渡した。
それに目を通した蘭は、見覚えのある題に今朝、分けたばかりだと気づく。
「分かったわ。これなら朝のうちに分けたばかりよ。今、持ってきたほうがいい?」
「はい、お願いします」
「じゃあ、取ってくるわね」
蘭は立ち上がると、朔夜もそれに続く。
「待って、朔夜は残っててくれる? ちょっと分からないことあるから」
「……分かりました」
朔夜は一度蘭の顔を見る。蘭が頷いたため、そのまま水樹の元に残ることにした。
障子のそばから軽く手を振って、蘭は自室へ戻っていった。足音とともに気配が遠のく。
朔夜は水樹のそばに移動した。すると水樹は僅かに首を傾げて、問うてくる。
「分からないことって、ただの口実なんだけど……姉上と何かあった?」
「どういうことでしょうか?」
「姉上、いつもより朔夜と目を合わせようとしなかったからさ。多分、姉上自身はいつも通りにしてたつもりなんだろうけど」
「よく見ておられますね」
蘭が家族だからだろうか。それとも彼の性格だろうか。水樹は時折、驚くほどよく相手を見ている。あまりに気づきすぎるのも生きにくい。かといって鈍感でいては、人の上に立つことはできない。
小さな手もその瞳も、確かにまだ十歳の子どもなのに
「姉上、あれで分かりやすいから。気づかれてるとは思ってないみたいだけど」
「若君が気になさることではありませんよ」
「……――本当に?」
水樹はぎゅっと朔夜の衣の裾を掴んでくる。
その手をとって朔夜は、笑みを浮かべ頷いた。
意識して朔夜を避けていたつもりはない。ただ少し、蘭には朔夜と目が合わせづらかった。水樹は聡い子だ。もしかしたら、気づいたかもしれない。面と向かって聞いてはこないだろうが、心配させると思うと心が痛い。
とはいえ、鬱々した顔で戻っては余計に心配させるだけだ。気持ちを切り替えなくちゃと思い、深呼吸をして蘭は必要な書物を抱える。
自室を出て再び弟の部屋へ向かおうと、最初の角を曲がろうとした時だった。
「これは姫さま、ここでお会いするとはようございました」
「おじ上! お久しぶりです」
対向から来た壮年の男に笑みを向けて、ぺこりと会釈する。
白髪混じりで髭を生やし、その歳から眦がさがり、ところどころ皺が刻まれている壮年の男性。淡い色の素襖を着て、かくしゃくとした動作は年齢を感じさせないほどだ。
名を華氷。前国主、羽令とともに戦国時代を生き抜いた武将である。華氷の祖父の代から黒基に仕え、羽令と歳もそんなに離れていないため、乳兄弟として育ち華氷は側近のひとりとなっていた。
柊の父親といっても、華氷は育ての親。朔夜も蘭もそれは知っている。戦国最後の戦となった黒基と灰老の戦いの後だったため拾われて、もう十年近いだろう。今は書類や形式上だけのことではあるが、正式に養子となっている。
淡色の素襖で髷を結ってある華氷は、羽令と歳が近い。父の側近だったため、蘭が生まれる前のことも時折話してくれる。小さなころには遊んでくれたり、贈り物をくれたりとよく気にかけてくれた。非公式の場ではおじ上、と呼んでいるのもそんな関係からだ。
だからなのか、蘭は華氷に少しだけ父の面影を見ていた。華氷も蘭にたいして隔意があったこともなく、蘭の出生が疑われた時期もその態度に変化がなかった数少ない人物だ。
「何か御用でしたか? お知らせいただければお待ちしていたのに」
「いいえ、お顔を拝見にきただけですから。お部屋か若君のところと侍女から聞いて、いなければまた日を改めようと思っておりましたので」
先日羽令が亡くなってから、隠居したがっていると柊がぼやいていたと朔夜から聞いた。てっきり意気消沈しているかと思っていたが、さほど気落ちしているようにも見えない。思っていたより心配なさそうだ。
華氷のにこやかな顔がじっとこちらを見たかと思うと、心配そうな表情で続ける。
「……姫さま、最近気にかかることでもおありですか?」
「どうしたのですか? 突然」
「何もないのなら良いのですが、息子が姫さまの様子を見てくれと言ってきたものですから」
これには目を丸くして蘭も驚いた。柊を相手に隠し通せるとは思っていないが、まさかもうばれていたとは。
――まぁ、さすがに肝心の内容までは分からないだろうけど。
多分、喧嘩でもしたのだと、その程度の想像のはずだ。あの夜、蘭と朔夜以外、他に人はいなかったから。
「やはり……何かあるようですな。顔色も良くないようですが」
「おじ上……! 私はなにも……」
「無理に聞き出そうなどとは思っておりません。ただ……そうですな」
いくら相手が華氷とはいえ、朔夜の、それも先日の夜のことを言えるはずもない。
華氷も察してか、蘭を遮るようにして続けた。
「姫であろうとなかろうと、わが息子と朔夜殿にとって蘭姫さまの代わりになる者などいないと思いますぞ。それに長姫たる資質は、目に見えるものばかりがすべてではない。もう少し二人を頼ってみてはいかがですかな?」
優しい声音だった。真綿に包まれるような、温かなものが心に響いた。
華氷の言い分をちゃんと理解できたかというと、蘭には正直よく解らない。かといって反発する気も起きず、自然と入ってきたように思えた。多分、きっと他のだれに同じことを言われても、蘭は受け入れなかっただろう。華氷だから言えたし、蘭も聞き入れることができたのだ。
少しだけ、気が楽になったような気がした。
「はい……ありがとうございま……」
会釈して礼を告げようとした瞬間、視界が揺らいだ。
抱えていた書物がばさりと落ち、それを拾おうとして前のめりに倒れこむ。
「姫さま! 姫さま! お気を確かに!」
慌てたような華氷の声が遠くに聞こえた。
夢を見ていた。あれは父が生きていて、彼と初めて会った夏。もう十年前になる。
身なりもぼろぼろで、虚ろな瞳をして木陰にうずくまる彼を見つけたのだ。
少女は同乗している父の袖を軽く引き、馬の背から数尺先の木陰を指差した。
「父上、あれ」
その言葉に周囲の者と顔を見合わせながらも、同乗している男は彼女が指差した場所へ馬を進める。
ある山のふもと。道が整備されているとは言いがたいが、騎馬で走るには充分である。両端を木々に囲まれ、数人の護衛と父とともに少女は遠乗りに来ていた。
まだ日も高く、草木は深い緑に覆われている。木漏れ日が眩しく、木の葉が風にそよぐ。それに合わせて地面に届く光も揺らめき、少女の金髪がなびいた。
木にもたれ座り込む少年の近くで馬を止める。どうして彼女がこんな一介の民を気にしたのか、数人の護衛は困惑し、互いに顔を見合わせる。護衛のひとりが少年に声をかけようとしたが、少女の父親、壮年の肩衣を着た男が片手でそれを制した。
肩衣を着ている男が馬から降り、少女を抱き上げると馬から降ろす。男が手を離すと少女は少年に駆け寄った。
少女はそっと小さな手を伸ばす。少年の生気を感じない黒水晶のような瞳に少女の顔が映る。ぺちっと音をたて、頬に触れればまだ温かい。その温もりに少女の強張っていた体が緩んだ。
「――おにいちゃん、大丈夫?」
目の粗い麻の衣を着て、それも端々が破れ一介の民といった風貌。顔も手足も泥で汚れ、明らかにやつれている。村が山賊に襲われ、命からがら逃げ出した。そんな様相である。戦が終わったとはいえ、国境では彼のような者も珍しくない。
ここは国主の住む都に程近く、治安も回復の兆しを見せていた。少年は十二、三歳だろうがよくここまで逃げてきたものだ。国境からこの辺りまで百里は下らないはずなのに。
「姫さま、かような者に不用意に近づかれては……っ!」
「……よい。したいようにさせてやれ」
壮年の肩衣を着た男は、年若い青年を片手で制した。
座り込んでいる黒髪の少年は、ゆっくりと少女へ手を伸ばす。頭を数度撫でると、少女は目を細めた。
ふいに少年が何か言おうとしたのか、口を開きかけたが音になることはなく倒れる。
「っっ! おにいちゃん! おにいちゃん!」
灰老が黒基との戦に敗れ、島国全体で和睦がなされてから、一年が過ぎたある日のことだった。
ゆらゆらと、心地いい夢を見ていた気がする。大きな手が馬から降ろしてくれた。ああ、懐かしい夢だった。
横から入ってくる光と、真っ直ぐ見ればよく知った天井。
――ああ、私……どうしたんだっけ。
確か華氷と話していたときに、目眩に襲われてそのまま気を失ったのだ。急に目眩に襲われるなんて、今まで一度もなかったのに。
ふいに引きつるように蛞蝓の妖に捕まれた手首が痛んだが、声をあげるほどではない。
蘭は意識がはっきりしてくると目を開け、起き上がろうとしたその時。
「ばあぁぁ!」
「ひっ、きゃぁぁぁぁぁーーー!」
視界に入ってきたのは細い目をした狐。白い狐。
蘭は狐に思いっきり平手打ちをくらわせ、飛び起きた。
それもそうである。お祭りでよく見かけるような狐のお面ではあったものの、気がついた直後にそんなものが目前に現れれば驚かないほうが少ないだろう。
蘭は肩で息をしながら、平手打ちした相手を見やる。
「柊! あんた何すんのよ! 女の子が気を失ってるんだから、もうちょっと優しく起こしてあげようとか、思わないわけ!?」
「……そうしたら気持ち悪いって言われるのが定番かなと思ってたんだけど。違ったのかな? それとも、少しは……自惚れてもいいってことかな。私も」
柊は平手打ちをくらった頬をさすりながら、にやりと笑った。
瞬く間に蘭は頬を真っ赤にする。
「だれが……だれが……っっ! あんたなんかこっちから願い下げよ!」
ぷいっと蘭は顔を背ける。
そこへ柊は蘭にそっと小さな包みを差し出した。
「蘭姫、金平糖だよ。君にあげる。機嫌直してくれるかな?」
「こ、子ども扱いしないでよ! そんなんじゃ」
「ほら、私の顔見てくれた」
言い返そうとして、蘭は柊へ視線を向ける。
「うっ……しまった……」
蘭としては金平糖につられたつもりは爪の先ほどもない。
――って、言いきったら嘘になるわね。甘いもの好きだし。
拗ねているわけでもないが、あまり言い返してもおそらく分が悪くなるだけだ
差し出された包みを複雑な表情のまま、蘭はおそるおそる受け取る。
「あ、ありがとう……」
上目遣いに柊を少し見あげる形になり、後半は声が小さくなってしまった。
ふいに伸びてきた手は、蘭の頭を撫でる。
「君は可愛いね、本当に。このまま私のそばにいてほしいな」
「なっ、何を……」
蘭の脳裏に華氷の言葉がよぎった。
華氷の言葉は、柊のことだけを言ったわけではない。このくらいのこと、いつもの恥ずかしい台詞と変わりないのに。
蘭が言い返せずにいると、その様子に柊は喉の奥で笑う。
「ふふっ……それにしても珍しいね。君が急に倒れるなんて」
「ちょっと目眩がしただけよ」
僅かに沈黙が流れる。
時折、手首がさっきのように痛むこともあるが、大した痛みではない。痣自体にも変化はないし、忙しそうな二人に余計な心配かけたくはない。
蘭の言葉に柊は笑みを浮かべた。
「そう、蘭姫も最近は忙しかったしね。ちゃんと休むんだよ」
「……ねえ、朔夜は?」
ふと蘭は、朔夜の姿が見えないことに気づく。
「ああ、調べ物があるとかで、詰め所の納戸に閉じこもってるよ。蘭姫が起きたことは伝えておくから、今はゆっくりしてなよ」
ぽんぽんと柊は蘭の頭を撫で、立ち上がった。
もう少しで夕方だろうか、空が薄い橙に染まっている。
「分かった……そうする」
柊は頷いて軽く手を振ると、障子を閉め蘭の部屋を後にした。
蘭に言ったとおり、柊は朔夜に知らせに詰め所の納戸へと向かった。書物を漁っている朔夜の姿が見える。
二の丸は国主の居住区も兼ねており、蘭の部屋から詰め所までの間にも、様々な植物が見ることができる。今の時期なら桔梗、のうぜんかずら、萩だろう。
「よく頑張るね、朔夜。蘭姫、さっき気づいたよ。ゆっくりしてなよ、とは言ったんだけどね」
「柊殿……神隠しの一件だけではありませんよ。少し必要な資料も頼まれましたので」
柊はなるほどと頷き、老臣たちが何か頼んできたのだろうと推測した。別に珍しいことではない。
「ところで、朔夜。この間の夜のことだけど……私の邸で姫君口説くなら、中途半端なことしないでもらいたいね。いつまでも譲りはしないよ」
柊の言葉にぎょっとして、朔夜はこちらを見る。
本当に何を遠慮しているのか、柊からすれば歯がゆくて仕方ない。自分の場所が彼女の隣にないことくらい、当の昔に承知している。それでもこうして蘭の許婚を名乗っているのは、二人ともはっきりしないからだ。今ならまだ機会があるかもしれないと思うから。
それに朔夜ならともかく、蘭自身はもちろん形式だけの許婚であっても、他の男に譲る気などさらさらない。ぜひそれを朔夜の口から聞いてみたいと思うが、今もって実現していない。
朔夜が言ったように、先ほどの平手打ちは避けようと思えば二回とも避けられた術士とはいえ、体が資本。武術も心得ているので、あの程度は避けることに問題はない。けどそうしなかった。一国を背負う姫と一介の術士では、肩にかかる重圧は比べようもない。
そんな彼女の心が少しでも軽くなるのなら、何だってする。
さっきのような、避けようと思えば避けられた平手打ちを受けるくらい、なんともない。
生温い風が吹き、木々の葉が合わせて揺れた。どこかから聞こえる蝉の声は忙しなく合唱を続けている。
「先日蘭姫が襲われた一件ですが」
「ああ、治水工事の現場を見に行った時のだよね」
朔夜がふいに話題を変え、柊はそれに応じる。
ある一定のところから踏み込ませようとしないのが朔夜だ。こちらから気づいて先回りをしてやると、話を聞いてくれるがそれはあの夜やってしまった。まだ日も経っていないし、やりすぎても彼を追い込んでしまう気がするのだ。
そんな朔夜を見ていると表向きは違っても、彼とはどこか同類のようにさえ思えてくる。
――私もそんなところがあるからねぇ。
「強大な妖が黒基にいるのは間違いない。けどなんの話も聞こえてこないってのも変かな。そうすると……」
蘭が捕まった力の弱い妖や思念が溶け、混ざり合った蛞蝓のような妖。あれは強い妖気に妖たちが引っ張られ、各々が溶けた末にできたもの。あんなものがいるのは強大な力持つ妖が黒基にいることの証だ。
だがそれほど強大な妖なら、姿を見たとはいわずとも、どこかの封印が破られていただとか、そんな噂が流れてもおかしくない。数百年前ならいざ知らず、今の時代なんらかの封印が破られていると考えるのが常識になっている。
当時の鬼と人の戦で、妖は退治されたかなんらかの形で封印された。年月が重なり、封印自体忘れ去られ、何かの拍子で壊されていたことも今まで何件かある。
おそらく今回もそんなうちの一件だと思われるが、なんの噂もないとなると、もうひとつ可能性が浮かぶ。
「封印を破った、あるいは壊した本人がその妖を匿っている可能性ですか?」
「だろうねぇ。信心深い連中は言い伝えにあるそんな場所に近づかないし、外面だけでも修繕しておけばしばらくは騙しとおせるだろう」
各地にある封印は、その地域で口伝として伝えられ、ある種伝説のような扱いになっている。
「そうだとするなら、だれがという話になりますが……特定するには情報が足りませんね」
「相手の出方を伺うしかないっていうのも歯がゆいけど、この状況では仕方ないね。城内で変わったことがなかったか、また調べてみるよ。じゃあ、私はここで。朔夜は姫のそばについててくれ」
朔夜は片手を顎にあて、僅かに思案するが柊の言葉に頷いた。それを見た柊は片手を振って、納戸をあとにした。
二の丸内を通り自邸への道すがら、柊は蘭と出会ったばかりの時を思い返していた。
昔、まだ蘭との縁談すらなく、華氷に連れられ本丸へ行った時だ。
そこで見かけたのが、彼女との始まり。羽令がいて、朔夜に手を引かれながら満面の笑顔で。それからずっと彼女を見てきた。飴色の髪が眩しくて、日の光のような笑みに心惹かれた。
最初はそれだけだった。次のきっかけをくれたのは縁談の話だ。
でもいつも隣には、彼がいた。自分だけでは見ることのない彼女の顔を、彼がいる時だけは見ることができた。
そしていつからか、自分の居場所が望む形でここにあるわけではないことに気づいた。
それでもこうして、彼女との縁談を破談にしないのは、僅かな期待と三人の関係の変化が怖いから。
――この一件が終われば、縁談も関係もきっと変わる。そんな予感が頭から離れない。
その時までに決着をつけられるだろうか、己の心に。
夕刻、空が紅く染まるころだ。同色の蜻蛉が風に乗り、空を横切る。
「何度もお断りしたはずです、雪葉姫。それにお帰りになるべき頃合いかと思いますが」
柊が帰って半刻ほどで、朔夜を訪ねてきたのは雪葉だ。
椿の描かれた打掛は、色鮮やかでいっそう彼女を印象づけている。
決して広くはないが物置なので人も滅多に来ず、密談には適しているものの、朔夜にそんな気は爪の先ほどもない。
雪葉は片手を朔夜の頬に添えた。蘭よりは背丈があるものの、朔夜に及ばない雪葉はわずかに見上げるようになる。
「給金も待遇も今の倍、五倍でもいい。あなたの言い値と条件にすると申しているのです。帰る帰らないは私の勝手ですわ」
「給金も待遇も、私にはなんの意味もありません。どれだけ積まれようと、どんなに言われようと、蘭姫のおそばから離れるつもりは毛頭ないと幾度となく申し上げたはずですが」
葬儀も済み、雑務も終わった。後継ぎ問題も雪葉には関係ない。養子として出された兄弟、嫁いでいった姉妹も順に帰路についている時期だ。雪葉も嫁ぎ先へ戻る頃合いなのだが。
ふいに鼻先に甘い香りがつく。雪葉が焚き染めている香の匂いだ。すぐそばに彼女の顔がある。息がかかりそうなほど、すぐそばに。
それでも朔夜は表情ひとつ変えず、淡々と返した。
金銭も食い扶持も、待遇も、朔夜にとっては意味がない。必要なのはそんなものじゃない。
蘭の近くにいれる立場、彼女を守れる力、志を貫きとおせるだけの強さ、必要なのはそれだけだ。
雪葉は朔夜の反応に眉を吊りあげた。
「どこのだれとも知れないあなたを受け入れたのは黒基、亡き父上と私たちですわ!」
剥きだしの刃のような鋭さ。昔からこんな顔をする人だっただろうか。いや、違う。以前はもっと柔らかな笑みを周囲に見せていたはずなのに。
朔夜は雪葉の手をそっと払う。
「……それは感謝しております。ですが、最初に受け入れようとしてくださったのは、殿と蘭姫。雪葉さまは最後まで反対なさっておいででした」
「それはそうです! だれが素性の知れない初対面の者を簡単に受け入れるのですか!」
淡々と冷静に返す朔夜に対して、雪葉は声を荒げる。
どうして彼女はこうも俺に構うのか。
幾度となく断った。雪葉は蘭ではなく、自分の護衛をしろというのだ。雪葉が他家へ嫁いで四年。それでも彼女は、今もこうして朔夜を引き抜こうとするのだ。
雪葉の変わりようも気になるが、今はすべきことがある。蘭のそばを離れる気もない。
「雪葉姫の言い分ももっともです。ですが私にその意思はありません。他にご用がなければ、私はこれで」
「まっ……お待ちなさい。まだ話は終わっていませんわ!」
その場をあとにしようと、後ろを向いた朔夜。
ふいに唇に吐息がかかったかと思えば、柔らかなそれで塞がれた。
突然のことに朔夜は、強引に雪葉を引き剥がす。勢い余って、彼女を突き飛ばす形になってしまった。
はっとして手を貸そうと片手を差し出したが、雪葉はそれを払いのける。
きぃっと床が鳴った。室内ではない。外の廊下から、人影がはっきり見える。
そこにいたのは蘭だ。
彼女は部屋にいるはず。なのに、どうしてここに。
朔夜がそう問う前に、蘭は目をそらしもう一歩後退する。両手にぎゅっと力を込めており、顔色が悪い。
「え……あ……ご、ごめんなさい。ちょっと、陰陽術の本で、訊きたいこと、あって……こっちに、いるって、みんなが、教えてくれたから……ご、ごめんなさい!」
呼び止めるより蘭が駆けだすほうが早い。
「蘭姫、待っ……申しわけありません。ですが、お戯れはご容赦願います」
「戯れだと、思うのですか。あなたがそうまでするほど、あの子に価値があるとでも」
雪葉は睨み返しながら立ち上がり、衣についた埃を掃う。
「それを決めるのはあなたではない。私です。では、これにて」
振り返りもせず、朔夜は納戸をあとにした。
蘭は羽令と同じ深海を思わせる、深く青い瞳だ。一瞬だったが見えたその瞳が、涙で滲んでいた。
――何が変わろうと、俺はあの子にあんな顔をさせたいわけじゃない。
あなただけは、私をなんの裏もなく見てくれた。
ただそれが嬉しくて。
朔夜の気配が遠のくと、雪葉は泣き崩れた。心が届かない。想いが届かない。
――いつだったか、彼が差し出してくれた手をあのときは取れたのに。
払いのけてしまった。
あの手が欲しくて、あの目が欲しくて。
「辛いなぁ、家のために、国のためにと決めた婚姻。望んだ男はそれでも手に入らず、今もって欲しいと思ったものはひとつも手の内にない」
「……立ち聞きとは趣味が悪いですわね」
雪葉が顔をあげると、誰もいないはずの戸口のそばに男が立っていた。煤竹色の素襖を着て、糸目の男。男の本当の姿は人ではない。
慌てて立ち上がろうと力を込めるが、一向に手足が動かない。
男はにやりと不敵に笑って、入ってくると膝をつき、雪葉の顎をくいっともちあげる。
「それでも奴が恋しいか」
「そうでなくば、私は、こんな真似いたしません」
互いの息がかかるほど近くなったが、雪葉はふいっと顔を背けた。どうにか姿勢を立て直し、男から離れ適当な距離をとる。
解ってたまるか。こんなやつに、この気持ちが。当然あの子――妹にも解るはずない。
四年前、今は亡き灰老との国境の城主が変わった。後継者がいなかったのだ。新たに選ばれたのは、もちろん陰陽術士。怨恨も、戦も、政にもしがらみのない城主。謀反を疑うわけではないし、彼の実績を信じていないわけではない。ただやはり姻戚関係のあるなしで、いざという時に変わるのだ。まして、自国が滅ぼした国との境。戦国は終わったとはいえ、十年と経たないころ。決して安定しているとは言えない。
戦となれば、民の血が流れる。弱者が虐げられ、影で女性が――母が泣く。父の帰りを待って。父の来訪を待って、泣いていた。武家の出ではない母は、側室のなかでも下位に置かれた。父自身には、羽令にはそんな気はなかっただろう。実際、それだけの心を砕いてくれたと雪葉も思っている。でも周囲の目はどうにもならなかったのだ。羽令の目の届かないところで、蔑むような目は止められなかった。
それでも愛していたのだ。正室になれずとも、ずっとそばにいることは叶わなくても。母は、父ひとりをずっと。
そんな母を間近に見ながら、二度目のとなる婚姻を決めた日、朔夜は言ってくれた。
今も覚えている。
『国のため、御家のため、そしてなにより民の安寧を口になさる雪葉さまに、心よりの忠誠を』
そう言って深く会釈してくれた。
認められた気がした。認めてもらいたいと思った人に。
なによりも嬉しかった。なによりも、勇気をくれた。
――だから、だから私は、たいして知りもしない男と結婚した。