弐
翌日、時刻は午の刻になったばかり。多少雲はあるものの、雨が降るような天候ではない。
朔夜は二の丸の出入り口である薬医門を抜け、三の丸を通り半刻ほどで城下へ出る。
城の周囲は人の往来と家々で埋められ、賑やかな声も聞こえる。
「ほら、次おまえの番!」
「ええー! やだよ、これ苦手だもん」
射的屋の前で、言いあいする子どもの声が聞こえる。穏やかな風景に朔夜は、自然と笑みが浮かぶ。
日も高く行商の露店や馬、茶店。土を踏む音と、食べ物のいい匂いが漂うが、朔夜は全て無視して横道に入った。途端に喧騒からはずれ、辺りが静かになった。ひび割れた土壁、穴が開いて向こうが見える木戸、ところどころ、蜘蛛の巣が陣取っている。風が吹くと隙間風のようなひゅぅという音が耳についた。
正直、だれもが好きこのんで通る道ではない。確かに戦が終わった十一年前より治安はよくなっている。それでもいまだ、城下町にこんな場所があるのは、十一年という期間がどれほどのものか考えさせられてしまう。これでは、城内が二派に分かれるのも無理はない。
朔夜は急に立ち止まり、振り返った。
三の丸を出た辺りから、ずっとついてくる気配がある。最初はだれだろうかと思ったが、容易に想像はついた。何かしら思惑あってのことなら、もっと上手くできる者を使うだろう。柊にいたっては、こんなに分かりやすく後をつけてくることはない。何より彼が朔夜を尾行するような理由は、思い当たらないからだ。
「蘭、何をなさっているのですか?」
いつものように淡々としているが、朔夜の言葉に刺々しさが混じっている。
蘭が建物の影から出てくる。ばつが悪そうな顔をして、視線を泳がせていた。だがすぐに蘭は開き直る。
「私の目を誤魔化そうったってそうはいかないわよ」
「何故こちらが?」
「詰め所で適当そうな人、締めあげたら吐いた。自分だけ城下へ行こうったって分かるんだから」
「まったく……あなたという人は……」
朔夜は嘆息し、ちらりと蘭を見やった。
気持ちは分からなくもない。羽令が亡くなってから、葬儀と雑務に追われ外出できる時間はなかった。もともと蘭は、堅苦しい生活や儀式を嫌うところがある。そろそろ限界だろうかと思っていたが、今回は朔夜の想像より少しばかり沸点が早かったようだ。
藍染の小袖に灰色の袴、普段の下げ髪とは違い高い位置で結ってある。腰には懐剣を差して、一見すれば少年にさえ見えた。対して朔夜は休みの日には蘭のような格好もするが、仕事は素襖の着用が慣例となっている。下級の足軽となれば、小袖に袴でも構わないが、守り役という職務はそれほど軽いものでもない。今日着ているのも淡色の素襖だ。
蘭は見張りも門番もいるはずの城から、だれにも見つからず抜け出す裏道を知っている。そもそもあれは数年前、朔夜が見つけたのだ。そして蘭が強引に朔夜から聞きだした。柊の場合は神出鬼没すぎて、城を抜け出す程度の裏道くらい知っているだろう。二人とも直接聞いたことはないが、あれほどになれば問いただすのも怖い。
「おかしいと思ってたの。昨日、あれから書き物ばっかりしてるんだもの。事務仕事、さっさと終わらせる必要があったってことよね。今朝は今朝で何か調べ物してたっていうし。朔夜が城下へ出る時はたいていそんな日だから」
蘭にはどこへ行くなどと、ひと言も告げていない。何を調べていたのかも、蘭は知らない。
蘭が城をこっそり抜け出すのも、これが初めてではない。何度か侍女たちに怒られていたようだが、それでも懲りずに息抜きと称して町へ行きたがる。その気持ちは分からなくもないし、朔夜個人としては蘭に無理をさせたくない。
朔夜は肺が空になりそうなほど息をつく。
「……治水工事の現場を見に行くだけなので、少しならば時間もとれるでしょう。どこか行かれるなら、お供いたします」
仕方ないと言わんばかりの朔夜の言葉に、蘭は目を丸くしたかと思うと満面の笑みで頷いた。
「うん、ありがとう!」
やはり甘いのだろうか。何を言われようと城へ帰すべきだったのか。
蘭は霊力も見鬼もない。当然、妖とは無縁の生活だった。それを思うと、なおさら帰すべきだったかと脳裏をよぎる。
目的の工事現場は、柊が教えてくれた妖の目撃情報の場所だ。昼間から奴らが手を出してくるとは思えない。天照大御神の加護が強い日中は、妖にとって眠る時間。長時間彼女をひとりにしたり、不用意に目を離したりさえしなければ危険はないと朔夜は判断したのだが。
蘭に姫であることを求めるなら、羽令が亡くなってまだ数週間だ。出歩かせるべきではない。こうして出かけることを、特に老臣たちはよく思わないだろう。
そんな考えが朔夜の脳裏をよぎっていた。
柊がよこしたであろう人間は忍と呼ばれ、滅多なことでは人前には姿を見せない一団だ。柊の父、華氷は忍一族の統括を任せられている。最近は息子に任せきりらしく、柊が自由に動かせる人数も増えているようだった。「こちらで人をやる」といっても、柊がつけてくれたのは、守り役よりは護衛といったほうが正しい。周囲の町人、行商人などに混じっているのだろうが、だれが蘭の護衛にあたる忍なのか朔夜には見当もつかない。おそらく命の危険でもない限り、蘭の前にも朔夜の前にも出てこないだろう。
蘭は半刻あまり市を見てまわっていた。侍女への土産がほとんどで、自分のために買ったものはなかった。
くるくると変わる表情は、その格好も相まって少年と見間違えるほどだ。第三者から見れば、若君とお供の侍、そんなところだろうか。
彼女の金髪は珍しいためか、時折すれ違った人が振り返った。羽令や蘭、水樹の顔は一般には知られていない。蘭が金髪だというのは知られているが、他にいないわけでもない。黒髪や茶髪が多いこの島で確かに金髪は目立つが、髪の色だけで本人だと特定は難しい。
その昔、鬼と人の戦があったころ、ひとりだけこの島に残った鬼の少女がいたという。そして今、金の髪あるいはそれに近い色で生まれる子はすべて、家系を辿れば彼女に辿りつくといわれている。
人の往来は途切れていない。一歩も動けないというわけではないが、余所見しているとそのまま流されてしまいそうだ。つい先ほども、七、八歳くらいの女の子が蘭にぶつかり、少女がしゅんとなって肩を落とし、謝っていた様子は微笑ましいものだった。
「ねぇ、水樹にも何か買って帰ろうと思うんだけど、どれがいいかしら?」
「蘭の選んだものなら、若君はお喜びになるでしょう」
決まり文句。でもきっと蘭はそれが聞きたいのではない。それが分かるから。
いっそ少し自分が、もっと気の利かない人間だったら。そこまで分からない人間だったら、こんな風に迷わなかったのかもしれない。彼女に一国の姫であることを強いることができたのかもしれない。
そうすれば朔夜ももっと楽だったかもしれない。伝えたいことも伝えられないままよりは。
――もしもを考えたところで仕方ない。今は今。俺は俺でやれることがあるはずだ。
「もう、つまんないなぁ。朔夜だから訊いてるのに」
頬を膨らませ、蘭は顔をそらす。視線の先にある露店に目が止まったようだ。
蘭は足早に駆け寄り、朔夜もそれに続いた。店の主人は恰幅のいい女性だ。
「いらっしゃい、お嬢ちゃん」
「え! なんで分かるの!」
「おや? 男装でもしたつもりだったかい? あはは、お嬢ちゃん、遠目ならともかくそりゃ無理だろうよ」
確かに数歩と離れていないこの距離では、男装も何もない。
それ以前に朔夜には、蘭が男装したつもりだったほうが驚きだ。つい蘭へと視線を向ける。
「そんな笑わなくてもいいじゃない! ほら、朔夜も……って、二人して笑ってるわね」
「いえ、決してそんなつもりは……」
顔に出ていただろうか。そんなつもりはなかったのだが。
女主人は軽く両手を合わせ、申しわけなさそうに続ける。
「ああ、悪かったよ。おまけしてあげるから、ね。このとおり」
その言葉に蘭は、いくつかの品物と女性の顔を交互に見る。店先に並んでいるのは瑪瑙や瑠璃の装飾品、精緻な細工が施された簪や綺麗な色合いの巾着、女性が喜びそうなものばかりだ。
しばし迷っていたようだが、蘭はある品物を指差した。
「……じゃあ、これ」
指差した先にあるのは、紫と藤色の紐を交互に編みこんだ組紐だ。
「落ち着いた色を選んだねぇ、自分で使うのかい?」
「違うわ、弟にあげるの」
蘭は二、三度頭を振った。
「せっかくだ、自分のも買っておいきよ」
「うーん、でもなぁ」
蘭と女性の駆け引きはしばし続いた。
そういえば蘭から普段は、衣やそれらの購入は侍女に任せているらしい。城に出入りする行商人からの買いつけも、侍女に任せきりだそうだ。
昔から蘭は己の物を買おうとはしない。それが姫という自覚からくるのか、環境がそうさせているのか。おそらくは後者だと思うが、直接それを問うのはあまりに酷な気がして今も聞けずにいた。
よくよく彼女を見ていれば視線が泳ぐと、ある一点で少し止まってはまた泳いでいる。
たまには"あれが欲しい"と言ったところで、だれも責めやしない。それは一国の姫であろうと、普通の少女であろうと変わらない。
朔夜は蘭の視線が止まった先を指差す。
「……その赤いのも貰おう」
「朔夜、何言い出すのよ!」
「欲しいのでしょう? この程度、だれも気にしませんよ」
確かに彼女は特殊な立場ではあるが、赤い組紐ひとつ買ったところでだれも気にしない。そのくらい許されたっていいはずだ。彼女も姫であるまえに、ひとりの少女だから。
蘭が気にしていたのは、赤と桜色の紐で編まれた組紐。
「お侍さんのほうがよく分かってるじゃないか。じゃあ、おまけはそれだ。ひとつ分の代金だけもらおうか」
満面の笑みで頷く女性に、朔夜は代金を渡し包装された組紐を受け取る。
二人のやりとりに慌てながら、蘭は朔夜の袖を引っ張った。
「朔夜、だめだよ」
「私が勝手に買い、あなたに譲った。それだけのことです。……では、これで」
最後は女主人に向かって告げながら朔夜は会釈する。
「そういうことにしときなって、お嬢ちゃん。ありがとうよ、またおいで」
これ以上蘭が言い返してこないうちにと、朔夜は手をとり足早に露店を後にする。
女性は笑みを浮かべ、片手を振って二人を見送ってくれた。
気づけば予定より遅くなってしまった。逢魔時になる前に城へ戻る予定だったのに。
昼間なら妖に対しての心配はさほどないが、この時刻になっては正直不安が残る。とはいえ、ここまで来て何もせずに帰るわけにもいかないだろう。
あれからしばらく押し問答したものの、蘭が折れる形で決着がついた。二本買った組紐のうち、代金は一本分のみで済んだ。だからその分は返すと蘭は言った。朔夜はそれを最後まで押しのけ、最後は渋々ながらも蘭は礼を言った。
その他、買った品物も風呂敷でまとめ、今は蘭が持っている。ついさっきまでは朔夜が持っていたが、無理についてきたのは自分だからと言って、朔夜から受けとった。当の朔夜も特に重い品がないのは分かっていたし、ならば現場の確認が済むまではと蘭に渡したのだ。蘭自身の物がないためか、朔夜が以前見かけた武家の娘の買い物風景とは段違いに楽だろうと思う。以前見かけた、供のニ、三人が両手に荷物を持って、息を切らしていた光景には同情したものだ。
空が青から淡い橙に染まり、次第に濃くなり朱に変わる。もう半刻もすれば本格的に闇が迫るだろう。
逢魔時は妖が動き始め、人と妖の領域が重なる時刻。神隠しの噂もありこの時刻ともなれば、帰り支度をする者も数えるほどしか残っていない。
もともと長居する気はなかったが、思った以上に時間はとれなさそうだ。朔夜としては、ここ最近の川の様子も聞きたかったがこれでは無理だろう。
治水工事の現場は、城から一刻余り離れている。その道すがら市に立ち寄ったので、決して遠回りではない。それでも普段以上に時間をとられたのは確かだ。
城から西に一刻、民家というより田畑が広がっており、洪水を防ぐとともに必要な水を引き込むための工事も行われている。川から田畑まで相応の距離はあるが、川が溢れれば用水路にも当然影響がある。妖によってなんらかの被害が出れば、来年の作物に影響が出ないとも限らない。戦が終わって十一年、治安も経済も、食料もやっと安定した。今後の十年はそれを維持、増加させるべき期間だ。
水流から数尺離れ、まとめられた資材として使われる木や石を確認しながら、川の様子も朔夜は見ていく。ここしばらくは晴天が続いている。季節柄、山中の上流では夕立や急な雨もあるだろうが、今日のところは水流に異変はない。あまりの豪雨や嵐がくれば、資材を置いている場所も水の中になるが。
大規模な被害になれば、民の努力が消えてしまう。
「なんでここに来たの?」
「ただの視察ですよ」
どうやら蘭は神隠しの話を知らないようだ。だったら妖のことも教える必要はない。言えば自分も手伝うなどと言いだしかねない。さすがにそれだけはどうあっても阻止せねばならず、だったら最初から知らせないほうがいいと朔夜は思っている。
朔夜は辺りを見回した。妖気は感じない。雑鬼たちがいる様子もない。
雑鬼は力が弱く、妖の中でも脆弱で身の危険にもっとも敏感な者たち。数十年、数百年の単位でいえば、彼らも数を減らしたのだろう。だが確かに雑鬼たちはいる。彼らを見ることのできる者が減っただけで。
「ねえ、あれ」
蘭は周囲の景色を見ていたが、ふいに朔夜の袖を引っ張った。
彼女の指差した方向を見ると、子どもがひとり川の水に手を伸ばそうとしていた。しばらく洪水になるような雨は降っていないため、水流は早くない。だがそれは大人の感覚であって、五歳ほどの男の子となれば別だ。
百姓の家の子なのか、身なりはいいほうではない。衣もところどころ接いでいるようだ。
「……やっぱり放っておけないよ。朔夜、これお願い!」
「蘭、待ってください! 私が……!」
朔夜が止めるよりも早く袋状にした風呂敷を押しつけ、蘭は駆けだした。後を追おうと朔夜も走り出す。
蘭のほうが早く、男の子に声をかけながら肩に手をかけた。
「ねえ、危ないよ。こんなところで」
遊んでると。
そう言おうとしたのだろうが、振り返った男の子の口が不敵に笑ったため、驚愕が先にたち音になることはなかった。
強引に蘭の手首をつかむと、男の子はその姿を変えた。全身が溶け落ち、現れたのは黒い形を持たない妖。
その様を見るや、朔夜はぎりっと唇を噛んだ。もう少し自分が気をつけていれば、彼女より先に動いていれば。
見る間に血の気がひいて、蘭の顔色は真っ青だ。体が震えている。妖気にあてられたのか。
――いや、違う。この妖自体はさほど力を持っていない。本能からくる恐怖がそうさせているのだ。蘭は妖の存在を知ってはいても、対峙するのは初めて。霊力はなくとも未知への恐怖は、人間ならだれしも持っているものだ。
もっとも大人の大きさほどある黒い蛞蝓を想像してもらえば、だれだって捕まりたくはないだろう。
あれは力の弱い妖や人の思念が溶け、混ざり合ったいわば妖のなりそこない。黒い表皮の下で、何かが蠢いているようだ。
「いやぁぁぁぁぁぁぁああーーーー!」
金切り声。朔夜の他に人の気配も姿もない。神隠しも頻発して妖が目撃された場所でもあり、逢魔時に出歩く者は少ない。まして川のそばなら尚更。
「さ、朔夜……っっ!」
「……大丈夫、落ち着いて。気をしっかり持って。動かないでください」
朔夜は涙目になっている蘭に笑みを向けた。
黒い妖はいまだ蘭を飲みこもうともしない。朔夜がどう動くか、様子を伺っているのだろう。何本もの触手で蘭を確かめているようにさえ思える。もちろん、餌としてではあるが。
彼女を盾にされたこの状況で、陰陽術を使うことには躊躇いがある。まして外せば蘭に当たるかもしれない。
陰陽術は人に向かって撃ってはいけない。その人の魂や天命になんらかの影響が出ないとも限らないから。
ならば。
朔夜は脇差を抜き、懐から符を取り出し口元にあてると小さく真言を唱えた。
「オンロホウニュタソワカ」
蘭や妖に聞こえないように口にしたが、蛞蝓のような妖はそれが何を意味するのか察したようだ。とたん、蘭を足元から飲みこみ始める。肥大した妖の大きさは蘭を優に超えていた。
霊力を帯びた風が朔夜の青い素襖を揺らす。符が意思を持ったように刃に巻きついた。唱え終わったと同時に朔夜は踏みこむ。
ニ、三歩踏みこみながら朔夜は脇差を軽く上へ投げ、槍を投げる時のような持ち方に変える。
「朔夜……さ」
もう一度、朔夜の名を呼ぼうとした蘭のわずか数寸真横を刃が通りすぎた。
蘭を飲みこもうと肥大した妖は、朔夜の霊力によりさらに大きくなり、姿を維持できなくなった。
蘭と妖の間に割りこみ、彼女と向かい合う形でかばう。破裂したような高い音とともに妖は四散し消えた。
戌の刻。四半刻もすれば亥の刻となる。朔夜や柊は普段この時間も仕事で駆け回っているか、書き物をしているかのどちらかだ。
ここは城の三の丸内にある柊の邸の一室。二の丸へ通じる道からは遠く、人の気配に気をつけていれば比較的見つからずに行き来できる。堀に囲まれた三の丸のなかで辰巳の方角にあり、さすがにそう広くはない。厩、蔵も一応あるが柊の実家、華氷の邸と比べると半分もないだろう。
柊たちがいる部屋はもともと客室として利用しているらしく、季節の花が鮮やかに活けられ、そばの掛け軸には虎が描かれていた。燭台の灯りに照らされた影が襖や障子に映っている。
さすがに夜、障子を開けておくのは肌寒い。
柊と朔夜の二人だけならたいして気にしないのだが、今は目の前に気を失った蘭が横たわっている。あのままでは気持ち悪いだろうと、彼女の着替えはこの邸の侍女に頼んだ。今は白の単を着て休んでいる。さらに彼女が風邪をひきでもしたら、どこから苦情と小言をもらうか分かったものではない。
顔色もだいぶ戻ってきた。大事をとって二日間ほど休ませれば問題はないだろう。
柊は嘆息し、隣に座っている朔夜へ視線を向ける。
印を切って陰陽術を放つことは、小さな的だと外す可能性もないわけではない。蘭を盾に使われた状況では、彼女の後方にいる妖を一撃で確実に倒せる方法をとりたかったのだろう。
とはいえ、刀は本来斬ることに特化したもの。いくら脇差で陰陽術を上乗せして距離もさほどなかったとはいえ、蘭に傷ひとつなく妖を退治できたのは僥倖以外の何者でもない。
柊は呆れたように精悍な眉を寄せる。
「まったく君も無茶するねぇ。一歩間違えれば蘭姫のほうが大怪我だったかもしれないのに。私が父の邸を出ていたからいいものの、下手に城の者や父に知られれば君の首は今ごろなかっただろう」
朔夜は蘭のすぐそばに座っており、横目で柊に応じる。
「お言葉を返すようですが、それなら蘭姫が城を出る前に止めてくださるべきかと。どこで見ているかは知りませんが、そのくらい容易いはずでしょう」
「忍が簡単に姿を見せてどうするんだい。隠密行動が基本の彼らにそれを求めるのは酷なことだよ」
朔夜の隣で柊は飄々と返答した。
柊は忍の統括をしている。朔夜が知っているのはそれだけで、詳しいことは知らせていない。彼らがどこのだれで、どうやって忍になったのか、普段どこでどうしているのか。それら全て機密扱いになっている。戦がないとはいえ、迂闊に喋っていいことでもない。いつだったか何度かさりげなく問われたこともあるが、全て誤魔化して答えた。
それを覚えていたようで、朔夜は話題を変えた。
「……華氷殿は、どうなさっているのですか?」
「殿が亡くなって以来、隠居したがってるよ。まぁ、細々した引継ぎだったり厄介ごとで泣きつかれたりで、隠居にはまだ遠いさ。老体に鞭打ってなんて言うけど、充分ぴんぴんしてるんだからもう十年働けばと私は言うんだけどね」
華氷。柊の父、いや正確には養父だ。柊も戦後の混乱のなか、拾われたひとりである。
本丸に詰めることが多い華氷は、二の丸での仕事が主となる朔夜とは顔を合わせる機会がない。
「少なくとも表面は、変なふうに落ち込んでる感じはないけどね。主従とはいえ、父上にすれば幼馴染を失ったも同然。母上が亡くなってそう経たないうちだから、もっと気落ちするかと思ったけど今のところ心配はない」
羽令が亡くなる二ヶ月前のことだ。もとより病弱な女性で、食も細く赤子は見込めないと夫婦となって間もないころ、医者に言われたそうだ。その言葉どおり、彼女が嫁いで数十年。現に華氷との間に実の子どもはひとりもいない。それでも華氷は側室をもたず、亡くなった今も彼女ひとりを貫いている。
朔夜も確か、拾われたのだ。状況も事情も聞いたことはない。名前や顔を知ってはいても、朔夜と話す機会が増えたのはここ一年ほどだ。そしてその大半は、妖絡みの話であることが多い。
わずかに朔夜の眉がぴくりと動き、瞳が揺らぐ。それは普段の彼を見ていなければ分からないものだ。
「君がそんな顔することでもないだろう。そうだ、少し話をしたい。……外へ出ようか」
柊の言葉に朔夜は驚いたように目を見開いた。
ああ、やはりなと柊は思う。聞いたことはなくとも、なんとなく解る。両親に対してなんらかの特別な思いがあるのだろう。そんな朔夜の変化を読み取れるのは、城内でも多くはない。
まして羽令と蘭以外では珍しいとよく言われる。だが柊は黒基で初めて会った時から、分かりにくいとは思わなかった。
二人は立ち上がると、部屋の外へ出る。
板張りの縁側で腰をおろし、空を見上げる。時折吹く夜風が二人の髪を揺らしている。雲から少し欠けた月が顔を覗かせ、白く輝いている。
沈黙が降りた。静かなものだ。等間隔に置かれた篝火は、普段点けていない。客人がいる時にのみ使用している。もともとそう広くない邸だ。月と星明りがあり、慣れた者なら篝火は必要ない。ぱちぱちと弾けるような音が聞こえ、風が吹くと小さな火の粉が舞い、空中で消えていく。
ふいに視線をおろし、柊はちらりと朔夜を見やった。
「……私も境遇は君と同じようなものだ。偶然、拾ってくれたのが私は黒基家臣で、君は一国の姫君だったというだけだ。どっちがいいかなんて、意味のない禅問答だと思わないかい?」
朔夜の内心は解る。彼の迷いも。
手にとるように、とまでは言わないが少なくとも、朔夜が考えていることくらいは見ていれば察しがつく。
「私が拾われたのは、国境に接した村だったけどね。最後の大戦、そんな最中に拾い子のひとりやふたり、今になって同じ場所に居合わせたところで不思議はないだろう」
朔夜は月を見上げたまま、じっと柊の言葉を聴いている。
十一年前、戦国最後の戦となった灰老での篭城戦。かの国の国主一族が滅んだ戦が戦国最後となったのだ。
「拾われるまでの環境も違うし、そこから先の環境も違う。親子の情もたかが形式に囚われても意味がない。朔夜は殿の提案を最後まで断り続けた。それは自分の中で譲れないものがあるからだ」
柊の言葉に朔夜の瞳が揺れた。
朔夜が黒基に来てニ年が過ぎたころ、羽令は朔夜に養子にならないかと勧めたのだ。だが朔夜はそれを頑として受け入れなかったそうだ。その本心までは柊にも見当がつかない。
対して自分は。
「殿の提案を聞き入れ、私は正式に義父の養子となった。でもそれは形式上だけのことだ。朔夜、君にも私にも、皆と過ごした時間は確かにある。君が思う以上に殿や蘭姫、若君も君を気にかけているし家族だと思っているはずだ」
けれど、と柊は思う。
形式上だけのことが、大切な要件を決めてしまうこともある。だから、きっと朔夜の心中では気にかかってしまう。それでも考えずにいたのは、羽令が生きていたから。まだ先のことだと思えたからだろう。
同じ拾い子で、同じ陰陽術士で、それでも正式に華氷の養子となった柊が蘭の許婚に選ばれた。
羽令が亡くなったことでそれが現実味を帯び、親を失ったような気持ちも上乗せされたのだろう。
今までじっと黙って聴いていた朔夜がぽつりと言う。
「……柊殿はそれでよいのですか? 黒基へ至るまでの経緯は、捨てられると?」
「それは違うよ。と言いたいところだけど……そうか。朔夜も蘭姫も知らないのか」
てっきり羽令が伝えたかとばかり思っていた。でなくば、別の側近が伝えているとばかり。許婚の話がなかった頃は二人と話す機会も数えるほどだった。術士の仕事で顔を合わせるようになったのも、ここ一年ほどだ。
蘭にはどちらであれ、自ら話すことはしたくないと思っている。それで同情をひきたいわけでもないし、そんな感情を向けてほしいわけではないから。
「何のことでしょう?」
「私は拾われる前の記憶がなくてね。どこで何をしてて、だれだったのかも覚えていない。医者はいずれ戻るだろうと言ってたが、今も自分の名前以外思い出せなくてね」
なんということはない。それで困ったこともない。
だから淡々と言ったつもりだが、朔夜は面食らったようで一度こちらを見たがすぐに顔をそらし、視線が泳いだ。
おそらく朔夜は黒基に来る前のことをちゃんと覚えている。そして何かを背負っている。だからだれの養子にもならず、羽令の勧めを断った。
柊からすればそのほうが羨ましく思う。己を形成する根があるということだ。日々を過ごしてもどこか空ろで、どこか朧げで。そんな感情、きっとなってみなければだれにも解らないだろう。
「過去を捨てられないなら、それを貫くしかない。君の背負うものがなんなのか、私には見当もつかないけど……ご家族の行方くらいは知っているんだろう?」
「いえ、血縁者はすべて亡くなりました」
朔夜は首を横に振った。
「……そうか、悪いことを訊いたね」
雲に隠れた月が、柊の顔を闇のなかへと隠した。
黒い闇が迫ってくる。眠り誘う揺りかごの闇ではない。ただ暗く恐ろしい、何も見えない闇。
様々な人の声が耳に入る。いつだったか、城内の柱の影で聞こえたあの声と同じ。
『姫さまは力を受け継がなかったそうだ』
『そのようなことがあるのですか。それでは、国主の血筋はどうなるのです』
『ありえるはずがない。お姿はかくも殿に似ておられる。なのに、その力だけがないというのか』
『よりによって母君は殿の御正室、なれば今後この国を背負っていかれる。その時に、国主一族の証が示せぬではないか』
いやだ、聞きたくない。これ以上聞きたくない。母上が悲しい顔をするから。涙を溜めて、それでも私の前では笑おうとするから。
とかく美女と言われるような女性ではなかったが、細かな気遣いと温かで優しい人柄が侍女や家臣たちから慕われていたのを覚えている。
そんな母は何を言われても、侍女の前では毅然と立っていようとするのだ。そうやって夜遅く、ひとりで声を殺して泣いていた。障子の影から、声音に異変を感じて少しだけ開ける。そして見てしまった。
それが城内に流れる心ない噂のせいだと気づくのに、時間はかからなかった。子ども特有の勘だ。何も知らないようで、小さな子は敏感だ。
耳を塞いで、ぎゅっと目を閉じうずくまる。
何も見えない、聞こえない、聞いていない。不穏な視線も、奇異の目も、蔑むような声も、全部ぜんぶ。
『もしや御正室さまの御子ではないのでは……?』
『お姿が似ておられると言っても、髪と瞳の色だけではないか。御正室さまの家系とて術士を輩出しておられる。その血が表面に出たのやもしれぬ』
『では、殿の御子ではないと――?』
いやだ、いやだ、いやだ。そんなの、嘘なのに。嘘、私は。
涙が止まらない。怖くて、ひとりぼっちのような気がして。
ふいに暖かな手を思い出す。優しい声が甦る。城の片隅で泣いていると、いつも見つけてくれた。
『こんなところにいたんですね、探しましたよ』
そう言って頭を撫でて、ずっと泣きやむまでそばにいてくれた。いつの間にかその手が大好きになって、澄んだ彼の声音が心地よくなって。
本当はとっくに気づいていた、自分の心に。
会いたい、会いたい。心の底からそう思う。
「……――……夜っ! 朔夜っ! 朔夜ぁぁぁーーー!」
声が枯れ、喉が焼ききれるかと思うほど叫んだ。
「……蘭、蘭! 大丈夫ですか?」
聞き慣れた声にゆっくりと目を開ける。呼吸が浅く、鼓動が早鐘を打ち、身体全体が強張っている。変な夢を見たせいか、夏だというのに血の気が引いて、指先が冷たい。
朔夜の問いにこくりと頷いた。その様子にほっとしたのか、朔夜は少し笑みを浮かべる。
「うなされていましたね。怖い夢でも見たのですか?」
朔夜の手が蘭の頬に触れ、涙を拭う。起きあがろうとすると、肩を支えてくれた。朔夜の問いに答える前に、落ち着こうと幾度か深呼吸した。
僅かに開いている障子から見える空は、すでに暗く月明かりが射しこんでいる。
「ずっと、そこにいたの?」
「外で控えておりました。苦しそうな声でしたので、失礼かとは思いましたが」
「今さらそんな遠慮する関係でもないじゃん。私と朔夜」
「いいえ、今だからこそ、はっきりしなければならないこともあるのです」
落ち着いて、はっきりした声音。今だからこそ、それが意味するものは解る。いつまでも対等ではいられない。自分以外に後継者がいない今、後見を持たない彼とはどうやっても対等にはなれない。
でもそんなものよりも、蘭には失いたくないものがある。無くしたくないものがある。だからといって、朔夜を困らせたくないのに。
蘭はふいっと朔夜から目をそらした。
「白湯でもいただいてきましょうか」
返事のない蘭を落ち着いた証と思ったか、朔夜は立ちあがろうとする。蘭が衣の裾をぐいっと引っ張り、それに驚いた朔夜は少し態勢を崩す。蘭の膝のうえに寄りかかる形になってしまう。
「蘭、なに……をっ……」
頬のうえに落ちてきた雫に朔夜は言葉を詰まらせた。
「あ、あれ……なんで、私……やだな、変な夢みたからかな。お願い、だからそんな、こと、言わないでよ。ねえ……ずっと、一緒にいて、くれる、よね」
涙が溢れて止まらない。止めようと思うのに、止まらない。
ただ私は彼と対等でありたい。彼の手があれば、何も怖くないと思えるから。優しいこの人が大好きだから。
「……――どうして、あなたはいつもそうなんですか」
「え……? 何が?」
「私は――男ですよ。あなたももう、十七の女性だ」
朔夜は蘭の両腕をつかみ、押し倒す形で蘭のうえに覆い被さる。黒水晶のような瞳に別の光が宿ったように見えた。
「さ、朔夜……?」
息がかかるほど近い。両手首をつかまれたまま、蘭は朔夜を見上げた。涙が頬を伝い、褥に染みる。
朔夜は片手を離し、蘭の顔にかかった髪をそっと払い輪郭をなぞった。
鼓動が早くて、顔が自分でも赤くなるのが分かる。別に逃げようと思えば逃げられる。朔夜が手首をつかんでいる力も、それほど強くない。
黒水晶の瞳に蘭の姿が映る。揺れる稲穂のような髪が四方へ広がり、単の襟元も押し倒された時に開いたままだ。
唇が触れた気がして、蘭はぎゅっと目を瞑る。
「抵抗、なさらないのですか?」
耳元でそっと囁かれたそれに、蘭はおそるおそる目を開けた。
「しない。だって、朔夜が私の嫌がるようなことするはずないから」
なんて言って、本当は少し怖い。いつもの朔夜とは違うみたいで。何がって言われると、うまく伝えられないけど。
朔夜は蘭の言葉にあっけにとられたようで、何度か瞬きを繰り返す。ついで顔だけ横を向き、肺が空になるかと思うほど嘆息した。
目も合わそうとしないまま、蘭から手を放した。呼びかけにも返事をせず、朔夜はすくっと立ちあがる。
襟元を直しながら蘭が上体を起こすと、それに合わせて柔らかな髪も揺れた。
障子を開け部屋を後にしようとした朔夜が振り返るが、前髪に隠れて彼の顔は見えなかった。
「朔夜……? どうしたの……?」
「……あなたはご自分をご存じない。だから……」
朔夜が呟いた言葉は、蘭には聞こえなかった。
血統ある一族。我を封じし術士の、そして一国の主に連なる者たち。
憎むべき敵であり、最たる贄ともなる。
最後の力で送られてきた、溶けて混ざり合った様々な妖の記憶の残滓。そのなかには捕まえた娘の記憶を読みとったのか、娘のものと思しき記憶も混ざっていた。
あの娘は霊力を持たない。だがそれは関係ない。肝要なのはあれが血統ある一族の末裔たること、穢されていないことだ。それだけで娘を狙う価値はある。
霊力を持たないならば、妖に対抗する術も限られてくる。なおのこと、好都合だ。利害の一致こそしているが、この女のように抵抗されずに済む。
赤い瞳が暗闇のなか輝いた。
もはやつまらぬ人間の争いも余興にすらならない。その屍を弄び血肉を喰らったところで、美味くもなければ、足しにもならん。
「……約束を忘れてはいないでしょうね?」
女の声に、赤い瞳を閉じ数呼吸で再び目を開けると寂れた邸の一角が映った。すぐ目の前に、女が立ってこちらを凝視している。
約束。なんだったか。
ああ、あの娘を殺してほしいと言ったのだ。そして男を欲した。
この数ヶ月、数え切れないほどの贄を差しだして。
この女は国主一族の娘、霊力はあれど、すでに穢れた身利用こそすれ、それ以上の価値はない。
水面に浮かぶように白い尾がゆっくりと現れる。
いくつもの尾が意思を持ったように動き、常人に聞こえない声は低く、腹の底に響いた。
『無論、おまえが代償を忘れない限りは』