壱
数百年前、人と鬼の一族の長きに渡る戦があった。
金の髪に碧い瞳、陰陽術とも異なる術を操る鬼の一族。
人が彼らとの戦に勝利した後、人と縁を繋いだ鬼の少女がひとり、島に残ることとなる。
彼女の血は脈々と受け継がれ、金の髪も碧い目も、人の世に溶けこんだころ。
鬼が操っていたという妖の姿も珍しく、陰陽術士の力も衰え始めている時代。
数十の国に分かれた東の果ての島は、十一年前の戦を最後に、五つにまで統一された。
壱
――何よ、父上が急死したからって、掌返したように迫ってくるなんて、ほんっとう嫌な感じ。
蘭は大広間の一段高い場所から、周囲を見渡した。
壁や襖の各所には松の木が描かれ、十数畳ほどある大広間に集まって行われた話しあいは、平行線を辿っていた。
蘭の目の前にいる家臣たちは、長年仕えくれた重臣ばかり。蘭はそのなかに大好きな小父の姿を探すが、この場には来ていないようだ。年かさで白髪まじりの者が多く、蘭の頑なな様子に呆れ混じりに嘆息している。普段集まる重臣たちの人数に比べれば、少ないような気もするが、そんなこと蘭には関係ない。
ここは海に囲まれた島の北方に位置する国、黒基。国主一族が住む黒基城。
その城主にして国の主、国主である羽令が急死した。それにより跡取り問題が浮上し、羽令の娘、蘭はひとつの決断を迫られていた。
結婚だ。以前から縁談はあったが、早くそれを進めろと家臣たちは詰め寄っている。
田畑に揺れる稲穂のような、柔らかな金の髪を下げ髪にして、桜色の小袖を着ている。年は十七。緩やかな輪郭は少女のそれだ。丸い瞳は明るく活発な印象を見る者に与える。
「絶対いや! 結婚なんか冗談じゃないわ!」
蘭がふいっと顔を背けると、髪も所作に合わせて揺れた。
蘭の言い分に長年、黒基に仕えてきた家臣たちは顔を見合わせた。互いに頷くと、年かさで初老の男が両手をつき、真っ直ぐに言い返す。
「ですが姫さま、正室の第一子がお家を継ぐは慣例。他の異母兄弟、異母姉妹は皆、養子に行かれたか嫁がれました。それもすべて殿の御意向なれば、たとえ女子であろうと、今は亡き御正室さまの長子である姫さまの役目にござります。同腹の弟君はいまだ幼く、そればかりか病弱の身。それは姫さまが一番ご存知でありましょう」
「……そ、それは……」
正直気になっている。一夫多妻が常識の時代に、同じ母を持つ弟だ。気にならないはずがない。その弟は今年、十歳となった。学問は好きだが床につくことが多く、一国の国主には頼りない。後見人を選ぶ必要あるが、それがまた一大事。実力があり信頼のおける者でなければ国が傾いてしまう。
それなら女子であろうと、長子である蘭に信用できる筋から婿を迎えさせ、世継を産ませたほうが家中も平穏。それが家臣たちの言い分だ。他国からの縁談や、国内にも有力な候補は幾人かいる。だが家臣たちの多くは、ある青年を推していた。
他の兄弟たちが残っていれば、跡取り問題もまた違ったかもしれない。だが羽令は皆、早々に嫁がせるか養子に出してしまった。早い段階から正室の子以外に、後を継がせる気がないのはだれの目にも明らかだ。
蘭にも家臣たちの言い分は解る。間違っていないことも判る。でも、それでもと蘭は思ってしまう。
女性が家を継ぐことも数十年前ならいざ知らず、今となっては珍しくない。蘭の知る範囲でも、いくつか例がある。だが変わらず続いていることもある。家を継がないとしても、女性の嫁ぎ先を決めるのは家同士の関係と情勢だ。
家臣たちから白羽の矢が立った青年は、蘭も知っている相手。戦国と呼ばれた時代に、羽令とともに黒基を押しあげ、戦功を立てた小父の息子にあたる。今この場にいない大好きな小父のことだ。その子どもだからと言って、納得できる相手でもない。
蘭は唇をかんだ。ただの身勝手でしかないことも、頭では解っている。反面、家臣たちの変わり身の早さにも辟易してしまう。先日まで戦だ、和睦の維持だと二派に分かれて言いあっていた。なのに、跡取り問題が現実味を帯びてきた途端、嘘のようにまとまっている。
蘭が言い返せずにいると、再び家臣のひとりが口を開いた。
「国の大事とはいえ、姫さまにとっては父君が亡くなられたばかり。いま少し時が必要でありましょう。各々方、今日はここまでとしましょう」
その声にざわざわと話しながら、家臣たちは大広間を退室した。
言い返せずにいた自分が悔しくて、蘭は袖に隠れて爪が食いこむほど膝のうえでぎゅっと拳を握る。ただ自由に生きてみたいだけ。外の世界を見てみたいだけ。城の外を、この国の外を。大好きな人と一緒にいたいだけ。
それがこんなにも難しいことだと、最近よく思うようになった。だからこの窮屈な生活も身分も、蘭は嫌いなのだ。
「……蘭姫、お帰りにならないのですか?」
澄んだその声に、蘭は顔をあげた。
家臣たちが去ったあと、広間へ入って声をかけてきたのは朔夜だ。
黒髪を高く結い、夏の空を写したような青い素襖をまとった青年。白い肌に眦のあがった瞳は鋭さが残り、人を寄せつけない雰囲気がある。歳は二十二。幼馴染で今では蘭の守り役と二の丸の警護を務めるほどの実力だ。
政にこそ関わらないが、蘭の守り役の任についているため、朔夜は今まで隣室で待機していた。話が終わったのを見計らって出てきたのだろう。
素襖は城内に詰める際の礼装だ。通常の職務は素襖を着用することになっている。袖や胸の飾り紐が革製で、簡単な儀式などの場では侍烏帽子を被ることもある。
「ごめん、考えごとしてたわ」
なるべく冷静を装い頷くと、蘭は席を立った。
黒基城下は、城を中心として広がっている。
肩にかごを担いだ行商人が行き来し、鍛冶屋が近くにあるのだろうか。鉄を打つような音が響いている。
露店で煮炊きする食べ物の匂いが風に乗り、それに引き寄せられる子どもたち。
茶屋の長椅子に座る浪人や、荷物を乗せた馬の足音が聞こえ、活気ある町の様子は城下町らしくある。
木造の家々、町の中心に位置する丘陵に城の本丸、そのふもとに二の丸、丘陵の西側に三の丸が広がっていた。
国主一家の居住区となっている二の丸、その東側に蘭の部屋は位置していた。大広間から自室へ帰る道すがら見える庭は、白砂が敷かれ大きめの庭石がいくつか配置されている。大きな池があり、対岸と中島に向かっていくつか橋がかけられ、鯉が何匹か優々と泳いでいた。松が木陰を作り出し、水面に日光を届けている。
蘭の頭上を風が吹きぬけた。春の暖かで心地よい風から、湿気を帯びたまとわりつくような風に変わり夏を告げている。青い空にはもくもくと入道雲が顔を出していた。
風が吹くと、縁側に吊ってある風鈴が心地よい音を響かせる。
自室の障子を開けた蘭は驚愕した。
「何これ! 何でこんな山のように本や巻物が積まれてるの!?」
「……全部陰陽術の……これは、殿が所有されていたものかと思いますが」
蘭の後ろをついてきていた朔夜も、幾度か瞬きをして手近な本を手に取る。
今にも倒れそうな書物の山がいくつもあり、畳を少し踏んだだけで崩れてしまいそうだ。奥の床の間には花を生けてあるが、それも葉の緑が僅かに見えているだけ。手習い用の机が隅に置いているはずだが、今や姿形すら見えない。
蘭は部屋へ入ってすぐ、積まれた書物の上に置かれている文に目が留まった。
「これ、文? 差出人は……家臣一同?」
宛名は蘭姫さま、と書かれている。不審に思いながらも蘭は文に目を通すなり、それをぐしゃりと片手で握りつぶした。
「どうしました? 蘭」
蘭は返事の代わりに握りつぶした文を朔夜に差し出した。
周囲にだれもおらず、二人だけの時に姫はつけるなと言ってある。朔夜とは最初から主従関係であったわけではないし、蘭もその性格から敬称のありなしに頓着していない。
朔夜は首をかしげながら、握りつぶされた文を広げた。
『若君と分けられるにしろ、蔵で保管するにしろ、仕分けも長子たるものの務め。姫さまは大事なお話中でしたので、勝手ながらお部屋までお運びいたしました。仕分けが終わりましたら、また仰ってくだされ』
「なるほど、そういうことですか」
「それらしく書いてるけど、ただの嫌がらせよ! 嫌がらせ!」
蘭は朔夜から文を奪い取るように、びりびりに破いた。
嫌がらせの証拠に、羽令のものだったならきっちり整理された状態で保管されているはずだ。仮にも一国の主で、陰陽術士でもあった父がこうも乱雑にしているはずがないのは、蘭にも分かる。
蘭は羽令の正室の娘、跡取りとしての血筋に問題はない。弟のように病弱なわけでもない。足りないのは、陰陽術を行使する霊力だ。妖や異形を退治する術、陰陽術を使えることが国主一族の証でもある。妖の数が減り、今では見かけることのほうが珍しい。その力の源となる霊力は代を重ねるごとに弱くなり、今では簡単なまじないや祈祷、占を行うのが精一杯という国主ばかりだ。
それでも、まったく術が使えないのはごく稀だ。さらに蘭は政がどうにも苦手だ。それもあってか、風当たりが厳しかったころもある。羽令の口添えで、今でこそ言われなくなったけれど。
蘭も道理でさっきの話し合いでは、いつもより人数が少ないと思った。多少は何か用事で来ていない者もいただろうが、それにしては少ないような気がしたのだ。あの場に来なかった何人かは、書物や巻物を蘭の部屋へ運びこんでいたに違いない。
蘭は破いた文を畳へ投げつけ、適当な一冊を手に取って考え始める。その様子に朔夜が問いかけてきた。
「……やるんですか? てっきり抗議に行くかと思いましたが」
「やらなきゃ、寝られないでしょう。さっきの今で、抗議に行ってまたぐちぐち言われるのも飽きあきだし」
「どのように分けるんですか?」
蘭は人差し指を顎に当てる。
とりあえず寝る場所だけでも確保したい。他に部屋がないわけではないが、やはり慣れた自室が一番だ。
「そうねぇ……分野別、それなら水樹も選びやすいでしょうし。暦、占、史記、神話……詳しい内容までは無理だけど、何について書かれてるのかくらいなら私にも解るから」
水樹。先ほどの話し合いで出た蘭の弟だ。病弱で床につくことも多いが、陰陽術を使うに必要な霊力は持っている。蘭も多少は勉強した。仮にも羽令の娘だ。霊力はなくとも、そのくらいは分かるようにならなければ、なおさら黒基の姫とは周囲も認めない。
蘭の言葉に、朔夜も近くの書物を手に取る。
「では、早々に終わらせましょう。お手伝いいたします」
朔夜も陰陽術士、任せて問題はない。
「……うん、ありがとう」
嬉しかった。守り役と二の丸の警備の任務についたころから、どこか遠くなってしまった彼が、昔と変わらず隣にいるようで。
守り役といっても形だけのものだからと、父も朔夜も当時言った。けどその形だけが、こんなに違うと、蘭は思わなかった。呼び方が違うだけで、少し距離が違うだけで、寂しさを覚えてしまうことがある。見た目には変化がないように見えても、心の中は違う。僅かな変化がこんなにも違いを感じてしまうのだ。
こんな時期だからか些細なことで、朔夜が守り役を正式に務めるようになる前をよく思い出す。父が生きていて、まだ自分も決断を猶予されていて、朔夜がいつもそばにいた。居心地よく、暖かなころ。
呼び名や形式が変わっただけで、本質は変わっていないと蘭も内心思っている。でも時々、こうした僅かなことが何より嬉しい。臣下であろうとするなら、肩入れするのは周囲からよく見られないだろう。まして出会ったから最初から守り役だったわけでもない。戦の終わり、十年前ある山道で出会った彼は幼馴染、兄にも近い存在になった。それは皆知っているために、けじめが大切なのだ。
それは朔夜も百も承知で、それでも手伝うと言ってくれたことが嬉しかった。だれが敵にまわっても自分だけは味方だって言ってくれたような気がしたから。
――なんて、私らしくないかな。
羽令が亡くなって、周囲の環境が変わろうとしている。だからきっと、変に感傷的になってしまっただけだ。
「いた……っっ!」
ふと指先に痛みを感じ、蘭は意識が引き戻される。
指先に目をやれば、人差し指から血が滲んでいた。書物の端で切ってしまったのだろう。
朔夜は蘭の声に振り返った。膝をつき、心配そうに血が滲む蘭の手をとる。
「蘭、大丈夫ですか? 切ってしまったんですね」
「大丈夫よ、このくらい。すぐ治るわ」
あははと明るく笑い、朔夜の手をほどく。浅い切り傷やかすり傷くらい慣れている。武術は苦手だがあちこち走り回るせいで、よく傷を作っているから。衣を縫おうとして針で刺したり、野菜を切ろうとして包丁で指を切ってしまったり。掃除をしていると必ずどこかぶつけて、痣を作ることもよくある。
「いけません、蘭。黒基の姫ともあろうものが」
朔夜は強引に蘭の手首をつかむと、血の滲んだ人差し指をくわえた。
「な、なっ……!」
朔夜の行動に蘭は、目を見開いて驚く。その後は羞恥も相まってか、声にならなかった。薄い唇も、端正な顔も、黒水晶のような瞳も、癖のない黒髪も、全て見慣れている。なのに鼓動が早鐘を打って止まらない。まるで指先から彼の熱が流れてくるようで。
まだ幼い子どもだったころ、一度だけ同じことがあったような気がする。あのころは、こんな風に考えたことなかったのに。
ふいに足音が聞こえる。
朔夜が蘭の手を離したと同時に、障子の影から顔を出したのは茶髪の青年――柊だ。
「やあ、私の姫君。ご機嫌麗しく」
「め、珍しいわね。あんたがまともに縁側から現れるなんて」
まだ収まらない鼓動と、赤くなった顔が分からないようにと蘭は必死で平静を装う。
訪ねてきた柊はよく知った顔だ。むしろ一番顔を合わせたくない時に、狙ったように現れた。理由はもちろん、彼がその縁談相手だからである。そもそも蘭は認めてもいないが、それよりも見られていたら恥ずかしい。
黒に近い茶髪は少し癖があるのか所々はねており、結いあげているが腰に届きそうな長さだ。歳は二十五、灰緑色の素襖に浅黒い肌、無駄のない体躯は青年のそれだ。朔夜より僅かに背丈があり、下がり気味の眦は飄々とした印象を与える。
柊は部屋の状況をぐるりと見回した。
「おや? この状況でいつものように驚かせては、後が悲惨かなと思ったんだけど」
「そんな気を遣うことができることに、びっくりだわ。で、何の用?」
「用がなければ来てはいけないかい? 許婚殿の顔が見たくてね」
蘭へ歩み寄ると、柊は流麗な所作で片手をとり口づける。
蘭は意表をつかれたものの、その手を勢いよく引き戻し顔を背けた。
「だれがだれの許婚よ! 私は嫌だって言ってるでしょ!」
「蘭姫、あまり暴れると崩れますよ」
朔夜の冷静な言葉に、柊に平手打ちを食らわそうとした手を押し留めた。
家臣たちが一番縁談相手として推しているのが彼だ。五、六年前から水面下でその話があり、今ではだれもが許婚だと思っている。当の蘭に限っては、知り合い以上でも以下でもない。だが羽令の死をきっかけに、今や城内のだれもが知る一件となっている。
柊は神出鬼没だ。今回のような訪れの方が、むしろ珍しい。見張りも見回りもいれば、侍女だって忙しなく行き来している。それをどうやって回避して、どこから出入りしているのかと、柊に幾度となく問いつめても、のらりくらりと、いまだに誤魔化されていた。
柊とは正反対の落ち着いた声音で、秀麗な眉ひとつ動かさず朔夜は問いかける。
「……柊殿、何か御用でも?」
「姫君との再会に水を差すなど、君も無粋だな。朔夜」
柊は横目で氷刃もかくやの視線を投げるが、朔夜は気にした風もなく淡々と続ける。
「御用があるなら先に済ませてしまったほうが、再会もつつがなく終えるものと思いまして」
「本当に君は可愛げがない。とはいえ、それももっともだ。蘭姫、朔夜を借りるよ。後でまた会いにくる」
蘭の返事も待たず柊はひらひらと片手をふり、朔夜は軽く会釈してその場を後にした。
「ああ、もう! 人の話くらい聞きなさいっての!」
蘭は手近にあった巻物を投げつけたが、柊は難なく受け止めた。涼しげに飄々とやってのける様は、逆に腹が立つ。蘭は片手をぎゅっと握り震わせ、大きく息を吸い込んだ。
「……こっちは許婚なんて嫌だって何年も前から言ってるでしょうがぁぁぁーーー!」
朔夜は柊の後をついて歩きながら、空を見上げた。陽射しもきつくなり、極力物陰を選んで歩かないと日干しになってしまいそうだ。他国から来た者には黒基が北方に位置するだけあって、夏の気候は涼しいほうらしい。だが何であれ、暑いことに変わりない。
見回りの侍や侍女とも何度かすれ違う。朔夜は軽く会釈したが、柊は侍女たちに手を振っていた。
朔夜は柊の後をついて歩きながら、己の失態を思い返していた。
――俺はなんという真似をしたのか。
自分は一家臣であり、当人こそ認めていないが蘭には許婚がいるというのに。周囲に人がいなかったのが幸いだ。だれかに見られていたら、それこそ大騒ぎになっていただろう。
主と家臣であることを理解はしても、感情がついてこない。ここは温かで優しい場所、それを守りたかった。それでも捨てきれないものがある。だから様々なものを天秤にかけ、家臣であろうと決めたのは自分だ。
蘭が十歳にも満たないころ。一度だけ状況も切った箇所も違うが、同じようなことがあった。あのときは、傷自体は今回と同様浅かったが、やけに泣いてしまったのだ。そんな蘭を泣きやまそうとしてのことだった。思ったとおり、驚いた顔をして涙も止まった。
ある山道でどこのだれとも知れない自分に、手を伸ばしてくれたのは七歳の少女。陽射しが柔らかな金の髪に反射して輝き、大きな藍色の瞳が心配そうにこちらを見上げている。その光景を今も覚えている。
彼女が黒基の姫と知った時は戸惑った。黒基に抱いていた感情とは正反対の、彼女の温もりが優しかった。気づけば心に負った痛みすら、真綿でくるむように癒してくれた。
それを彼女は知らない。何も敵を倒すだけが強さではない。心の強さもある。いつか教えることができたらいい。いつか心から感謝を伝えられたらいい。そう思って、もう数年が経つ。
告げる機会がなかったとは言わない。自分がうまく言葉を見つけられなかっただけだ。今もどう伝えればいいのか分からない。せめてもう少し器用であったら。こんな時、柊ならもっとうまく立ち回れるのだろう。
初めて会って十年、蘭も十七になった。もう小さな妹ではない。そう考えるのは周囲の目よりなにより、心にある己の感情を自覚しているからだ。
それでもここしばらくの彼女は、時間があれば考えこんでいた。本人は普段どおりを装っているようだが、無理して笑っているようにさえも見える。
今日も平気そうにしていたが、決して顔色はよくなかった。多分蘭は自覚すらしていなかったはずだ。それを指摘すれば、蘭は"大丈夫"と言って笑うのだ。そんな蘭を見ていると、つい手を貸してしまう。幼馴染で、妹のような、大切で何者にも代えがたい存在。
確固たる後見のない己が、いま以上は望めないし、なにより望まない。
偶然のようで、必然とも思う十年前の出会いはなにより優しく、暖かな光を今も放ち続けている。
朔夜は柊に気づかれないように、後ろ手に右手をぎゅっと力を込める。
幼馴染で、妹のような存在。それ以上も、以下も望まない。
なのに、まだ彼女の温もりが、指先に残っていた。
「これは君から返しておいてくれるかい?」
その声にはっとして、朔夜は顔をあげる。
蘭が投げてきた巻物を柊は、朔夜へひょいっと投げ渡す。
着いたのは人気がない二の丸の南側。二の丸を囲む櫓には、鉄砲や矢を射るための狭間が多数残っており、戦国の名残を留めていた。その反対、北側に公式な出入り口として薬医門があり、門番も立っている。侍女や家臣、指定の行商人の行き来もある。
朔夜と柊がいる櫓のそばは、人の往来も少なく散歩しながら話をするにはうってつけだ。身分上、柊のほうが上位にある。柊は特に気にしないようだが、朔夜は一、二歩後方をついて歩いていた。
ちなみに蘭の自室は二の丸内の東側。なかでも日当たりのいい場所に位置している。
「ま、なんとかは馬に蹴られるっていうけど、お互いさまってところだよねぇ」
「なんのことでしょうか?」
目も合わさないまま、朔夜は淡々と問い返した。
どこまで知っているのか、気づいているのか、柊の態度は分からない時がある。全てを見透かしたような言動をとるが、肝心なところで誤魔化されるのだ。そうして気づけばいつも、柊は自分の前に立っている。
そんな朔夜の気持ちを見透かしたように、柊はひとつ嘆息すると軽く頭を振る。茶色の髪がそれに合わせ揺れた。
「いや、こっちのことさ。で、本題だけど」
柊の話によれば、近ごろ各地で神隠しが頻発しているらしい。同様に妖を見たという知らせもいくつか入っている。もちろんそれがただの悪戯という線もあるが、神隠しが話に出る時期に一笑するわけにもいかない。
神隠しについても年齢、男女、身分に関係なく姿を消した者が多い。武家の娘も消え、それが運悪く結婚する前夜だったために両家の仲は一気に冷え込んだ、などという笑えない一件もあった。
目撃された場所もいくつか聞いた。治水工事の現場近くであったり、城下町の真ん中であったりとまちまちだ。時間だけはやはり夜、深夜のため多数の人に目撃された事例はない。
目撃した者の話では、ただの黒い影であったり蛇に翼があったり、それこそ百鬼夜行のような一団であったりと様々だ。
数呼吸ほど沈黙が降り、土を踏む足音が響いた。
朔夜が足を止めると、それに合わせて柊も立ち止まり振り返る。
「社や祠が壊されたという話は聞きませんが、今回もその手の類ですか?」
妖が封じられた場所には必ず社や祠、祭壇があるのだ。それらが壊されている場合、妖にかけた封印が破られている可能性もある。
「こっちにもそんな話あがってきてないけどね。少なくともお偉方には、そう考えてる連中がいるってこと」
妖の存在を感じるのは難しくなってきた。それでもなお信じている者もいれば、馬鹿ばかしいと笑う者も増えている。
まるで他人事のように言う柊に違和感を覚えながら、朔夜は顔を向け真意を読み取ろうとじっと見据えた。
同じ現場に立ったことはないが、柊も朔夜も陰陽術士だ。妖をその目で視ていないはずはない。それでもどこか、柊には傍観者じみたところが以前からある
「滅多にある話でもないでしょう」
「そうなんだけど、実際に起きている以上、見えない人たちにはいくら言っても無駄だよ。こちらが無能扱いされるだけだ。身分よりなにより、この手のことは信頼されてる人間のほうが説得力もある。優秀な人間が近くにいるんだから、使わなければ損だろう? 姫の守り役はそう簡単になれるものじゃないからね。妖の仕業でないと分かれば爺どもも納得するだろうさ」
柊が蘭の許婚に選ばれたのは、信じる者とそうでない者、両者の対立があったからだ。彼が選ばれたのも陰陽術を扱える力があり、前の戦の功労者でもある家柄の息子だから。数百年前の鬼との戦以降、陰陽術を崇める心は確かに引き継がれている。
ごく少数ではあるが、本来陰陽術を扱えるのは国主一族のみではない。稀に一般の民にもいる。そうして陰陽術士を輩出した家系は、系図を気が遠くなるほど辿ればどこかに術士だった人間がいるとされている。もっともそれは根拠もなければ、確かめる術もなく、確かなのは現実に陰陽術を使えるということだけだ。
術士としての仕事で表に名前が出ることはない。その数も少なく、口外することも許されていないため、存在自体知る者は少ない。
そんな数少ない存在の陰陽術士が朔夜と柊である。
「神隠しの原因調査、承知いたしました」
妖絡みの一件は、これが初めてではない。以前から事の大小はあれ、確かに起きていた。人間は感じない、知らない、気づかないというだけで。
朔夜は軽く会釈した。断る権利はない。だれであれ陰陽術士ならば、それが仕事だ。
それに頷くと柊は、朔夜より更に数歩先へ足を進める。
「ああ、頼んだよ。姫の身辺はいつも通りこっちで人をやるから心配ない。さて、私は帰るとしよう」
「姫にお会いにならないのですか?」
「気が変わった。君から適当に言っておいてくれ」
柊は振り返ることなく言い置くと、その場を後にした。
同じ頃、蘭は邪念を振り払うかのように、黙々と仕分け作業を続けていた。さっきの朔夜の行動は、何も気にしていない。だって、昔にも同じことがあった。だから気にするようなことじゃない。
ふと蘭の脳裏に黒水晶のような瞳が浮かんで、手を止める。それを押しのけようと首を横に振ると、障子の向こうに人の気配を感じた。
「遅かったじゃない。何話してたの?」
「……城の見回りのことで少し。巻物、置いておきます」
「あ、ありがとう。ごめん」
顔色ひとつ変えず朔夜は答え、柊に投げつけた巻物を蘭のそばに置いた。再び朔夜は仕分けを手伝い始める。
彼の感情は分かりにくい。例えば今の答えが本当かどうか。柊も朔夜と同じ陰陽術士で、妖退治のことでよく話しているのを侍女たちから聞いていた。だから「城の見回り」は嘘だと蘭は思っている。それでも追求しないのは、朔夜や柊が術士の仕事について話したがらないのを知っているからだ。蘭は以前何度か、仕事内容について実際どんなことをしているのか訊いたことがある。だが二人とも表面的なことばかりで、深くは話そうとしなかった。
いつだったか羽令にそれを問えば、こう答えた。
『おまえを巻きこみたくないんだろう。妖を相手にする仕事は、時として思わぬ事態を招く。心配だろうが、黙っていてやりなさい』
以来、気づいていても蘭は知らない振りをしている。無理に訊いて、二人に迷惑をかけるのも本意ではない。
城内には感情が表に出にくい朔夜を、よく思わない者もいる。とはいえほとんどは彼と親しくなるにつれ、理解してくれた人ばかりだ。一部の家臣たちからは、柊よりも信頼されている節がある。
ふと蘭は柊の存在を思い出す。確か、また後で来ると言っていたはずだ。
「そういえば柊は? 今度は屋根の上や床下から出てくるんじゃないでしょうね」
「急用を思い出されたとかで、お帰りになりました」
朔夜の言葉にほっとして、蘭は気が抜けたように肩を下ろす。
同時に頭の隅に押しのけたはずの光景が、再び蘭の脳裏に浮かんだ。朔夜は蘭に背を向ける形で作業を続けているため、顔は見えないし、朔夜からも蘭の顔は見えないだろう。
侍女たちも下がらせているため、蝉の声と風鈴の音のみだ。蘭は早鐘を打つ鼓動がやけに耳につく気がして、ぎゅっと目を閉じると二、三度深呼吸する。
蘭は切ってしまった手を、もう片方の手でそっと触れた。
――こんなに恥ずかしいなんて、昔は思わなかったのに。でも本当は朔夜の温もりが嬉しい。
「姫さま! 大変でございます!」
突然、聞こえた侍女の声に二人は顔をあげた。
縁側に息を切らせて顔を見せた侍女は、よく蘭や水樹の身の回りの世話をしてくれている少女だ。確か蘭と同い年だ。
まだ収まらない鼓動と、赤くなった顔が分からないようにと蘭は必死で平静を装う。
「……何? どうしたの?」
「若君がお倒れに……っっ!」
「えっ!? 水樹が!?」
その知らせに数瞬前の動揺も吹っ飛び、蘭の顔が青ざめた。
「私はこのまま仕分けを続けております。蘭姫、どうぞ若君のもとへ行って差しあげてください」
「ありがとう! じゃあ、ちょっとだけお願い!」
朔夜の答えに丸い目をさらに見開き、笑みを浮かべたあと、侍女を置いて蘭は駆けていった。
黒基城の二の丸は、国主の家族が住む居住区が二棟、国主が家臣との接見や政務での利用が主となる大広間。朔夜のような城の警護、姫や若君の守り役が主となる武士や足軽の詰め所、台所と大きく分けて五つの建物からなる。台所以外全て、廊下や縁側で繋がっており、よほどでなければ庭を歩く必要はない。
蘭の部屋と水樹の部屋は別棟で少々距離がある。蘭は気が急いていたのか、他人の目など気にせず、把握している最短距離を足早に駆ける。
道すがら目に入った人影に、蘭は足を止めてしまった。
異母姉妹の雪葉。すでに国内の臣下の家へ嫁いだ身だが悲報を聞き、里帰りしている。
姉にあたるのは二人、その一番上が雪葉だ。妹はひとりいる。もちろん母親が違い、雪葉以外は嫁ぎ先に戻っていった。羽令の葬儀も終わったので、雪葉も帰る頃合のはずだ。何か用事でもあるのだろうが、それは蘭にも知りようがない。
二十ニ歳、黒髪で首の後ろで括る下げ髪だ。少し緩くしてあるのか、肩のあたりで半円を描いている。その名のとおり雪のように白い肌、上がり気味の眦は、張りつめた琴線のような印象を与えていた。淡色に青い小花を散らした打掛を羽織っている。武術も姉妹のなかでは一番だ。
正室の子が跡取りとなるのは慣例。正室に子がいなければ、側室の子である雪葉たちにも継承権がまわってくるが、蘭も水樹もいる。たとえ霊力を持ち、陰陽術を使えたとて彼女たちに権利はない。
蘭は霊力を持たないために、小さなころは羽令と血が繋がってないのではと、そんな噂がまことしやかに流れた。だがそれも昔のこと、気にする必要はない。
羽令は主だった家臣、側室、子どもたち全員を集めて話したことがある。
『霊力がなくとも、この国の姫であろうとなかろうと、蘭は我が娘。それを何人たりとも否定はさせぬ』
以来、表立って噂をする者も減り、陰口をたたく者も減った。それでもなお、蘭を認めない者はいた。
そのひとりが雪葉だ。
相手が雪葉だからといって、怖気づく必要はない。普段どおり軽く会釈して、通りすぎる。それでいいはずだ。
すれ違いざまに聞こえたのは、突き刺さるような姉の声音。
「……柊殿との縁談、今も渋っていると耳にしましわ」
「姉上、何をおっしゃりたいのですか?」
蘭はぴくりと眉を跳ねあげ、立ち止まり振り返った。
父がいなくなったからといって、怖がってはいけない。怯えてはいけない。
――私は私。黒基国主、羽令の娘。それを私が疑ったら、父上が悲しむから。
「この国の姫たる自覚があるなら、この縁談を受けるべきだと言っているのです。国主の血筋たる証がないのだから、あなたに拒否する権利がないことくらい解るでしょう」
「証が家族の間に必要ですか? 父上が亡くなられた今、それが最善かもしれませんが、それとこれとは別。葬儀後の雑務と喪に服すため、今しばらくそのようなお話は御無用に願います」
蘭はできるだけ平然と、雪葉の目を見返しぴしゃりと言った。姉の言葉を待たず、軽く会釈し足早に水樹の部屋へ向かう。
まだ少し鼓動が早い。朔夜に対するものとは違う、恐怖や怯えからくるものだ。深呼吸しながら、蘭は胸元の衣を強く握る。
雪葉が言ったことも、決して間違いじゃない。黒基を、一国を背負うと決めたその時は、柊との縁談を受け入れざるをえないだろう。でもそんなものが欲しいわけじゃない。それを「逃げだ」と、ある家臣に言われたこともある。あの時、真っ向からその言葉を否定しきれなかったのは、今も悔やんでいる。
でもまだ、心の整理をしきれていない。だからもう少しだけ、時間が欲しいと蘭は思っている。
蘭は水樹の部屋の少し手前で立ち止まり、息を整え姿勢を正し再び足を進めた。
あの子には、特に心配かけたくない。
つい今さっき駆けこんできたばかりを装い、蘭はすぱんっと障子を開けた。
「……水樹! 大丈夫なの!?」
「姉上、来てくださったのですか」
いきなり開いた障子に目を丸くした水樹は、姉の姿を見るとゆっくりと体を起こす。
それに慌てた蘭は彼のそばへ寄り、再び寝かせた。
「当然でしょう! ああ、起きなくていいわ」
黒髪に丸い瞳と輪郭、幼さを残した顔立ち。だが病弱なため、外出が少ない水樹の肌は白く華奢な印象を残している。淡色の小袖を着て、袖から見える手は同じ歳の男の子より明らかに細い。髪色が蘭と水樹で違うのは、両親も父と母で色が違ったからだ。羽令が鮮やかな向日葵色だったが、弟は母親の血を継いだらしく黒だ。
羽令と蘭では、髪の色合いは似ているが、蘭のほうが薄く柔らかな印象を持つ。
「姉上も心配性だなぁ。ちょっと目眩がしただけです」
「本当に? 熱は?」
蘭は水樹の額に手をあてた。
「ないです。冬も大げさなんだから」
水樹が障子の向こうに視線を向けたため、蘭もそちらを見ると先ほど水樹が倒れたと知らせてくれた侍女が控えていた。冬というのは、あの侍女のことだ。年下の主の言葉が聞こえたか、居心地悪そうにおろおろしているのが影の動きで分かる。
水樹の様子に肩を撫でおろした蘭は、嘆息し改めて周囲を見た。
部屋の造り自体は蘭の部屋と変わらない。ひとつ違うのは書物の多さだ。病弱だが霊力があり、本人も学問が好きなため毎日読んでいる。少し畳を踏んだら崩れそうとまでは言わないが、綺麗に整理され積まれた書物は部屋の半分を占領していた。
蘭が来る直前まで読んでいたのか、水樹の枕元にも開けたままの書物が二、三冊置かれている。
蘭は水樹の頭を数度撫でた。
「学問もいいけど、あまり根を詰めすぎないようにね」
「姉上こそ柊とは……どうなさったのですか?」
蘭の手が離れると、心配そうな目を向け水樹は訊き返してきた。
十歳、そのはずだが水樹は時々大人びたことを訊いてくる。元服を行う年齢は十歳から十三歳のため、おかしくはないだろうし、場合によっては褒められてもいいことだってある。だが姉としては、そういったことに関らせたくないのが本音だ。体が弱いのに無理はさせたくない。おそらく蘭が言えば、政務だってこなそうとするはずだ。実際にやりたがっている節があるし、そんな勉強をしているのを見てもいた。
無理はさせたくない。だからこそ、許婚の一件もいつまでも嫌だとは言い通せない。
――私が父上の跡を継げば、水樹に負担が掛からないで済む。
だから余計に迷う。でも水樹には、それを知られたくない、その迷いを知ってほしくない。知れば自分がやると言いだすから。
蘭はできるだけ平静を装い、笑みを浮かべる。
「どうって、いつもどおりよ。形式上は許婚でも、あいつはただの知り合い。それ以下はあっても、それ以上はありえないわ」
「無理はなさらないでください。僕は姉上にそんな結婚してほしくないんです」
水樹は蘭の衣の袖をそっとつかんだ。
大人びた言動をしても、こうして袖を握る手は小さい。時折見せる笑顔も、幼さが目立つ。
水樹の手を袖からそっと離し、蘭は優しく握り微笑む。
「大丈夫! 無理も何も、私の性格知ってるでしょ? 嫌なものは嫌だって言ってるわ。水樹が心配することじゃないし、少し眠るといいわ。なんであれ倒れたことに変わりはないんだから」
その言葉に二、三度蘭を見返したものの、水樹は頷いた。しばし傍についていれば、すやすやと寝息をたて始める。それを合図に、蘭はそっと部屋を出た。
雪葉は廊下の柱の影から、蘭が去った方向を凝視した。
偶然通りかかった侍女がこちらを見るが、関わるなと睨み返せばそそくさと立ち去った。
風が吹き、肩にかかる髪と打掛の袖が揺れる。きいっと床板が鳴り、雪葉は力いっぱい柱を叩いた。じんじんと伝う痛みすら感じないほど、心内で溢れていくものがある。
欲しいと願ったのは、地位でも名誉でも金銭でもない。たったひとりの心だ。それをあの子はいつの間にか、その手にしている。
何よりあの子は、そのことに気づいていない。それがまた一段と腹立たしくて。
昔は灰老との国境となっていた城へ嫁いだ。けれど今もまだ、心に残る想いがある。
あれはあの人がこの国へ来て六年近くがすぎたある日。嫁ぐと決めた日に、あの人がくれた言葉が今も心にある。
……――心よりの忠誠を。
そう言って、深く会釈したあの人の顔が今も思い出される。
母の身分と側室の子ゆえに、幼少を町外れの邸で過ごした。異母姉妹でも姉であるがゆえに、長姉としての所作言動を求められてきた。だからだろうか、だれがどんなことを言っても、全てそこに裏があるような気さえして。そんななかでひとりだけ、真っ直ぐに自分を見てくれた。
だからあの人の心が欲しくて、あの人の温もりが欲しくて。
欲しいのは、それだけなのに。
『贄を差しだせば、願いを叶えてやろう』
あれは甘い誘いだった。願いを叶えてくれる社があるという、よくある言い伝えを好奇心で探したのが始まりだ。場所も嫁ぎ先の城から、そう遠くなかった。山奥、人が踏み固めた登山道から横に逸れ、獣道へ入る。そうした道の脇、木々や植物に隠れるように小さな社があった。
ひっそりと建つ社は、長年の風雨に晒された跡がいくつも残っていた。赤い屋根だったそれは泥で汚れ、木材が腐ったのか黒ずんでいる部分もあった。短いながらもしめ縄が社の柱を結び、吊ってある四手は端々が破れ、茶色く変色している。
そこで聞こえた声は、人ならぬ者の声だった。
『叶えてやろう、その願いを。おまえが望む世界で、望む形で男のそばにいさせてやろう』
愛してさえいる。今の夫より、遥かに愛している。
そのまま想いを口にすることを、躊躇ってしまった。もし嫌われたらと怖がってしまったから。
あの言葉が私を認めてくれた気がしたから。
そして今、あの人を手に入れるためには、あの子が邪魔で。
だから、だから。
私の全てをあげるから、あの子を殺して。
そう懇願したのが、数ヶ月前のことだった。