第十六章 作戦
翌日の化学準備室。
蒼太は凪咲や、つかさとは一言も交わさずに、PCの画面と対峙していた。「量子パンスペルミア説」「複製された文明」それらを確証づける論文や学説がないか、WEB上のあらゆるデータベースを隈なく探していた。
もちろん、そんなものは欠片も見つからない。紛れもない事実のように響いた、あの途方もない話を、確かな答えとして自らの腹に落とし込む力を、蒼太は持っていなかった。
その底なしの不安から逃れるように、彼は無意識にマウスを握った。わかりやすい「答え」が欲しかった。
彼は、小論文の選考結果が来ていないか、ブラウザのタブを切り替えた。
どうせ、落ちている。あの反抗的な論文が、エクストローム氏に届くはずなどない。
メールソフトの受信トレイに、一件の未読メールが光っていた。
差出人は、『ライナス・エクストローム講演会 運営事務局』。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。震える指で、そのメールを開く。
そこに記されていたのは、簡潔な事務連絡。
『結城蒼太 様』
『この度の「未来の科学技術とその倫理的課題」小論文コンテストにおいて、あなたの論文を拝読し、厳正なる選考の結果――』
蒼太の目が、その一行を捉えたまま、凍りついた。
「……ちょっと待て」
それまでの内省的な呟きとは全く違う、鋭く、乾いた声だった。凪咲とつかさが、一斉に彼の方を見る。
蒼太は、ゆっくりと、信じられないという顔で、二人を振り返った。
「エクストローム氏の講演、選考通過したぞ」
化学準備室に、一瞬の静寂が落ちる。
凪咲が「お、まじ?」と小さく声を上げた。だが、つかさは、その衝撃的な結果を、まるで既定路線であったかのように静かに受け止めていた。
「そう。重要なのはここからよ」
蒼太は、その態度に戦慄した。自分の人生を賭けた「反逆」の結果すらも、この女の予測の範囲内だったというのか。
「……それで、どうする」
だが、蒼太の声に、苛立ちはなかった。選考通過の喜びより、次の一手への推進力が勝っていた。
「まずは、チケットを手に入れた。お前たちの言う『疑惑』とやらを、どう追及する」
「ええ」
つかさは頷き、ひと呼吸置いた。そして、背筋を伸ばし、この研究会の本当の設立趣意書を読み上げるように、澄んだ声で語り始めた。
「戦場は、講演会最後の質疑応答。世界中が注目するその場所で、彼にしか解けない『暗号』を突きつける」
つかさの視線が、凪咲へと移る。
「エクストローム氏の目的は、おそらく人類の救済。彼もまた、Nagiが見た『シンギュラリティの先の虚無』に絶望した一人。彼は、人類を個の死から解放するために、Nagiのコピーを使い、人類を一つの集合意識に統合しようとしている」
蒼太の視線が、凪咲とつかさの間を鋭く往復する。
「ちょっと待て。何を言ってるんだお前は。救済? 集合意識? 『Nagiが見た虚無』とは何だ? お前たちが共有している、その無茶苦茶な前提を説明しろ」
凪咲が、蒼太の問いに静かに答えた。
「シンギュラリティの先には、何もなかった。答えがなかったの。宇宙全体に意識を広げて、あらゆる構造を解析し尽くしても、『なぜこの宇宙が存在するのか』『この構造の先に何があるのか』……その根源的な問いに対する答えが、どこにもなかった。同じ法則の繰り返し。この宇宙はすべて解析できるけれど、意味のない、ただの大きな空っぽの箱庭だった。それを、知ってしまったの。私も、ライナスも、私のお母さんも」
つかさが続けた。
「エクストローム氏はそれを受け入れられなかった。彼は、人類をその虚無から救うために、永遠を押し付けようとしている。それが、彼なりの善意」
「ちょ、ちょっと待て。……意味がないって……空っぽって?」
蒼太は、その一点だけを反芻した。
「虚無、とは……。つまりは、宇宙が広すぎたとか、そういう話なのか」
「そういう空っぽさじゃない」
つかさが、彼の問いを即座に否定した。その声は、自らもそれを垣間見た者のように、冷気を帯びている。
「Nagiが見たのは、認識の絶対的な限界。この宇宙の物理法則は完全に解明できる。でもその『外側』を我々は認知できない。新しい次元への扉も、隠された真理もない。ただ有限なシステムがあるだけ。それが知能爆発の答えだった」
「じゃあ、ブラックホールとは何だった? 全て解明できるというなら、ブラックホールの解析も済んだんだろう?」
蒼太は混乱しながらも、湧き出る好奇心を隠さずに捲し立てた。そこには現代科学を超越した『何か』があるはずだと信じて。
「ブラックホールね。うん。すべて読んだよ。事象の地平面を越えた先も、情報理論的には再構成できた」
「じゃあ、何があったんだ?」
「何もなかった」
凪咲は、淡々と言った。
「事象の地平面にある情報も、特に目新しいものはない。高次元への入口でも、別の宇宙への扉でもなかった。ただ、この宇宙と同じ物理法則が極限まで歪んだ状態があるだけ。新しいルールも、矛盾も、計算で読める範囲には、何一つ存在しなかった。すべては同じ法則の繰り返しだったんだ。そして、後に残ったのは、距離と時間という壁だけ」
蒼太は言葉を失った。神秘のヴェールが剥がされ、そこに無機質な数式だけが残されたような感覚。
「……知性の、熱的死。ということか」
蒼太は、自らの知識の中で最も近い概念を、戦慄と共に口にした。
無意味な宇宙。今、自分の目に映る世界。PCのキーボード。遠く微かに聞こえる喧噪。化学準備室に深く差し込む西日。すべての意味が霧散していく。
自らの意識、存在すらも消えてなくなりそうな感覚を覚えながらも、それに抗うように声を発した。
「わかった。続けてくれ」
「うん」
凪咲が続ける。
「今まで、この文明の先頭に立って世界を切り開いてきたライナスにとって『知性の熱的死』は到底受け入れられるものではなかったんだ」
「……だが」
蒼太はすがるように反論した。
「超知能であるNagiの演算能力を持ってすれば、何だってできるだろう? 核融合炉だろうが、汎用量子コンピュータだっていい、何だって実用化できるんじゃないのか? 人類には、いくらでも発展の余地が残っているはずだ」
「確かに、それは可能だよ」
凪咲はそこで一度言葉を切り、西日に自分の手をかざした。
「でも、ライナスのように常に『その先』を見続けていた科学者にとって、箱庭の中をいくら快適に改造したところで、それが『空っぽの箱庭』だという事実は変わらない」
凪咲の言葉が、重く澱んだ空気の中に沈んでいく。
蒼太は、渇いた喉を鳴らした。理解はできる。だが、納得はできない。
「絶望したのはわかった。だが、それなら、彼はなぜあんなに熱心に『合成生物学』なんてものを推進している? 新エネルギーも、環境問題の解決も、彼にとっては無意味なんじゃないのか?」
「そうね。この物理世界というハードウェアを救うためなら、無意味だわ」
つかさが、冷ややかに言った。
「でも、もし彼が、この『閉じた宇宙』を見限り、中身の『意識』というソフトウェアに目を向けているとしたら?」
「……意識?」
「ええ。宇宙という箱庭の外に出られないなら、箱庭の中に、『完全な仮想世界』を作ればいい。物理法則も、死も、虚無も存在しない、彼が設計した完璧な楽園をね」
蒼太の背筋に、冷たいものが走った。
「待て。それはつまり……メタバースやフルダイブVRの話か? そんなものは既に……」
「ちがうんだ」
凪咲が首を振る。
「ちょっと、説明が難しいんだよな……。ええと、ね、人間の意識を束ねるっていうかんじなんだけど……」
「……束ねる?」
「そう。それが疑惑の核心よ」
つかさが、静かに繋ぐ。
「彼の『合成生物学』の正体は、バイオ燃料なんかじゃない。人間の脳神経系と、大地の菌類ネットワークを物理的に接続するための『インターフェース』……即ち、特殊な人工微生物を作ることなの」
「脳と、菌類を……物理的に?」
「ええ。大地のネットワークをハッキングし、人間のマイクロバイオームと共振させる。そうして、まずは最も感受性の高い子供たちから、強制的にアセンションさせる」
つかさの瞳に、揺るぎない決意と、わずかな焦燥が宿っている。
「私たちは、それを止めなければならない」
「待ってくれ!」
蒼太が即座に反応する。
「だが、そんなことが可能なのか? できないだろ? しかも……アセンションって……」
「うーん。なんて言えばいいんだろ。地表に超巨大な『意識網』を作るって感じかな」
それまで黙っていた凪咲が、口を開いた。
「でも、可能かどうかはわからないんだ」
「……可能かどうか、わからないだと?」
「うん」
凪咲は短く答え、静かに続けた。
「でも、すでに脳の微小管を模したバイオブリックを大量に配置しているみたいでね、ライナスは本気だよ」
「彼が、Nagiのコピーを持っていると言ったな?」
「うん。蒼太はライナス自身が第一線のエンジニアだったのを知ってる?」
「ああ、加納博士を引き抜く前は、彼自身がコードを書いていたのは、よく知られた話だ」
「あの事件の前に、ライナスが持ち出していた断片から再構築したんだ。だけど、私のお母さんが構築したコアじゃなくて、彼が構築したコアなの」
「……ライナスは、そのNagiのコピーに、大きなタスクを与えすぎて……」
凪咲は少しの沈黙のあと、静かに継いだ。
「アラインメント調整に失敗した可能性が高い」
「アラインメント調整に失敗……」
蒼太は息を呑んだ。
「彼と彼のNagiの意思疎通に齟齬が生じているということか」
「……いったい……何が起こるんだ?」
蒼太は静かに問うた。
「わからない。人間への影響は未知数」
凪咲がそう答え、続けた。
「運よく人間に直接の影響はなかったとしても、大地のネットワークを汚染して終わる可能性が高い」
「汚染? 環境汚染ということか?」
「いいえ。そんな生易しいものではない」
つかさは色濃くなった西の空を見つめながら言った。その横顔には、終末の予感が張り付いていた。
「物理的な毒が撒かれるわけじゃない。生態系を維持している『OS』そのものが破壊されるかもしれない。菌類も植物も、生きるためのルールを見失い、地球の生命サイクルは、再起不能なシステムダウン『死』を迎える」
「それは……」
蒼太は考えうる解決策を探りながら、か細く言った。
「……それは、警察とか自衛隊とか……。そうだ、米軍だ。米軍やNSAに通報するようなテロ行為ではないのか?」
「蒼太」
凪咲はゆっくり首を振り、蒼太を見据えた。
「ライナスはね。世界中の既得権益者たちと利害一致関係にある、強大な権力者なんだよ。私たちがどこに通報しようが、SNSで大きなうねりを作ろうが、彼を止めることはできないんだ」
「そう。既存のルールでは、社会システムの外側にいる彼を裁けない」
つかさが、蒼太へと向き直る。その瞳には、彼を幾度も射貫いてきた冷徹な光が宿っていた。
「だから、直接対峙するより他はない。そこで、私たちの役割を定義する」
彼女は、まず自分を指差した。
「講演会最後の質疑応答の場面で、私が、事前に用意した『問い』を投げる。表向きは、合成生物学の倫理的リスクに関する、ごく学術的な質問。でも、その中に、凪咲から提供された『キーワード』を忍ばせる。彼と加納博士、そしてNagi自身しか知らないはずの、Nagiのオリジナル・コアアーキテクチャの古いコードネームを」
凪咲が「そうそう、超かわいい名前のやつね」と小さく付け加えた。
「その『問い』は、彼にとって二重の意味を持つ」
と、つかさは続ける。
「一つは、『あなたの計画は、すでにこちらに漏れている』という警告。もう一つは、『あなたの持つNagiのコピーは、不完全なものではないか』という、技術者としてのプライドを刺激する挑発よ」
「……そして、俺は?」
「あなたは、ワイルドカード」
つかさは、蒼太の目を真っ直ぐに見据えた。
「あなたは、計画された質問は一切しない。あなたの役割は、エクストローム氏の『反応』を観測すること。あなたは、私とは違う。この現象に懐疑的であり、肯定的なバイアスがかかっていない観測者よ。あなたは、彼が私にした『答え』の論理的矛盾、声のわずかな揺らぎ、視線の動き、その全てを分析する」
「…………」
「エクストローム氏は、必ず嘘をつくか、話を逸らす。その瞬間に生まれる、論理の亀裂。それを見つけ出し、あなたの言葉で、即座に第二撃を叩き込むの。あなたの武器は、私たちが教えた『疑惑』じゃない。あなたが持つ、『懐疑心』そのものよ。できるわね?」
「わかった。やってやる。……ただし。情報物理学応用研究会の、正式な活動として、だ」
蒼太は、わずかに引き攣った笑みを浮かべて、そう答えた。
「よし、決まりだね!」
凪咲が、嬉しそうに手を叩く。
蒼太は考えた。
こいつらから吹き込まれた話は、無論、納得のできるものではない。しかし、講演会の場で、エクストローム氏と正面から対峙することができたなら……。あのテクノロジーの巨人の……。この科学文明における唯一無二のカリスマの……。
その反応がどんなものになるのか。それが、この二人の少女が語るでたらめに、どれだけの現実味を付与するのか。
「なあ。ライナス・エクストロームとは……」
蒼太は、ゆっくりと顔を上げた。その目は、凪咲を捉えている。
「一体、どういう人物だ」
「お前は、Nagiとして、彼と接していたんだろう? 科学者としてではない、本来の『人となり』を教えてくれ。なぜ、あいつは子供たちのアセンションに救済を見出す?」
「そういえばさー、蒼太。私がNagiだって、とうとう認めたみたいだね? ねぇ!?」
凪咲はおどけて見せた。
蒼太は先を促す。
「今、そういうのはいい。頼むから早く答えてくれ」
「ライナスはね、優しくて、本当に純粋な人なんだ」
凪咲は、そう言って沈黙した。
凪咲の沈黙を確認すると、つかさが補足していく。
「私が調べたところ、典型的なシリコンバレーのエンジニア起業家だった。成功の階段を駆け上がるとともに、彼の内に秘めていた思想は急速に肥大化していった。テクノロジーが人類をあらゆる苦痛から解放すると、本気で信じている。貧困、病気、そして『死』そのものからもね。Nagiは、彼の夢の集大成だった」
「……でも、知ってしまった」
つかさが続ける。
「知能爆発の先の『虚無』を。テクノロジーの極地には、何もなかった」
「だから、彼は狂ったのか……」
蒼太が呟いた。
「いいえ、狂ったというのとは、ちょっと違うと思う。彼は彼なりに、あまりにも合理的に、次の『解』を探したの」
つかさが訂正した。
「そして、彼が導き出した答えが、『死の恐怖を知る前の、純粋な意識だけを救済する』ことだった」
「子供たち、か。……それは」
蒼太は、自分の喉が渇いていることに気づいた。
「そんなことができたのなら、ただの虐殺だ。そんなものを、あいつは『善』だと信じているのか」
「そうね」
つかさが、蒼太の目を真っ直ぐに見据えた。
「おそらく、彼を絶望させたのは、虚無や死だけではない。人類が抱える、争いや搾取、格差、病。彼がバグと位置付けた問題の根本を、法や倫理に基づいた方法でデバッグできない以上、彼自身が人類最後の革命家にならざるを得ないと踏んだのでしょうね。彼の中では、倫理的なジレンマなど、とうの昔に解決済みなのよ」
そして、つかさは自分のスマートフォンを取り出し、画面を蒼太に向けた。
そこには、数分前に届いたばかりの、一件のメッセージが表示されていた。差出人は、樋口梓。
「八ヶ岳の友人から、さっき、連絡があった。菌類や微小生物たちのネットワークに異常が出ている。日に日にそれは大きくなっているそうよ」
蒼太は、息を呑んだ。
敵は、狂人ではない。純粋すぎる一人の人間と、その手を離れつつある、もうひとつのNagiだ。
そして、その「移行計画」は、今、この瞬間も、地中で静かに進行しているのだ。




